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氷蓮

 

 幼龍の頃、父から聞いていた事がある。


『生涯を共にする番に巡り合った時は、花園の中に飛び込んだかのような得も言われぬかぐわしい香りがする』


 父はそう言い、傍らに寄り添う母を蕩けるような甘い目で見つめながら抱き寄せていた。母もそんな父を優しく見つめ、頬を染めながら父の腕の中に納まっていた。


 僕はそんな両親を誇りに思い、この二人のような夫婦になりたいと強い憧れを抱いていた。

 だが、妹は僕とは少し違う印象を持っていたようだった。


『……父上様ったら、何をいつもやらかしてらっしゃるのかしら』

『え? どういう事?』

『何だか分からないけど、母上様はいつも父上様に対して何か怒ってらっしゃるの。きっと父上様が何か気に障る事を言ったりやったりしてるんだと思うわ、父上様は少々無神経な所があるから』

『む、無神経って……』


 ──今思えば、妹は事の核心を突いていたのだ。女性特有の勘の鋭さなのか、たまたま妹が感受性の高い子だったのかその辺りの事はわからない。けれど、早々に嫁いでいった妹がもし側にいてくれたなら、僕はその後も色々と間違わずに済んだのかもしれない。



 ********



 僕は成人した後、人間達が『神槍山』と呼ぶ岩山の中腹にある屋敷に一人で住んでいた。両親は別の場所に離宮を立て、そこに夫婦で暮らしている。


 適齢期になり、花嫁を選定する時期を迎えた僕は離宮の両親の元を訪ねていった。幼い頃からの夢だった、母上の故郷に花嫁を見つけに行く、と報告する為に。


「え……? 私の村に行くの……?」


 僕の報告を聞いた母は、何とも言えない妙な表情をしていた。てっきり手放しで喜んでくれると思っていた僕は少し戸惑ってしまった。


「はい。僕も父上と母上のような夫婦になりたいんです。ですから、母上の故郷で花嫁を見つけようかと思いまして」

「待って氷蓮。貴方は半龍神なのよ? ここでまた人間の血を入れたら、その子は限りなく人間に近い子になってしまうのではなくて? この東の龍神家には男児は貴方しかいない。家を存続させる為には南か北の龍神家からお嫁さんを募った方が良いと思うのだけど……」


 顎に手を当て、小首を傾げる母はとても可愛らしいけれど、僕は内心不満でいっぱいだった。


「大丈夫ですよ母上。龍神の血はそんなに簡単には薄まりません。僕と人間の娘の間に生まれた子供も、“半龍神”です」

「あら、そうなの……」


 ──結局、母は終始どこか浮かない顔をしていた。父もそんな母の様子に気づいていたみたいだったが「息子をとられる気がして寂しいのだろう」と苦笑いをしていた。


 ◇


 僕は護衛を二人ほど連れて麓の村に降り立った。突然、村の中央に現れた僕達を見て、村中が大混乱に陥っていた。その慌てふためいた姿を見ながら、近くの森で人化してから歩いてくれば良かった、と少し反省をした。


「僕の花嫁を探しに来たんだ。以前も龍神が来たでしょ? じゃあその時と同じように十六歳から十八歳の女の子をここに呼んでくれないかな?」


 既にその近くにいた該当年齢に当たる女の子を見てみたけど、“香しい香り”は一切感じられなかった。この場には、僕の番はいないらしい。


「えーと、その年齢の女の子はこれだけ?」

「は、いえ、あの、その」


 近くに立っていた若い男にそう聞くと、男はこっちが気の毒に思うくらいブルブル震えて蒼白な顔をしていた。その目がチラチラと、とある家に向けられているのが確認出来た。何となく気になり、男を押し退けてその家に近づいてみる。


「ん? 何だこの臭い」


 その家に近付くにつれ、鼻先にツンと来る嫌な臭いがするようになった。あまりの悪臭に耐えられず、僕は思わず足を止めた。振り返ってみると、護衛達も顔を歪めて苦し気な顔をしている。


