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花鈴

サラッとお読み下さい。

 

 私はぼんやりと、空を眺めていた。


 と言っても私の住まう屋敷は恐ろしく高い岩山の中腹にある。だから『空』というか『雲』を見ていると言うべきだろうか。


 屋敷への出入りは簡単。ここの主は龍神で、使用人も護衛もみんな龍族なのだ。だから外出する時は胴の長い『龍』に変身して空中に飛び出すだけで良い。なんの不便も無い。ただ一人の人間である、私以外は。


 窓を開け、このまま外に身を投げ出せたらどんなに楽だろう。そう毎日思うけれど、残念ながら防御結界が張ってある為それは叶わない。形だけの妻でも、身投げされるのは体裁が悪いのだろう。


「奥方様。旦那様がお帰りになられました」


 侍女の呼びかけに、私は振り向く事もなく素っ気なく応えた。


「……良いわ。どうせ瑠璃音ルリネ様がお出迎えになるでしょう。お二人のお邪魔はしたくないわ」

「そんな事は……!」

「良いの。良いのよ。もう遅いの、何もかも。自業自得よ」

「奥方様……」


 侍女の窘めるような呟き。その声音に隠しきれない同情を感じ、私は酷く苛立っていた。


 そう。この夫に顧みられない現状は、全て自分が招いたもの。自らの運命を呪い、前を向こうとしなかった私の行動が全てを失くしてしまった。向けられていた愛情も優しさも、何もかも。



 ********



 私は、約四百年前にこの岩山の麓に広がる小さな村に住んでいた。“村一番の器量良し”と言われ、自分でもその自覚は持っていた。そして私は、こんな小さな村で生涯を終えるつもりはなかった。

 それを話すと、友人達はみんな口を揃えてこう言った。


花鈴ファリンは可愛いもんね。王都の女達にだって引けを取らないよ。絶対に玉の輿に乗れる!』


 けど、私はそんな事はどうでも良かった。私は魔術の勉強がしたかった。当然こんな小さな村には魔法学校なんか無い。だからどうしても王都に行かなければならなかった。


 そして有名な魔法使いになって、両親や幼い兄弟に楽をさせてあげたかった。生まれ育った村を、有名にもしたかった。私はこの村が嫌いで王都に行きたいのではない。愛しているからこそ、王都に行きたかったのだ。


 両親は私の夢を応援してくれた。貧しいながらも必死でお金を貯めてくれて、お陰で私は王都の魔法学校の入学試験を受ける事が出来た。そもそもこんな夢を抱いたのも、子供の頃から魔力が高かったからだ。


 私が少し祈るだけで、弱った動物や萎れた花は瞬く間に元気を取り戻していた。だから入学試験にも難なく合格し、おまけに授業料免除の資格までも得た。そこで初めて、私が村を出たい本当の理由を察してくれた友人達は、泣きながら祝福してくれた。


 私も泣きながら誓った。死に物狂いで頑張って、絶対に夢を叶えるのだと。


 翌日から色々と準備を始め、五日後には王都に向かう予定になっていた。村役場に引っ越しの手続きをしに行って自宅に帰る途中、家の方から蒼白な顔の父が走って来るのが見えた。


 その時、私はなぜか嫌な予感がした。そして、その予感はすぐに的中する事になった。


「大変だファリン! 龍神様が花嫁探しに岩山から降りて来られた! お前は早くどこかの家に!」

「え!? 龍神様!? 花嫁探し!?」


 この村は龍神の加護の村だ。遥か昔、龍神が花嫁を求めてこの辺境の村に降臨し、十六から十八までの娘の中で最も器量の良い娘を妻として連れて行ったという伝説が残っている。

 龍神は人型をとっていた。その耳は細長く尖り瞳は縦型の虹彩を持つ黄金色で、腕や顔の一部が銀の鱗で覆われていたらしいが非常に美しい若者の姿だったと言う。


 しかし、この話は決して美談ではないのだ。その連れて行かれた娘というのは、翌日に幼馴染と結婚式を控えていた。けれど、美貌に目をつけた龍神が村への加護と引き換えに娘を強引に連れ去ったのだ。


 結婚するはずだった娘を奪われた幼馴染の男は、結婚式の日に自宅で自死をした。その手には、娘に贈るはずだった赤紫色の宝石がしっかりと握られていたらしい。


 だからこの村では、軒先に龍が嫌うと言う『五色の糸を巻いた鉄の矢』をぶら下げる風習があった。だが今ではそれも廃れ、酒屋や薬局などの一部の店舗にぶら下がっている位だ。


