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王太子への挨拶を終えたロゼトワールは、それから特に何もすることなく手持ち無沙汰気味だった。茶会は他の家の子供達と親交を深める場所でもあるのだが、みんな王太子に話しかける機会を伺うのに忙しく、呑気に好きな本なんかの話を出来る雰囲気ではなかったのだ。
王太子を囲む輪の中に加わるほどの積極性はなく、まだ特別親しい友人のいないロゼトワールは仕方なく目の前の皿からお菓子を取って食べ始めた。甘いお菓子は大好きだが、家の外で夢中になるほどではないと思っていたけれど、うっかりその美味しさにハマって一つ二つ、三つ四つと食べ進めていたのは内緒だ。おかげで一通りのクッキーは制覇した。これを食べ終わったら次は何を食べようかと思っていたところだ。
お茶会はお茶とお菓子とお喋りを楽しむ場ではあるけれど、それでも貴族令嬢がパクパクとお菓子を食べ進めるのはあまり褒められたものではない。それなのに、お菓子に夢中になっているところをこともあろうか王太子殿下に見られてしまうなんて、淑女として減点中の減点だろう。アシルにとっては満点にさらに加点がされているところだが。
「喜んでもらえたのなら、うちの料理人達も喜ぶだろう。俺はあまり多くの菓子を食べないからな」
「こんなに美味しいのに」
なんて勿体なくて、贅沢な。そんな羨ましがる声がロゼトワールの口からうっかり漏れた。おっとり素直かわいいロゼトワールはうっかりさんでもある。そもそも彼女に淑女の『仮面』なんてものは似合わないのだ。
王太子を前に飾ることなく、分かりやすいほど素直なロゼトワールの姿は、この茶会の中で唯一清涼なものだった。
「だったらこれからフロベール嬢も城に菓子を食べに来るといい、毎日」
「え?」
「フロベール嬢のようにかわいらしい令嬢が食べるとなればうちの料理人たちも喜んで腕を揮うだろう。ああ、フロベール嬢なんて他人行儀だな。ロゼトワール、いや、フロベール家なら秘名ももっているだろう? 秘名は何と言う」
「え、あ、シルヴィア、です」
あっさりと告げるロゼトワールに、
(時代が時代ならこれで婚姻が成立したのに!)
とアシルは内心で舌打ちをした。
秘名、というものは家名と名前の間に「隠された」名前で、昔はその名前を知るものは神と両親、それから夫婦となる者だけとされていた。
名前はその者を表し、魂と直結するものだとされる。呪術の類いではそれは顕著で、無名のものよりも有名なものの方がより強い効力を与えるとされている。それゆえに、呪いの効力を弱めるためにと表に出さない名前を多く付けていた時代がある。その、二個、三個と付けられた名前こそが、その者の『真実の名』とされた。秘名を知ることで相手の魂を掴むこととされていたことから、お互いにお互いの魂を結びつけるということで、夫婦は秘名を教え合う儀式があり、転じて秘名を暴かれることは身体を暴かれること以上のものであるから、秘名を知られればその相手と結婚しなければならないとする時代もあった。おかげで、国一番の美姫の秘名を知ろうと、多くの男達があの手この手で聞き出そうと奮闘するという逸話もある。
今ではそうした慣習は無くなり、比較的新しく興った家では秘名を付けない家も増えているが、王家を始め伝統を重んじる家、秘名こそが真正貴族の証とも言われることから高爵位家では付けられることが多い。古くから侯爵家としてあるフロベール家もその一つだ。
秘名を呼ぶことに契約的な意味合いは無くなっているが、秘名や秘名から付けた愛称は家族や恋人、夫婦に許された親しさだとされている。
「じゃあ、ヴィーと呼ぶな。ヴィーは俺のことをシャルと呼ぶといい」
なぜ王太子がそんなことを言い出すのかロゼトワールが理解をする前に、二人が親密な関係だという状況だけが着々と作られていく。
「ほら、呼んでみろ」
「シャル様……?」
「様はいらない。シャルと呼べ」
王太子の秘名の愛称を呼ぶ方が不敬なのか、それとも王太子の要請に応えない方が不敬なのか。王太子の言い出したことに、ロゼトワールを始め、それを見ていることしか出来ない周りも否定は出来なかった。
「シャル……?」
恐る恐ると口に出した呼び名に、アシルは満足げに頷いた。
「じゃあ、ヴィー、迎えを寄越すから明日から城に来るんだぞ」
こうして、ロゼトワールが自身が王太子の婚約者に内定した等理解するより先に、彼女の王太子妃教育という名の監禁環境の下地は整えられていったのだった。