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よみびとしらず #03 聖子  作者: 艸香 日月
第二章
2/13

 玄庵からこれと言って何の仕事も請け負わなかった雅楽寮では、あの日以来変わらぬ日々が続いていた。

「おはようございます」

 聖子が朝の挨拶をしながら教室内に入ると、既に顔をそろえていた同僚の明子(あきこ)犬千代(いぬちよ)が返事をした。

「おはよう聖子、昨晩も遅かったろう。目の下に隈が出来ておるぞ」

 言われて聖子は目の下を手で覆う。

「目立つかのう」

「なあに、よく揉んでおれば目立たなくもなろう」

 温和な犬千代が言う。ふくよかな顔には、じっとりと汗がにじんでいる。

「嫌じゃのう、人相が悪くなってしまう」

 言いながら聖子は二人が座っている長椅子に腰を下ろした。

「今日は何の曲を演奏するんじゃ」

 机の上に置いた手荷物から自身の龍笛を取り出しながら、聖子が問うた。

「また今度の課題曲ではないかしら」

 聖子の龍笛を見て、かたわらの琵琶に手を伸ばした明子が応える。か細い腕からは想像もできないほど明子の琵琶はよく響く。

「良成師匠は連日泊まり込んで稽古していると聞く。思い入れは並々ならぬものがあろう」

 こちらも手荷物から(しょう)を取り出しながら犬千代が応える。犬千代の演奏には温和な性格とは裏腹に繊細さが見受けられた。

 楽器が出揃ったところで、三名は誰からともなく音を合わせだす。いつも良成師匠が顔を出すまでの半時ほどの間に朝の稽古を終えてしまうのが雅楽寮の常であった。


 良成はこの日も宿舎に泊まっていた。

 お偉方を招いての演奏会の日が迫っている。少しの暇も惜しかった。

 良成は朝日がのぼっても宿舎の一室で、床に広げた楽譜の数々と向き合っていた。

 楽譜を眺めていると音が響いてくる。この日も、いくつかの楽譜を照らし合わせて調子を合わせている最中であった。

「ううむ、どうしてもこの部分が合わないねえ……」

 良成はそうひとりごち、唸って組んだ腕を組み替えた。

 集中力を極限まで上げ、昼夜を問わず楽譜に面している。

 意識はあってないようなものであった。

 その意識を良成がふいに自覚する時、良成はいつも奏君を求めた。

 このところ良成は、なぜ自分がこのように精を出しているのか、自問することが多くなっていた。

 それはつまり妖界への思慕が日に日に募っていることを意味していた。

 出来ることなら日がな一日、奏君とかなでていたい――。

 抱いても詮無い願いと分かってはいても自然と湧いてくる衝動を、良成は自嘲した。

「良成様、お時間でございます」

 部屋の外から定時の声がした。

 外を見ると、もう日が随分高くなっていた。

「これはいかん」

 良成は慌てて出仕の支度を始めた。

 宿舎は大内裏の東の端に設けられている。良成が出向く雅楽寮は南東の端に位置している。

 ばたばたと良成は宿舎を後にした。

 雅楽寮へは大内裏の東の壁沿いに行けば三十間程度である。

 雅楽寮の前には大きな木槿(むくげ)の木が植えてあった。夏に白い花をつけるその木を、雅楽寮に入る前に一瞥するのが良成の日課であった。

 その花は、心なしか他で見るものより大きく見えるのであった。 





 陰陽寮では康親(やすちか)と八郎が玄庵の依頼で仕事を進めていた。

 八郎はまだ陰陽師の見習いではあったが、玄庵から仕事を依頼されたその場に居合わせたことから、康親の下働きとして任を得ることになった。

 八郎の朝は早い。

 「行ってまいります」と言って牛車で家を出ると、方々で方違えをおこない大内裏へ到着する。大内裏の南に位置する朱雀門で牛車を降りると、そこからは徒歩で内裏の南に位置する陰陽寮へと向かう。