「いいから早く!」


 父はいきなりの話に目を白黒させる私を元来た道の方に押し出した。私はよく分からないまま、ともかく中心地から離れるべく走り出した。ほんの二、三分で先ほどまでいた村役場が見えた。確か、役場にも鉄の矢が飾ってあったはずだ。


 そして、役場の入り口を潜る寸前、私は誰かに腰をグイと引かれた。


「……あ」

「可愛らしい顔だね。それに、とても良い香りがする。父上の言ってた通りだ。僕は氷蓮ひょうれん。貴女には僕の花嫁になって貰うよ?」


 ──それが、後に夫となる龍神『氷蓮』との出会いだった。


 そしてそれは私の長年の夢が、両親の努力が、儚く砕け散った瞬間でもあった。


 ◇


 私は天上に最も近いと言われる岩山『神槍山』の中腹にある氷蓮の屋敷に連れて行かれた。その時の私と言ったら、散々暴れて抵抗したせいで、声は掠れ服はボロボロになっていた。


「ちょっと、そんなに暴れないでよ。ほら見て? 貴女が暴れたせいで僕が何だか乱暴したみたいになってるじゃないか」

「乱暴したじゃない! 私は嫌って言ったのに、無理やり連れて来るなんてひどい! 今すぐ帰して!」

「駄目。だって貴女は僕のお嫁さんだから。僕、幼龍の頃から決めてたんだ。お嫁さんは母上と同じ村の女の子にするって」

「母上と同じ……?」


 そこで私はマジマジと龍神を見つめた。氷のように冷たそうな白髪に赤紫の瞳。少しだけ尖った耳には銀の輪っか。鱗的なものも見える範囲ではどこにも見当たらず、言い伝えで聞いていた龍神の人化した姿に比べるとかなり人間に近い。


「あなたのお母様って、もしかして結婚式の前日に誘拐された人……?」

「……誘拐?」


 それまで、困った顔をしながらも穏やかな物腰を崩さなかった龍神が、ここに来て初めて私の言葉に顔色を変えた。


「誘拐なんかじゃない。父上はただ、自分の番を連れて行っただけだ。確かに母上は最初こそ故郷を恋しがって泣いていたらしいけど、今は父上を心から愛しているよ。勝手な事を言わないでくれるかな」


 ──勝手なのはアナタ達でしょ。そう叫びたかったが、さすがに雲の上まで連れて来られては私も慎重にならざるを得ない。だから取り敢えず口は噤んでおいた。


 けれど、内心は何とも言えない感情が吹き荒れていた。


『今は父上を心から愛している』


 ふぅん。結局そうなんだ。その龍神も顔はすごく良かったって言うし、龍神の妻という事は神様の仲間になるという事よね? 顔の良い夫に不老不死。その二つが手に入るのなら、自分を思って自死した幼馴染の事なんかあっさり忘れちゃうって事か。そもそも番だの何だの言ってるけど、龍神様も『村で一番美しい娘』を選んだんでしょ? 顔で選んだ者同士、まぁお似合いなんじゃない?


「……冗談じゃないわ」


 この龍神、氷蓮はとても柔和で穏やかな顔をしている。でも神は神なのだ。人間とは違う。考え方も違うだろうし、倫理観がおかしいのはもう分かっている。下手に騒いだりして村に危害を加えられるような真似だけは、絶対に避けなければならない。


 花嫁にはなる。それ以外、選択の余地は無いから。だったらせめて、心だけは絶対に許さないでおこう。間違っても、限りある生の中の夢も努力も踏みにじったこの男に絆されたりなんかしない。


 あっさりと見目の良い龍神に乗り換えた、アナタの母親なんかと一緒にされてたまるもんですか。


 私は悔しさを必死で押し殺しながら、溢れる涙を指で何度もぬぐった。


 ◇


 結婚してから、あっという間に百年が経った。


 人間では考えられない年月の経過だけど、龍神族に加わったからなのか特に精神に異常をきたす事などは無かった。でも、私と氷蓮の間にはなかなか子供が出来なかった。元々龍神族は子供が出来にくいらしい。子供さえ出来れば、ひょっとして地上に帰れるかもしれない、という希望は早々に潰えてしまった。