「……これ、は」


 よくよく見ると、軒先に五色の糸が巻かれた鉄の矢がぶら下がっていた。それは僕達龍が嫌うもの。なぜ、母の故郷にそんなものを軒先にぶら下げたりする家があるのだろう。


 僕はそれ以上その家に近付くのは止めた。代わりに『龍眼』を発動し家の中を覗いた。


「何で、この家に女の子達が詰まってるんだ?」


 中には、数人の十代と思しき女の子達がいた。何だろう。まるで何かから身を守るかのように、身体を寄せ合っている。ふと、横にいる若い男の顔を見た。家の中に一人、この男によく似た面差しの女の子がいる。


「ねぇ」

「え!? は、はい!」

「もしかして、あの中に妹がいたりする?」


 ──瞬間、男が纏う気配が一変した。気弱そうな顔も雰囲気も変わらないのに、ある種の追い詰められた殺気のようなものが感じられた。正直そんな感情を向けられる意味が良くわからなかったけど、何となく気圧された僕はほんの少しだけ後退あとずさった。


「……妹に、何か?」

「いや別に。僕にも妹がいるから、何となく聞いただけ」


 それだけを伝え、僕はさっさと踵を返した。あの中には僕の花嫁はいないみたいだし、もうこの場所にも用は無い。


 歩きだしてすぐ、背後で「お兄ちゃん!」という悲鳴のような声が聞こえた。振り返ると、悪臭のする家の中から飛び出して来た少女が、さっきの男に泣きながら飛びついて行くのが見えた。


 ◇


「……何か、妙な雰囲気だな」


 僕は村を歩きながら、首を傾げていた。ここは龍神の、つまり父上の加護がある村なのにどうも僕達は嫌がられている気がする。例の『五色の糸を巻いた鉄の矢』がぶら下がっている家も幾つか見かけた。


 なぜなんだろう。なぜこの村は、人々は龍神(ぼくたち)を拒むような素振りを見せる?


氷蓮(ひょうれん)様。後はこの先に村役場を残すのみです。花嫁様は、この村にはいらっしゃらないのでは?」

「……うん、でも一応確認させて」


 護衛の言う事に『わかってるよ』という風に軽く返事をしたけれど、僕は肝心な所に思い至っていなかった事を、今更ながら痛感していた。母の故郷で花嫁を探す事だけにとらわれて、全く考えもしていなかった。僕の花嫁が、この村にはいない可能性を。


「役場を確認したら、王都に向かわれますか?」

「うーん、どうしようかな。でも王都じゃ意味がな──」


 ──その時。


 僕の鼻先に甘い甘い香りがした。全身がぶわっと粟立ち、頬が紅潮していくのがわかった。


「……いた」

「はい?」

「いた! いたよ、僕の花嫁が!」


 僕は護衛を振り切って駆け出した。役場の入り口近くに、琥珀色の髪がふわふわと揺れている。姿を確認した瞬間、僕は確信した。僕の花嫁だ。間違いない。僕は愛しい花嫁の細い腰を抱きかかえ、その顔を見下ろした。強く香る、甘い香りにクラクラとする。


「……あ」


 驚愕に見開かれた、翡翠色の大きな瞳。僕は頭の中で素早く考えていた。ここまでの色味の翡翠はすぐには手に入らない。連れて帰ったら急いで取り寄せさせなければ。


 胸の音が、周囲に聞こえるんじゃないかと思うくらいに高鳴っている。僕はそんな事をおくびにも出さずに、出来るだけ冷静そうに見えるよう、必死になっていた。


「可愛らしい顔だね。それに、とても良い香りがする。父上の言ってた通りだ。僕は氷蓮ひょうれん。貴女には僕の花嫁になって貰うよ?」


 この時僕は、自分達の歩む道が光溢れたものであると、信じて疑ってはいなかった。


 ◇


 岩山の住まいに連れて来る時に散々抵抗をされたものの、花嫁の花鈴ファリンは概ね大人しくしてくれていた。同じ村から来た僕の母上は、しばらく地上を恋しがって泣いていたそうだ。父上や周囲が宥めすかしても泣き止まず、婚姻の儀式を二ヶ月も遅らせたと言っていた。