 陰陽寮の玄関には、大きな梔子(くちなし)の木が植えてある。梅雨のころに白い花を咲かせる低木で、今頃では既に花びらが落ち地面をまだらに染めている。

 八郎はその低木に小さく「おはよう」と言って陰陽寮へ入っていく。

「おはようございます」

 すれ違いざまに隣の中務省につとめる下人が挨拶をしてきたので八郎もそれに返す。末法の世となって以来、陰陽寮の門をたたく人の数は日に日に増えてきている。

 朝が早いとはいえ既に賑わいを見せる陰陽寮の玄関口を突っ切って、八郎は奥に位置する書庫へ向かう。

 書庫の鍵は開いている。先客がいるのである。それを察して八郎は入り口で大きな挨拶をする。

「おはようございます」

 書庫は太陽の光が直接入らないように作ってあった。間接的に差し込んでくる日差しに室内の埃がにわかに舞う。しんと静まり返った陰の中から元気な返事が聞こえてくる。

「おはよう八郎、今日も早いね」

 師匠の康親である。声の位置から室内の奥の方に座っていると思われた。

 師の声に導かれ、八郎は手荷物を入り口付近に設けられた窓口の裏にある戸棚に押し込み、奥へ進む。

「師匠、何か進展はございましたか」

 立ち並ぶ書架の間に胡坐(あぐら)をかき手元の巻物に目を落としたままの師匠を見やって八郎が尋ねる。

「いや、『夢』に関する記述はこれといって見当たらないねえ」

 康親はそう返しながら顔をあげ眉根を指でつまみ揉む。

 玄庵の異常な夢が果たして何に起因するのか、陰陽寮ではそれを探るためにまずは書物にあたっていた。一言に『書物』とはいっても、陰陽寮の書庫には千を超える巻物が保管されている。よく開くものに関してはおぼろげながら内容を覚えてはいるものの、そうでないものに関しては一々紐解いてみなければ内容が分からない。幸いにも最近では末法の世ということもあり陰陽寮では人手が増えている。昼夜ひっきりなしに訪れる客は他の面子に任せておいて大丈夫であった。康親と八郎は、玄庵からの依頼を受けた日から数えてここ数日、朝早くから書庫にこもり過去の文献を当たっているのであった。

 とはいえ仕事は地味なものであった。一つ開いては、しゅるしゅると紙を進め、一行一行丁寧に読み解いていく。その繰り返しであった。首は凝り、腰は悲鳴をあげた。今日も康親と八郎は書庫の虫となっていた。紙を繰る音と、たまに変える姿勢が出す衣擦れの音だけが書庫の中に響く。

 そろそろ昼を迎えようという時であった。書庫の中に小さく声が響いた。

「あっ」

 それは八郎の声であった。己の目を疑るような、そんな声であった。昼餉に立つのにちょうどいいと、師匠の康親が腰を上げ書を棚に戻し、八郎の方へとやってきた。

「どうした八郎、何か目ぼしいものでも見つけたの」

 大して期待もせずに康親が尋ねる。

「師匠、これを」

 覗き込んできた師匠を見上げ、八郎が目で紙面を指した。

「なになに」

 言いながら康親が開かれている部分を声に出して読みだした。

「”――本日、先の右大臣の妻にあたる宣子をおとずれる。宣子いはく『おそろしき夢を見る。それを喰らう物の怪をも見る。物の怪に問う。汝何故夢を喰ふのか、と。物の怪いはく、「夢」とはこれ、人々の形なき思いの表れである、夢を喰らふ、これ我等の形を明らかにすべし、と。物の怪、それを言ひし後、にわかに雲間にかき消え――”」