 だって百年も経ってしまった以上、今更帰った所でもう誰もいないのだ。私の為に必死でお金を工面してくれた両親も、合格を泣いて喜んでくれた友人達も、誰も。


 氷蓮は毎晩私と夜を共にするけれど、私は彼を愛していると思った事はないし言った事もない。


「愛してるよ花鈴。愛してる。僕は貴女の為なら何だって出来る」


 汗ばんだ身体で抱き締められ、耳元で甘く囁かれても私はそれに一度も応えていない。氷蓮が何かを言って欲しそうにしているのはわかったけれど、私の恨みは百年ごときでは冷めなかったのだ。


 けれど、二百年、三百年と経って行く内に今度は周囲の方が騒がしくなっていった。


 氷蓮の母、件の村娘は結婚してからちょうど百二十年後に氷蓮を授かったらしい。その後も女児を一人産み、その氷蓮の妹は既に西の龍神の元に嫁いでいる。

 そして毎晩身体を重ねても、一向に懐妊しない私を責める声が上がり始めていた。


「氷蓮様。私と離縁して新しい奥様をお迎えになられたらよろしいのでは?  あなたには私なんかよりもふさわしいお相手が…… 」

「嫌だ。僕の妻は貴女だけだよ。今も、これからもずっと。人間は勘違いをしているかもしれないけど、永劫に近い時を生きるというだけで僕達にだって寿命はある。だから正確ではないかもしれないけど、誓うよ花鈴。僕が永遠に愛するのは貴女だけだ」


 ──二百年前の私なら、まだ胸に怒りを抱いていた時の私なら、そんな言葉など一片たりとも信じなかっただろう。


 けれど、その時の私はその言葉を“嬉しい”と感じてしまった。そしてすぐに我に返った。今、私は何を思ったの? 絆されないって誓ったじゃない。駄目よ。同じになんかなっちゃ駄目。私は違う。愛する男を平気で裏切り、自分だけ幸せに浸っている氷蓮の母親のような女とは断じて違うんだから。


 ◇


 それからの私は、氷蓮に対してより一層冷たく接していた。かろうじて夜は共にするものの、愛の言葉に応える事もなく贈り物も一回手を付けただけですぐに侍女に下げ渡したりしていた。


 その振舞いに氷蓮が気づかない訳はない。それでも、氷蓮は私にどこまでも優しかった。


 そこまで来ると、私はもはやただの駄々っ子と変わりがなくなっていた。既に氷蓮に惹かれているのに、事あるごとに「私なんかじゃなくて、新しい奥様をお迎えになったら?」と口にして彼の反応を窺った。


 そしてその都度、言葉を荒げて否定する氷蓮を見ては安堵していた。私は愛されているのだ。まだまだ許してはあげないけど、然るべき時が来たら『私も愛している』と胸の内を明かしてやっても良いかもしれない。そんな風にさえ思っていた。


 今思えば、何て恥知らずで傲慢で、愚か極まりない行動を取っていたのだろう。幾ら龍神と言えども、心はちゃんとあるのだ。思いが届かなければ傷つくし、ひどい扱いを受ければ心だって疲弊する。


 私はそんな肝心な事を、何一つ分かってはいなかった。


 そして、もう幾度目かになった試し行動「新しい奥様をお迎えになったら? 私なんかじゃなくて」の言葉に、その日初めて異なる答えが返された。


「……そうだね。貴女の言う通りにしよう」

「え……?」

「ちょうどこの前、父上達の住む離宮に訪ねて行ったんだ。貴女との事を母上に相談したかった。その時、異界から来たという女の子に会ったんだ。貴女ほどじゃないけど、良い香りがした。彼女となら、上手くやっていけるかもしれない」


 ──それから程無くして、岩山の屋敷に瑠璃音様がやって来た。瑠璃音様は私の一つ上の十七歳で、美しい黒髪黒目の愛くるしい女性だった。私は自分の琥珀色の髪と翡翠色の瞳が自慢だったけれど、黒一色の彼女は目を引く神秘性に包まれていた。


 正直、瑠璃音様がいらしてから屋敷の中が格段に華やいだ気がする。私は初めて、氷蓮の困ったような笑顔以外の笑顔を見た。


 それからは、氷蓮は夜、私の元に来なくなった。恐らく瑠璃音様の所に行かれているのだろう。何となく、そう遠くない内に御子が生れるのだろうな、という漠然とした予感がしていた。



 ********



 私は、窓辺でうたた寝をしてしまったらしい。気づくと、身体に温かい毛布がかけてあった。きっと侍女がかけてくれたのだろう。瑠璃音様がいらしてからは、私は離れで暮らす様になっていた。氷蓮にそうしろと言われた訳じゃない。けれど、私が彼の邪魔になりたくなかったのだ。