 それに引き換え、花鈴は少々不機嫌そうな顔をしていたけれど泣き喚く訳でもなく、婚姻の儀式は問題なく終了した。


「さっき、金色の水と一緒に飲まされたキラキラしたのは何ですか?」

「あぁあれ? 僕の鱗だよ。僕の龍珠を浸した水と鱗を飲んだから、貴女も龍神族に加わった事になる」

「……そう、ですか」

「うん」


 僕は花鈴を抱き上げ、夫婦の部屋に向かった。花鈴は腕の中で無言で俯いていた。浮かれきっていた僕は、気づきもしなかった。花鈴の中に燻る、怒りも絶望も悲しみも、悲壮な覚悟にも、何も。


 ◇


 花鈴との生活が始まってから、僕には少しだけ不満な事があった。それは夜、寝室で愛し合う時。僕がどんなに無茶をしても、花鈴は絶対に僕にしがみついて来ない。常に、敷布をぎゅうっと握って衝撃に耐えている。


「花鈴、僕に掴まって? その方が貴女も楽だろうし、僕も嬉しい」


 何度言い聞かせても懇願しても、花鈴は僕に触れようとしてくれないのだ。おまけに、どれだけ前後不覚になっても僕を“愛している”と言ってくれた事も無い。僕は花鈴にいつも愛情を伝えているというのに。こういった不満は、容易く不安に変わった。


 ──愛する番と閨を共にするのは本当に幸せな事だ。けれど、結婚してから三百年近くになっても僕と花鈴の間になかなか子供は出来なかった。確かに僕達は長命故に子供が出来にくい。けれど、母上は結婚百二十年で僕を懐妊したらしいし、それに比べると少し遅いような気はしていた。


「氷蓮様。こうなって来ますと、やはり新しく愛妾を持たれた方が……」

「うるさいな、嫌だと言っているだろ? 僕は花鈴以外を妻になんかしたくない。大体無駄だよ、仮に同じ寝台に素っ裸で放り込まれても僕は何もする気は無いんだから」


 こうやって、僕に直接言って来るのは良い方だ。中には、陰でコソコソと花鈴に何かを言っている輩がいるようだった。そういった発言をした者には、厳重注意で対応した。繰り返すようなら魂ごと焼き払うつもりだったけど、幸いにしてそこまでする事態には発展しなかった。


 そんな事よりも、ここの所僕が一番辛いのは花鈴が僕に愛妾を持つ事を勧めて来る事だった。


「私なんかじゃなく、相応しい方が他にいらっしゃるのではないですか?」

「僕の妻は貴女だけだよ。愛するのも貴女だけ。僕は貴女の為なら何だって出来る。それぐらい愛してるんだ」


 花鈴は僕が叱ると大人しく引き下がるけど、僕はその度に地味に傷ついていた。なんたって僕はまだ、花鈴に愛していると言って貰っていない。けれど、僕が「愛妾なんかいらない」と怒った時、花鈴はどこか嬉しそうな顔をしているように見えた。だから僕は、しつこく繰り返されるこのやり取りにも何とか耐えていた。


 けれど、花鈴はどんどん素っ気なくなっていく。夜の求めには素直に応じてくれるけれど、好きそうな花や衣装や装飾品を贈っても、たった一回しか身に着けてくれない。しかも、身に着けた後は侍女達に分け与えている事がわかった。


 僕が、花鈴の為に一生懸命選んだ贈り物を。


 花鈴の香りは、初めて会った時と変わらず甘く僕を酔わせてくれる。けれど、花鈴の態度に僕は次第に疲れ始めていた。


 ある時、花鈴との事を母上に相談する為に両親の住まう離宮に行った。そこで僕は瑠璃音ルリネに出会った。異界から突如現れた、優しくて朗らかな少女に。


 瑠璃音は、元の世界で足を滑らせて階段から落ちたらしい。気づくと、花に囲まれていて驚いた、と言っていた。瑠璃音は母上の花壇の上に落ちて来たのだ。


「もう、駄目かと思ってました。だって、下はアスファルトだったし!」

「あすふぁると?」

「え? あー、何かすっごい硬い道です」


 ──“あすふぁると”が何なのかわからないけど、説明が面倒で適当に答えたんだろうな、という事は分かった。何だかとても、面白い子だなぁと思った。


 香りも悪くはない。花鈴のように僕を酔わせて狂わせてはくれないけれど、爽やかな清涼感を感じる。僕はささくれた心が癒されていくのを感じていた。


「ねぇ氷蓮。良かったら瑠璃音を貴方のお屋敷に連れて行ってやってくれない? 行儀はある程度出来ているし、貴方のお屋敷には若い龍が多くいるでしょう? この子のお相手探しも兼ねられるし、どう?」