 しばしの沈黙が降り、康親が口を開いた。

「八郎、これは当たりかもしれないよ」

 短くそれだけ言って、康親は八郎の肩に手を置いた。

「一歩前進したかもしれない」

 見ると師匠の顔にはわずかに笑みが浮かんでいた。

「ではこの書は置いておいて、ひとまず昼餉にいたしますか」

 八郎はにやりと笑ってそう返した。




 寮内に設けられた食事処で昼餉を終えた康親と八郎は、かねてからの招きに応じる形で雅楽寮へと赴いた。

 雅楽寮に近づくにつれ、様々な楽器の音が拙く途切れ途切れに響いてくるのが聞こえてくる。生徒たちが早くも午後の稽古にいそしんでいるのである。

 玄関前に据えられた木槿の木に咲く白い花々を横目に、二人は雅楽寮の門をくぐる。

「ごめんくだされ」

 玄関口は閑散としている。奥に並ぶ部屋からは楽器の音が、建物の外では蝉の声が重なりして遠くに響いている。

「ごめんくだされ」

 康親に続き八郎が大声で頼んだ。

「はあい」

 言って丸顔をした下女が脇の窓口から顔を出した。

「すみません、うるさくて」

 下女は申し訳なさそうに言って軽くお辞儀をした。

 いいえ、と言って早速二人は下女に案内を頼み、奥に設けてある良成の部屋に通してもらった。

 迎え入れられた部屋には、関係者である良成と聖子の他に二名、明子と犬千代と名乗る生徒が顔を揃えていた。

 良成の言によると、二人は常日頃から聖子の活動に関心を持っており此度参加したいと申し出があったため下働きにでも使って欲しい、とのことだった。

 あまり人数が増えても動きが遅くなっていけない、というのが康親の信条ではあったが、話の流れから康親および八郎は二人の参加を表向きではあるが快く引き受けた。

「では挨拶が済んだところで今日の本題に入るとする」

 言って康親と八郎は今朝方見つけたばかりの書を、問題の文が記されている部分を表にして皆の前に広げて見せた。

「これはこれは」

 思わず良成が唸る。

「書いてある年を見ると丁度四百年前のものにございますね」

 八郎が説明を加える。

「四百年前というと都がまだ大和国にあった頃の話じゃ」

 聖子も師匠に続いて唸る。

「都が移ったのが丁度三百年前のことですから、陰陽寮が建てられるはるか昔の書にございますね」

 それに明子の感想が続く。

「まだ官僚の読み書きも怪しい頃のことでございますね、一体誰の手によるものやら。名はありませぬか」

 犬千代が怪訝そうに尋ねる。

「ええと、書き手の名は……」

 問われて八郎がしゅるしゅると書を手繰る。

「書き手の名は『猫又(ねこまた)』とありますね、また珍妙な。まただけに」

 八郎がとぼけて言う。

 誰もその言に突っ込まない。

 八郎は一人はははと笑った。


 康親と八郎がわざわざ陰陽寮から雅楽寮へ招かれたのには訳があった。

 玄庵から預かった『夢日記』を、良成が持っていたのである。

 八郎のから笑いが空を飛んだため、良成が頃合いを見計らってそれを広げた。

「玄庵殿は一日一日まことに細かく記してございますな」

 明子と犬千代以外はみな目を通していた為、二人に優先して日記が渡された。二人は最初の頁から共に目繰りながら他の者の話に耳を傾けた。

「一つ気づいたことがあるんじゃが」

 聖子が手をあげた。

「多くの夢に似たような所があるんじゃが、気のせいかのう」

 聖子は隣の八郎を見やった。

「それは儂も感じておった。半分ほどの夢で同じような部分がある。文言は異なれど、こう、いい夢も悪い夢も通じて都がすさんでゆくんじゃろうが」

「そうじゃそうじゃ、都がなくなってしまう夢が多い」

「それは皆が気づいていただろう。でも確かに特筆すべき点だから、こちらに記しておこうか」

 言って康親は手元の書に記述した。

「他には何かあるかな」

 康親が促す。

「それでは一つ。これも皆気づいておるかもしれぬが、どの夢も、あまりにも現実味を帯びておる。まるで他人の身を生きておるかのような明らかさよ。それがどうにも不自然でならぬ」