「奥方様、今よろしいですか?」

「あ、ごめんなさい。うっかりお昼寝しちゃったわ。毛布、かけてくれてありがとう」

「え!? いえ……」


 侍女は驚いた様な顔をしている。それもそうだろう。以前の私は常に苛立っていて、彼女達にお礼なんて言いもしなかったから。きっとこの後、目の前の侍女は詰め所に戻ってこう言うのだ。


『今更お礼なんて言って来たわ。瑠璃音様の真似なんかして、みっともない』


 そう。瑠璃音様は本当に素晴らしい方なのだ。寵愛に胡坐をかき、我が儘放題で夫を労わりもしなかった私のような正妻おんなにもいつも明るく接してくれて、使用人達にも分け隔てなく優しい声をかけている。もっと早く、彼女がこの世界に現れてくれていたら、全てが丸く収まっていたのに。


「奥方様、蓮花レンファ様がお見えになってます」

「お義母様が? 私を訪ねてらしたの? 瑠璃音様ではなくて?」

「は、はい。あの、旦那様にも内緒のご訪問らしいので、裏口からお入り頂いてます」

「わかったわ。直ぐに行きます」


 私は毛布を侍女に預け、急いで離れの客間に向かった。


 ◇


 客間で待つ義母は、義父の妻になった時の年齢のまま。二十歳過ぎの若々しい容姿だった。私の住む村に多い、焦げ茶の髪に赤紫の瞳を見ると、何だか懐かしい気持ちになった。


「ごめんなさいね、急に来てしまって」

「いえ。あの、お義母様、この度はどうなさいましたの?」

「氷蓮。あの子、瑠璃音を愛妾にしたの?」


 いきなりの直接的な質問に、私はたじろぎ言葉を失ってしまった。なるほど、お義母様は私をお叱りにいらしたのだわ。当然、噂は耳に入っていたのだろう。私が氷蓮に如何にひどい振舞いをしていたのか。


「あの、申し訳ございませんお義母様。今回の事は私の不徳の致す所で──」

「よくやったわ」

「……え?」


 一瞬言われた意味が分からず、私は可愛らしく首を傾げる義母の顔を見つめた。瞬間、私の背筋に鳥肌がたった。正面から見た赤紫の奥には、底知れない闇が広がっていた。


「お、お義母様……?」

「本当に、人外の生き物って人間の気持ちが全くわからないのね。朱氷しゅひょうは、あの龍神おとこは私の心も手に入れたと思っている。そんな事あるはずないのに。私は忘れないわ。私への想いを抱えたまま、自らの命を絶った彼の事を。私の身体は朱氷に奪われてしまったけれど、心は永遠にあの人のもの。知ってる? 龍神は泣きたいくらいに嫉妬深いの。魂すら逃がして貰えないのよ? 氷蓮は半分人間だから、そこまでじゃなかったのかしら」


 私は闇を含んだ目で、楽し気に語らう義母を信じられないものを見る目で見ていた。義母は、己を攫った龍神を愛してしまったのではないの? まさか、千年近くもずっと、変わる事の無い恨みを抱えて生きて来たの?  


「私はこの先何千年後かに肉体が朽ちても、魂の輪廻はあの男の元に辿り着く。そんなのごめんだわ。私はどんなに時間がかかっても、もう一度あの人と巡り合いたいの。今度こそ、彼と幸せになるの。もうその手は打ってあるわ」

「手を打ったって……」

「あのね、私色々と調べたの。それで下の娘が生まれる前に魂が逃げ切る方法を知ったわ。簡単な事よ。龍神との間に生まれた子のへその緒を、五色の糸を巻いた鉄の矢で切断するの。それだけ。朱氷は生まれ変わっても私と一緒になるつもりだけど、そんな未来はもうどこにも無いのよ」


 コロコロと笑う義母を、私は呆然と眺めていた。


「魂のよすがを、それも龍神のものを断ち切るんですもの。その瞬間は物凄く痛かったわ。けど、悲鳴を上げるとバレちゃうから必死で我慢した。こんな痛み、あの人が受けた心の痛みに比べると何て事ないわ。あの人と再び巡り合う為なら、私は何だって出来る。そう思って耐えたの。もちろん、今もよ?」