「あぁ、はい……」


 本当は、あまり気乗りがしなかった。瑠璃音を連れて行ったりすると、愛妾を持てだのなんだの言って来る連中が調子に乗るのではないかと思ったからだ。


「待って下さい氷蓮様。お屋敷で働かせて頂くのは有難いですけど、そういった事はまず奥様に相談した方が良くないです? わたしだったらちょっとヤですねー、旦那サマがいきなり知らない女連れて帰って来たら」


 僕はその言葉で安心した。もし瑠璃音が来たがったらどう断ろうかと思っていたのだ。花鈴が嫉妬してくれるかもしれない、という気持ちが無かったかと言えば嘘になる。けれど、彼女に少しでも不快な思いをさせたくなかった。


 でも、僕のそんな気持ちはただの独りよがりだったのだと、すぐに思い知らされる事になる。


 ◇


 花鈴は相変わらず、時々甘えて来るような素振りを見せては僕を期待させ、つれなくしては僕を落胆させる。そして、思い出したように言うのだ。


「氷蓮様。私なんかではなく、新しい奥様をお迎えになったら如何ですか?」


 ──僕はもう、疲れていたのだと思う。さすがにここまで来ると僕にだってわかる。僕は花鈴に愛されてはいない。彼女の香りは変わらず心地良いけれど、だからと言ってそれが僕を愛している証拠にはならないのだ。


 それでも僕は、花鈴を愛していた。だから彼女の思う通りにしてやろう。そう思った。


「……そうだね。貴女の言う通りにしよう」


 この時僕は、彼女の顔を見るべきだった。そうしたら、彼女がひどく傷ついた事がわかったのに。でも僕は結局、花鈴の顔を見る事もなく、逃げるようにその場を去った。


 その後すぐに、僕は瑠璃音を引き取った。引き取ってからは僕は瑠璃音を常に近くに置き、仕事を手伝わせたりしていた。花鈴に愛されない虚しさを仕事で埋める為には、人手が必要だったからだ。


 瑠璃音はとても賢い子で、複雑な書類の書き方もあっという間に覚えてくれた。僕はいつしか、くるくると表情がよく変わる瑠璃音に癒されるようになっていた。


 本当は花鈴の笑顔が見たい。そんな気持ちも、瑠璃音のお陰で随分と我慢出来るようになった気がした。


 ともかく、これ以上花鈴に嫌われたくなかった。彼女が離れに移動した時は、苦しくて悲しくて夜も眠れなかった。すぐにでも押しかけていって母屋に連れ戻したかったけど、怖くて行動に移せなかった。


 それでも時々、僕は離れにこっそり花鈴の様子を見に行っていた。花鈴は最近、ぼんやりと窓の外を見てばかりなのだという。


 仕事で少し屋敷を空けていた時も、出迎えに来てくれたのは瑠璃音だけだった。もっとも瑠璃音は、つい最近僕の側近の番である事がわかったから、彼を出迎えていたつもりなのかもしれないけど。


「……花鈴は?」

「はい、申し訳ございません旦那様。お帰りになった事はお伝えしたのですが“瑠璃音様がいらっしゃるから邪魔はしたくない”と仰って……」


 僕は唇を噛んで俯いた。花鈴。やっぱり僕を信じてくれないのか。あんなに何度も、僕の妻は貴女だ、愛しているのは貴女だけだと、伝えて来たのに。


「氷蓮様……」

「キミは気にしなくて良いよ瑠璃音。これは僕達の問題だから」


 心配してくれる瑠璃音に素っ気ない返事をしながら、僕は瑠璃音と側近に対して激しい嫉妬を覚えていた。


 良いな、キミ達は。愛する番に愛されて。想いを返して貰えて。


「じゃあ僕は少し部屋で休むよ」


 なるべく優しく聞こえるように注意しながら、逃げるようにその場から立ち去った。空しさと悲しさで、胸が潰れそうだった。


 ◇


 真っ直ぐ自室に帰るつもりだったのに、気づくと、離れに来ていた。足音を忍ばせ、花鈴に見つからないように慎重に歩く。僕の顔なんて、彼女は見たくないだろうから。


 花鈴の部屋の前に立ち、中の様子を窺う。話し声は聞こえない。花鈴はいないのだろうか。少し考えた後、そっと扉を押し開けた。そこで見たのは、開け放った窓にもたれかかったまま眠る花鈴の姿だった。