 言って良成は康親の顔を見返した。

「それは私も感じておりました。どこか別の場所で生きている人の目を借りて見ているような」

 康親が続ける。

「そう、それでございます。私もそのように」

「儂も」

 八郎に聖子が続く。

「これは……どう理解をすればよろしいか」

 康親が皆の顔を見渡した。

「あの、文字通り他人の夢を見ているのではないでしょうか」

 それまで犬千代と共に手渡された書に目を落としていた明子が声をあげた。

 皆、はっとして康親の顔を見た。

「なるほど、そう理解すれば腑に落ちる」

 康親は同意を求める複数の目に応えてそう言い、手元の書に続けて記述した。

 

 康親が記述している間、良成は無言で宙を見つめていた。

 『都の転覆』という文言が良成の頭の中でぐるぐるとまわっていた。

「都の転覆といえば、頼明殿は今どうしておられるのやら」

 宙を見つめながら良成は自嘲気味につぶやいた。

 それを聞いて康親が良成に目をやった。

「良成殿、それは」

 『頼明』と聞いて心穏やかにはなれない理由が康親にはあった。

 過去に二度、康親は頼明と対戦していた――。

 一度目はまだ元服前の、幼名の『初春』を名乗っていた時のことである。

 二度目は良成が元服前、幼名の『音若』を名乗っていた時のことである。

 どちの場合も最後は妖界の助けを借りて頼明を撃退したのだった。撃退しこそすれ、頼明は今なお内裏に出入りしている。どうやら殿上人の中に頼明をかくまう勢力があるらしい。とはいえ二度目の対決依頼、頼明は陰陽寮や雅楽寮を避けているようで、関係者の誰も頼明の顔を見ていないのであった。

 良成も、義親と同じように、かつての対戦を思い出していた。良成にとっても頼明は、幼少のころに痛い目を見た憎らしい相手であった。その頼明が今回の件に絡んでいるとすれば――。

