1-1 四乃の女忍者、御影
無限に沸き出る富の国とも称される東の大国、アシハラ。
古代より皇の名を冠する王が治めるこの国では、広大な国土を九つの郡に分け、それぞれを皇の信頼篤い貴族に治めさせていた。
九つの郡は王都である”一陽”から始まり”九陰”まであり、数の小さい都市の方が等級が高く、”一陽”に住むことは多くの民にとって憧れであり、その逆に”九陰”は忌み地とされ、忌避されていた。
ーーそんなアシハラの民が何よりも誇りにしている事がある。
それはアシハラが龍神に祝福された国であり、そこに住まう民は須らく龍神に認められた選民だというものだ。
ーーアシハラの民は飢えを知らず。労苦を知らず。
ーーアシハラの民は幸いである。時折恐ろしい怪異に怯える事はあれど、龍神のもたらす恩恵に比べれば些細な事柄である。
*****
アシハラ王国の北東の郡、四乃。
長い冬が終わりを告げ緑が芽吹く季節のこと、若い娘がひと気の無い街道を疾駆する。
動き易さ重視の藍色の着物に、濃い桃色の帯が映える。
頭の高い位置で二つに結った、長い藤色の髪をたなびかせる娘の表情は険しい。
(ーー確か、悲鳴はあっちの方から……)
娘は名を戸叶御影といい、歳は十六だ。
四乃にある隠れ里の忍である御影は、此処のところ頻発する怪異退治の指令を受け、事の対応に当たっている所だった。
指令にあった巨大なムカデの怪異を火を纏わせたクナイで焼き殺したところ、何処かから耳をつんざく様な女の悲鳴が聞こえて来たのだ。
(ーー全く。いくら忌み地の九陰との境目だからと言って、こう怪異が多いんじゃ落ち落ち散歩も出来やしないわね)
前方に何かから逃げ惑う様な人影がちらほらと見え、御影は懐に忍ばせていた予備のクナイを構えた。
次いで、空いている左手で手早く印を切る。
『ーー隠形の術っ!!』
たちまちの内に御影の姿が消え失せる。怪異に気付かれず接近するための忍の秘術である。
(ーーどうか無事でいて……っ)
心の内で祈り、御影は街道を疾走する。
やがて、御影と人々との距離が縮まり、場の全容が徐々に明らかになる。
それは子供を含む七名程の旅の途中とおぼしき一行と、それを喰らわんとする巨大な人面の大蜘蛛であった。
必死に逃げ惑う中、子供が脚をもつれさせ転倒する。
その子供を庇う様にして被い被さる中年の女性に、大蜘蛛の脚が振り下ろされる。
女性の顔が恐怖に歪んだ、その瞬間。
『ーー迅雷っ!!』
御影の手元から目にも止まらぬ早さでクナイが投擲され、雷を帯びたそれが大蜘蛛の脚に突き刺さる。
大蜘蛛の動きが鈍った。
(ーーよし、効いてる……っ!!)
突然の事に呆気に取られる一行を横目に、御影は高く跳躍する。
大蜘蛛の上空へと舞い上がった御影は腰に差していた小太刀を抜くと、落下する勢いと共に小太刀を大蜘蛛の首の裏側へと突き立てた。
『ーー破魔一閃・昇炎っ!!』
瞬間、大蜘蛛の巨体が燃え上がる。
やがて、大蜘蛛が声にならない断末魔と共に炎の中で息絶えると、最後には焼け焦げた残骸だけが残った。
「ーーた、助かった……?」
そう呟いたのは中年女性に守られていた子供だ。
年の頃は十二歳かそこらといったところか。艶やかな長い黒髪は一つに纏められ、銀の瞳には困惑が浮かんでいた。少女と見紛う可憐な面差しをしているが、着ている着物は男児物の水干である。
一方、大蜘蛛が完全に息絶えた事を確認した御影は隠形を解いた。
突如現れた若い娘の姿に一行は息をのむ。
そんな彼らの緊張をほぐす意味も兼ねて、御影は柔らかに微笑んで見せた。
「大蜘蛛は退治しましたから、もう心配はいりませんよ。皆さん、お怪我などはありませんか?」
御影の言葉に安心したのか、一行は肩の力を抜いた。
「ーー本当に有り難うございました。貴女が来て下さらなかったら、どうなっていたことか……」
中年女性がそう言うと、一行の他の面々もそれに同調する。
「あぁ……。牛車が襲われた時はどうなるかと思ったが、お嬢さんのお陰で命拾いしたよ。本当に有り難う」
「この街道は怪異が少ないと聞いていたのに、まさかこんな事になるだなんて……」
中年女性の話によると、一行は九陰に向かう旅の途中であった様だ。
数年前までは怪異の出る事など殆んど無かったこの街道も、今ではご覧の有り様である。
(ーーまぁ、今では怪異の出ない場所の方が珍しい位になっているけど……)
ふと、御影は水干の少年へと視線を移す。先程から、何やら肘の辺りを押さえている。
御影はゆったりとした足取りで少年の前まで行くと、少年と目線を会わせるべく中腰になる。
少年の銀色の瞳が見開かれ、頬には朱がさした。
「ーー肘、怪我してるの?」
「えっ」
「見せてみて」
何処か緊張している少年の腕を取り、袖を捲りあげると、肘にはうっすらと血が滲んでいた。
先程、転んだ際に擦りむいたのだろう。
御影はおもむろに懐から小さな紙の包みを取り出すと、それを開いて見せた。
「忍の秘薬よ。これを塗ればすぐに治るからね」
包みを渡された少年はまじまじと眼前の御影を見詰めた。
そして一拍の後、少年は口を開く。
「ーー貴女の名前は?」
「私は御影。四乃の忍よ」
四乃の忍、御影。これが運命の出会いとなった。