「全く……こんな所で寝たら風邪ひくじゃないか」


 ベッドから持って来た毛布を身体にかけてやりながら、僕はしばらく花鈴の髪を撫でていた。花鈴は身動ぎ一つせず、スヤスヤと眠っている。寝顔を見つめていると、胸の奥からどうしようもない愛しさが込み上げて来た。なぜなんだろう、僕は花鈴に愛されてはいないのに。番だから仕方がないのだろうか。


「……花鈴。それでも僕は、貴女を愛している」


 眠る花鈴の髪を撫でながら、僕は仮初めの幸せを感じていた。


 ◇


「残った茶葉は後でお届けしますね? 今度は瑠璃音様とお飲みになって下さい」


 初めて花鈴にお茶に誘われ、何かを期待しながら招待に応じた僕は、またもやその思いを裏切られてしまった。怒りと悲しみで目の前が真っ暗になり、震える手でカップを叩きつけて立ち上がった。


「……貴女は本当に残酷な女だ。こんな所、来るんじゃなかった」


 僕はもはや、愛しいはずの花鈴に対して激しい憎悪を感じていた。けれど、睨み付ける僕を見つめる花鈴の顔はどこまでも哀しく、そして穏やかな顔をしていた。


「どうか、どうかお幸せに氷蓮様。あなたの本当の笑顔を見せて下さった瑠璃音様に、心からの感謝と祈りを。あの方なら私よりも、あなたを愛してくれるはずです」


 なぜ、今になってそんな事を言う? なぜそんな、愛しい者を見つめるような目で僕を見る?


 ……いや、もう良い。今更どうにもならない事だ。龍神の子を孕まないのなら花鈴の寿命は僕よりも短い。ならばその魂を捕まえて、水晶球にでも封印してしまおう。そして悠久の時を経て、僕の寿命が尽きる時にその水晶球を砕けば、花鈴と僕は再び出会えるはずだ。


 今世が無理なら、来世に賭けよう。


 そう思いながら、僕は足早に扉の方に歩を進めた。今花鈴の顔を見たら、彼女に何をしてしまうか自分でもわからなかった。


「ごめんなさい。あなたをいっぱい傷つけて、困らせてごめんなさい。私は結局、甘ったれていただけだったわ」

「え……?」


 今にも消えそうな花鈴の声に、僕は思わず振り返ってしまった。途端に身体に何かがぶつかり、次いで顎の先に温かくて柔らかい感触を感じた。


「花鈴……?」


 顎先とはいえ、彼女からの初めての口づけに僕はひどく動揺していた。止めろ。期待なんかするな。また裏切られるだけだ。そう戸惑っていた一瞬の隙を突かれ、僕は部屋の外に出されてしまった。


「待って花鈴! 貴女は一体……!」


 何がしたいんだ。そう言いかけた僕の頭に、先ほど花鈴が発した言葉がふと蘇って来た。


『あの方なら()()()も、あなたを愛してくれるはず』


 ──何だ、私“より”って。貴女はいつだって私“なんかじゃなく”と言っていたじゃないか。なぜ今更、そんな言い方をする? まるで、僕を愛しているみたいな、そんな言い方を。


「花鈴! ここを開けろ花鈴!」


 全身から嫌な汗が噴き出し、恐怖で吐き気が込み上げて来た。僕は今、恐らく何かを間違った。もう迷っている暇はない。僕は足を振り上げ、思い切り扉を蹴破った。


 窓枠によじ登って震える花鈴を見た時、足元が崩れ落ちそうな程の絶望に襲われた。どうやったのか知らないけど、彼女は防御結界を破っていた。そこまで、飛び降りて死にたいと思うくらい、僕の事が嫌いなのか。