「再び頼明殿と刃を交えることになるのやもしれませんね」

 良成は康親に視線だけ向けてそうつぶやいた。


 六名による会合は、夕方になりお開きとなった。

「ではまた」

「何かあればすぐにお知らせします」

 そう言って八郎を引き連れた康親と、聖子他二名を従えた良成は別れた。

 雅楽寮の前で遠くなる康親らの背中を見送りながら、聖子は稽古のことを考えていた。

「良成様、今宵は寮で少し稽古をして帰ってもよろしうございますか」

 良成はこのところ連日泊まり込んでいる。師匠がいるなら弟子が夜遅くまで稽古をしていても構わないのではないか、そう踏んでの発言である。

「ああ、いいよ。火の元だけはしっかりね」

「ありがとうございます」

 そういう訳で、この日聖子は寮に残ることになったのだった。

 後々聖子はこの夜のことを折りに触れ思い出すことになる。





 陽もとっぷりと暮れ、生暖かい空気の中、蟋蟀(こおろぎ)の音がそこここに響いていた。

 雅楽寮には聖子の他に誰もいない。

 聖子は奥から二番目の部屋に陣取り、一人龍笛の稽古に励んでいた。

 すうと息を吸い笛に口をつけると、ぴぃと甲高い音を一つ鳴らす。次は隣の音、その次は更に隣の音。繰り返し繰り返し曲の同じ個所を吹いている。

 それを続けた後、さて曲の初めからゆっくりと音を拾っていく。

 昇って来た月が雲間にあらわれ、笛の音により冴えわたる。

 今宵は満月である。

 曲の後半になるにつれ、息が途切れ途切れになっていく。

 体力がきれ、息継ぎが難しくなるのである。

 聖子はなんとか唇を震わせながら笛を吹き続けた。

 曲も終わりとなると音が細くなり息も絶え絶えである。

 ぴゅいっと最後の音が一音長く鳴り響く。

 直後、辺りは余韻に包まれる。それが薄れるにつれ徐々に虫の声が戻ってくる。

 肩まで細かく震えながら、聖子はおそるおそる笛から唇を離した。

 目をつむり、大きく肩で息をする。

「ふふ、まだまだじゃのう」

 息を整えそうつぶやいた時であった。

「いやいや十分。お上手ですよ」

 声をする方を見やると、寮の縁側、生垣の隙間に、わずかに人の影が見えた。

「どなたかのう」

 笛を右手に持つと、聖子は声のする方へ近づいて行った。

「まだまだ人にお聞かせするには稽古が足りぬのじゃが。いやお恥ずかしい」

「なんの、こうして現れてしまうほどにそなたの龍笛は素晴らしかった」

 声の主は暗闇に顔を隠したまま応える。

 いよいよ聖子は好奇心のまま突き進む。

「顔を、見せてはもらえんじゃろうか」

 聖子はたまらず願い出た。

「なあに、人様に見せる顔ではございませぬゆえ」

 聖子は生垣のこちら側に至った。

 生垣には、人ひとり分の隙間が空いていた。

 あたりは満月の光で青白く冴えわたり、落ちる影は一層濃い。

 影に見ると、声の主は聖子より頭二つ分は背の高い男のようであった。顔は影になり暗闇に沈んでいる。声の様子は壮年のそれである。

「名を、お聞かせ願えぬか」

 聖子が暗闇に向かって言う。

「ほ、ほ」

 男は扇子を広げて口元を隠し応える。

「我の名は、満ちる月と書いて『みつき』という」

 男の声は、景色に溶け込むような静けさを伴って聖子の耳に優しく届いた。

「満月殿か。よい名じゃ。儂は聖子という。ひじりに子供の子じゃ。珍しくもなかろう」

 ぶっきらぼうに笑って聖子は答える。

「聖子殿」

 男の声になると不思議と自分の名が特別に聞こえた。

 聖子は思わず耳をつまみ固唾を飲み込んだ。

「はい」

 上ずった声で答える。

「ほ、よい名じゃ」

 聖子はいよいよ自分が恥ずかしくなってきた。

「さようか、それはよいことじゃ」

 頓珍漢な返事をしてしまう。

 聖子はついに赤面し、うずくまってしまった。

「おや、どうなされた」

 生垣の向こうの男は、扇子で顔を隠したまま目線を聖子に合わせるように膝を折った。

 男と聖子の距離は、今、生垣の厚さしかなかった。

 互いの息遣いが聞こえる距離である。

 聖子は胸を抑えた。自分の心の臓が口から飛び出てくるかと思われるほどの早鐘をうっていた。思わず口を手で覆う。

「なんぞ気分でも悪いのか。どれ」

 男は腕まくりをし、たくましい腕を生垣からのぞかせ、聖子の額に手をやった。

「熱はないのう」

「やめいっ」

 聖子は思わず叫び男の手を振りほどくと後ろへのけぞった。

 勢いでその場に尻もちをつく。