 義母は晴れ晴れと笑い、そして帰り支度を始めた。


「あの男には、瑠璃音の様子を見に行くと言って何とか許可を貰ったの。急いで帰らなくちゃ」

「は、はい、ありがとうございました……」

「氷蓮の相手はあの子に押し付けちゃいなさい。あの子は中途半端に優しいから、決して貴女を追い出そうとはしないでしょう。なら出て行けば良いのよ。私はもう龍神の子を二人も孕んでしまったから寿命は数千年にも及ぶわ。病気にもかからないし少々の怪我なら直ぐに治る。けれど未懐妊の貴女は不老ではあるけど不死ではない。地上に下りれば病気にもかかるし怪我だってするわ。寿命だってせいぜい千年程度。もう、好きに生きて良いのよ?」


 私は颯爽と帰る義母を見送りながら、己の愚かさ、浅はかさに死にそうになっていた。


 裏切り者は、私の方だった。


 夢を奪い、思いを踏みにじった龍神にあっさりと惹かれ、子供じみた振舞いをして愛を確かめ、幸せに浸っていたのは、馬鹿な女は私の方だったのだ。


 義母は忘れてなんかいなかった。ずっと幼馴染に対する強い愛情と、龍神に対する激しい憎悪を持ち続けていた。


「私、私は……」


 駄目だ。もう誤魔化す事は出来ない。私は、いつしかあの優しい氷蓮を深く愛してしまっていた。夢よりも、両親よりも、故郷よりも。


 ならばもう、私が出来る事は一つしかない。


 ◇


 ある晴れた日。


 私は、氷蓮を離れのお茶会に招いた。申し訳ないけれど、瑠璃音様にはご遠慮頂いた。気のせいかもしれないけど、少し痩せた様に見える。体調を伺おうとしたけれど、止めておいた。夫の身体を案じるなんて、今更過ぎる。


「珍しいね、貴女が僕を招待するなんて」


 氷蓮のチクリとした嫌味が、愛を自覚した今、心に深く突き刺さって行く。私は何事も無かったかのように微笑んで見せながら、選び抜かれた香りの良いお茶を手ずから淹れた。思えば、こんな簡単な事すら私は夫にしてあげた事は無かった。


「えぇ。ごめんなさい。たまには良いかなと思って」

「……そう。でもお茶を飲んだら戻るよ。貴女だって迷惑だろ?」

「そんな事ないわ。本当よ?」


 私は氷蓮に向かって微笑んでみせた。彼は少し驚いた様に目を見張った。けれど、直ぐに目を逸らしてしまった。


「……いいよ、無理しなくて。僕は貴女に無理をさせたい訳じゃない。僕はただ……いや、よそう。貴女にはどうでもいい事だから。別に構わない。今はその分、瑠璃音が笑ってくれる」


 違うわ。お願い、瑠璃音様の所に行かないで。私は、あなたを愛しているの。 


 ──その言葉を訴え、信じて貰うにはもう何もかもが遅すぎたのだろう。最初の百年はともかく、そこからの私は完全に間違ってしまっていた。もっと、己の心の声に耳を傾けるべきだったのだ。そうしたら、今になってこんなに嫉妬に苦しむ事などなかったのに。


「はい、どうぞ」

「……ありがとう」


 氷蓮はまるで痛みを堪えるような顔で、目の前のカップを睨んでいた。毒が入っていないかどうか、疑っているのだろうか。仮に盛った所であなたは死にはしないのに。あぁ、でも毒の味はわかるのかもしれない。私はそこまで信用を失っていた事に、改めて思い至った気がした。


「……美味しい」

「良かった。後で残りの茶葉を届けさせるわ。今度から瑠璃音様と飲んでね」

「……っ!」


 いきなり飲みかけのカップを叩きつけ、氷蓮が椅子を蹴倒しながら立ち上がった。その目は、怒りに震えている。


「どうしたの? 熱かった?」

「……貴女は本当に残酷な女だ。こんな所、来るんじゃなかった」


 氷蓮は吐き捨てるように言い、足音荒く部屋の出入口に向かって行く。私はそのまま見送ろうと思ったけど、どうせならとことん嫌われよう、と開き直る事にした。


「どうか、どうかお幸せに氷蓮様。あなたの本当の笑顔を見せて下さった瑠璃音様に、心からの感謝と祈りを。あの方なら私よりも、あなたを愛してくれるはずです」

「……止めろ! 今更そんな言葉聞きたくない! 貴女は僕を信じてくれなかった。愛してくれなかったじゃないか! 瑠璃音が来たからいきなり焦りだしたのか!? でももう遅い! 僕は貴女の言葉などもう一切信じない!」