 けれど、ゆっくりと振り返った花鈴の目には僕に対する嫌悪など微塵も浮かんでいなかった。むしろ、縋り付くような眼差しをしていた。


 涙をいっぱい溜めたその目を見た瞬間、僕の身体は心の奥底に仕舞い込んでいた本心に従って動いていた。花鈴に駆け寄り、その華奢な身体を強く抱き締めたのだ。


 ──花鈴は初めて、僕に抱きついて来てくれた。


「氷蓮様……ごめんなさい。信じて頂けないかもしれませんし、今更なのも分かっています。でも、愛しています。私はあなたを、本当はずっと、愛していました」

「違う、貴女は何も悪くないよ。ごめんね花鈴。ごめん……」


 花鈴を救出した後、僕は彼女を抱き上げたまま母屋の夫婦の寝室に連れて行った。そこで改めて、花鈴とじっくりと話をした。


「私、魔法学校に入学寸前だったんです。子供の頃から、魔法使いになるのが夢でした。そんなに裕福な家じゃなかったけど、両親は魔法学校の入試費用を工面してくれて。だから、その夢が破れた事でずっと怒ってた。初めの百年は本当にそうだった。でも、そこから私は間違ったの」


 僕は、花鈴の告白に眩暈を起こしそうなほどの衝撃を受けていた。花鈴が怒るのも僕を恨むのも当然だ。僕は花鈴の未来を奪っていたのだから。


「花鈴、僕は……」

「ううん、謝らないで氷蓮様。ただ私が言えば良い話だったの。魔法学校に入学予定なんです、何とかなりませんか? って。でも、私はどうせ聞く耳なんか持つはず無いって決めつけてた。本当に、簡単な話だったのに」

「……僕も貴女の話を聞こうとはしていなかった。それに、聞いて来た所で僕は許さなかったと思うよ」

「そうかも。でも、ちゃんと話せばそう遠くない内に耳を傾けてくれたと思うわ。あなたはとても優しい人だから」

「……僕は、優しくなんかないよ」


 僕の言葉を否定するように、ゆっくりと顔を横に振りながらふわふわと微笑む花鈴。僕はその頬をそっと撫でた。


「氷蓮様。あなたを愛している事に気づいた時点で、素直になるべきだった。私は本当に何もかも中途半端なの。お義母様と違って」

「……母上? 花鈴、母上と話す機会があったの?」

「え!? あ、えぇ、そう。一度こっそりいらしたの。あの、あなたと私の事を心配なさってて、それで」


 僕は花鈴の顔をじっと見つめた。


 …………そうか。父上に睦まじく寄り添う母上を見て、貴女はこんなにも追い詰められていたんだね。


 僕は覚悟を決めた。花鈴にあの事を話そう。きっとここが、運命の分岐点になる。


「あのね花鈴。龍王に連なる直系の龍神はね、それぞれ一度だけ使える特殊な魔法を持っているんだ。でもそれがどういう魔法(もの)なのかは秘密にする。だから僕も、父上や妹の魔法は知らない」


 花鈴は首を傾げながら、とりあえず頷いている。いきなりこんな話を聞かされて驚いているのだろう。


「僕の魔法は“時間の逆行”。一回だけ、望む時間と場所に戻してやれる。記憶はそのままでも良いし消しても良い。……花鈴」

「はい?」

「一つだけ聞くよ。でも絶対に嘘をつかないで。本当の事を言って。花鈴、貴女は過去に戻りたい?」


 花鈴は大きな目をますます大きく見開いて驚いていた。僕は黙って、花鈴の答えを待った。


 花鈴は僕をじっと見つめた後、その名の通り花のように笑った。


「いいえ。いいえ、戻りたいとは思わないわ。それよりも、あなたとのこれからの未来をちゃんと考えていきたい。……あなたを、愛しているから」


 ──その瞬間、僕の心は決まった。花鈴のその言葉だけで、もう十分だった。泣きたいくらいの幸福に包まれながら、僕は花鈴を強く抱き締めた。


 僕もだよ。僕も愛してる。今度こそ、絶対に貴女を幸せにしてみせる。


 愛する花鈴。僕は貴女に出会えただけで、生まれて来て良かったと心から思っている。貴女が笑ってくれるなら、僕はどんな事でもするだろう。


 ──花鈴。僕は。


 僕は、貴女の為なら、何だって。



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