 幸い地面は濡れていない。

 代わりに草の間の蟋蟀がいっせいに鳴き止んだ。

 辺りを静けさが包む。

 月光の下、聖子と男は互いに姿勢を崩さないでいる。


 先に沈黙を破ったのは男の方であった。

「これは済まぬことをした。さあ手を」

 男は生垣から先に手を伸ばし聖子を促した。

「こ、これはすまぬ」

 たじろぎながら聖子は出された手にしっかとつかまり体制を立て直した。

 しかし今度は勢いがつきすぎて前に倒れこんでしまった。

 聖子は思わず手をついた。

 聖子は目をまるくした。

 聖子が手をついたのは男の厚い胸板であった。

 そして聖子の顔は、生垣の穴からのぞき、これも男の胸板の上に着地していた。

 聖子は大きく息を吸った。

 途端に男の衣の薫物(たきもの)が匂いたつ。

 白檀であった。

「す、すまぬ」

 聖子はもう小さくつぶやくしか出来なかった。

 男の顔が、頭上にあった。

 自分の顔は、鏡を見るまでもなく耳まで赤面しているに違いなかった。

 顔をあげることが出来ない。

「これはこれは、ほ、ほ」

 男は聖子と握った手ではなく、扇子を握った反対の手でもって聖子の背をさすってみせた。

 どれくらいの間そうしていたろうか、男は聖子の背をさすり続けていた。

 いつの間にか、聖子はそのまま眠ってしまうのではないかと思われるほど気を楽にしていた。

「さて、そろそろ行かねば」

 男が言って、聖子の背をさすっていた手を引いた。

 聖子は、はたと自分の身を起こして取り繕った。

「さようか。あの、また会えるかのう」

 聖子は自分の言が信じられなかった。

 なんとはしたない事を言っているのだろうと思った。

「ほ、是非に。また笛の音に呼ばれて足を運びますゆえ」

 男は扇子で顔を隠したまま、そう静かに聖子に返した。

 そうして男は月の光が辺りを青白く照らす中、砂利道を鳴らしながらゆらりゆらりと暗闇に姿を消した。

 聖子はその様子を、生垣の隙間からぼんやりと眺めていた。

「みつき殿……か」

 聖子は先ほどまで自分が顔をうずめていた厚い胸板を思い返し、再び赤面するとともに、今度はふうと息を大きく吐き満月を仰ぎ見た。

 そこにはただ大きな夜空が口を開けていた。





 月は人の世の為ばかりに輝いているわけではなかった。

 妖界にもまた、同じ月を仰ぎ見ている者があった。

 彼の名を『明水(みょうすい)』という。

 年のころは老年、六十代半ばである。

「月よ、どうか玄庵殿の身を守ってくだされ」

 そう言い手を合わせると、明水は目の前を落ちる滝の中に身を投じた。

 明水は僧侶であった。

 玄庵との関係は深い。

 二人の関係は、四十年前の対戦時に遡る。

 当時、明水は大和国で見習いをしていた。そこへ一つの野望を抱いた僧侶の集団が現れた。彼らは同士を集めていた。彼らの野望は『山背国に移った都を再び大和国へ』というものであった。明水は彼らの大志に大いに賛同した。彼らに加わり、邪教をも含む不思議の術を身に着けるに至った。そこに一人の青年が現れる。名を『頼明』といった。彼は言った。『野望を実現するには山背国の坊主の血が必要だ』と。皆、はじめは動揺したが、次第に彼の言に流されていった。頼明の野望は『都の転覆』であった。そうとも知らずに僧侶の集団は頼明に率いられ、次々と人を殺めていった。気づけば最後の一人を残すのみとなっていた。その最後の一人が玄庵その人であった。僧侶たちは玄庵をさらった。しかしそれを制する者がいた。それが安倍晴明や初春といった陰陽寮の連中であった。陰陽寮と、頼明および僧侶たちの間で争いが起こった。そこへ物の怪も加わり事態は混乱を極めた。結局頼明らは負け、僧侶たちは都を追われた。そんな明水たち三十二名に住処を与えてくれたのが、当時の玄庵だった。もう人の世には住めぬ明水たちに、玄庵は妖界に住処を用意した。代わりに僧侶たちは玄庵に、秘術を教えることとなった。明水は、玄庵に直接呪を教えることとなった。

 もう四十年も昔のことになるのか。

 明水は滝に打たれながらその歳月を思った。

 先日、果たして、その玄庵が苦難の内にあると妖界の獏に聞いた。

 玄庵のことである、既に事態をおさめる手は打っていると思うが。

 何かあれば言ってこよう。

 明水はそれ以上玄庵の身を案じることをやめ、無心で滝に打たれるのであった。


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