 肩を上下させ、はぁはぁと荒い息を吐きながら私を見つめる氷蓮様。その瞳の奥に、間違う事なき憎悪が浮かんでいるのを目の当たりにし、私は泣きそうになってしまった。


 嘘つき。何があっても愛してるって言ったクセに。そうじゃない、ごめんなさい。傷つけてごめんなさい。どうして? 『貴女の為なら何でも出来る』って言ったのに。違うわ、もっと素直になれば良かった。


 ──色んな思いがぐちゃぐちゃに胸を渦巻き、気づくと私はボロボロと涙をこぼしていた。あぁ嫌だ。みっともない。こんな所で泣くなんて、私はお義母様の足元にも及ばない。


「ごめんなさい。あなたをいっぱい傷つけて、困らせてごめんなさい。私は結局、甘ったれていただけだったわ」

「花鈴……?」


 氷蓮の戸惑ったような声が聞こえた。私は氷蓮に駆け寄り抱き着き、背伸びをして彼の顎の先に口づけた。本当は格好良く唇を奪いたかったけど、私と彼の身長差だとこれが精一杯だった。


 唇を離すと同時に、私は唖然とする氷蓮を渾身の力で扉の外に押し出した。氷蓮は呆けた顔のまま、大人しく外に出されていった。


 そして扉に素早く鍵をかけた。外からは我に返ったのか、氷蓮が何か叫んでいる声が聞こえる。あぁもう、そんなに怒らないで。口づけくらい良いじゃない。結局唇ではなかったのだし、瑠璃音様に浮気を責められる事は無いと思うわ?


 私は窓に駆け寄り、思い切り開け放った。そして、カーテンの後ろに隠しておいた『五色の糸を巻いた鉄の矢』を取り出した。そして急いで鉄の矢を虚空に向けて、横薙ぎに払う。すると空間がすっぱりと裂けた気配がした。龍神の縁すら断ち切る事の出来る鉄の矢。防御結界も切り裂けるのではと思ったけれど、予想が当たって本当に良かった。


「よいしょっ……!」


 鉄の矢を外に投げ捨てた後、私は窓枠に立った。これならいける。これなら、飛び降りて地面に無事叩きつけられる事が出来る。何たって私は、不死ではないのだから。


 これで、これで何もかも終わる。


 夢と両親と故郷に殉じながら、氷蓮への愛も自分自身に示す事が出来る。これで氷蓮と瑠璃音様も、安心して再婚する事が出来るだろう。氷蓮。愛するあなたの為なら、私は、何だって──。


 高所特有の突風が吹き抜け、私の髪を激しく乱していく。後ろからは、扉が激しく叩かれる音がする。防御結界が破られた事に気づかれたのだろう。


「早く、早く飛び降りなくちゃ!」


 ──でも、意に反して足が全く動かない。どうして。なぜここに来ていきなり躊躇するの。早く、早くしないといけないのに、どうして……!


「……あぁ、そうか。そういう事なのね」


 『あなたの為』じゃないからだわ。全ては、『私の為』だからなのか。


 夫の心が離れてしまってから愛に気づいた。もう遅すぎるその状態に耐えられないだけ。慌てて愛を伝えても、見向きもされない現実が辛すぎるだけ。瑠璃音様と笑い合う、あなたを見る事が出来ないだけ。嫉妬に苦しみながら、夜を越える事が出来ないだけ。


 ただその苦しみから逃れる為だけに、私はこうして飛ぼうとしている。


 氷蓮は『貴女の為なら何だって出来る』と言った。その言葉に嘘が無い事は、今の私にはわかっている。


 お義母様は『あの人と巡り合う為なら何だって出来る』と言った。実際、お義母様はそれを実行している。自死した人の魂は、その罪を償うまでは転生出来ない。だからお義母様は、愛し合う夫婦を演じながら来るべき時を待っている。


「はは、やだなぁ……私だけじゃない、こんな中途半端なの……馬鹿だな……」


 ガクガクと震える足は、どんなに叱咤激励しても動いてくれない。

 何て情けない。この程度の覚悟しか持てないのなら、最初から現状を受け入れてれば良かったのに。


 なのに、私と来たら。


 窓枠に手をかけたまま、震えて蹲った所で、背後で扉が蹴破られる音が聞こえた。


 動けない私の元に、荒々しい足音が近づいて来る。鼻先に、懐かしくてそして、ずっと求めていた香りがふわりと香った。


 その香りを嗅いだ途端、私の両の目から、止まっていたはずの涙が再び零れ落ちていった。




後日、氷蓮視点を投稿します。

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