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――今日も一日生き延びた!
ルシンダの学院生活は、当初予定していた方向とは違う意味で厳しいものとなったが、それでも何の成果がないわけではなかった。下手を打てば、失われるのは命というのがリターンに対して、リスクが大きすぎると思わないでもないが、収穫ゼロよりはまだマシだ。幸いまだ死んでいないし。
ロゼトワールに付きっきりでマナー指導を受けたおかげで、入学当初の表面を浚っただけの拙い動きは、みるみるうちに洗練されたものへと変わった。
見違えるほど美しい所作を見せるようにロゼトワールは
(ルシンダさんはヒロインですもの! これくらい出来て当然よね)
と思っていたが、ロゼトワールが小走りで駆け寄ってくるたびに、その後ろの魔王様の殺意を乗せた圧に、心臓がキュッとキリキリ軋む恐怖から逃れるために、図書館に逃げ込み上流マナーを必死こいて読み込み、寮室で何度も何度も練習したことも大きい。魔王様の前から少しでも早く姿を消すために。
その努力の甲斐あってか、最近ではロゼトワールの指摘も減ってきて、魔王の接近を逃れるという日も増えてきた。
勉強の面で言っても、学年の女子首席のマリエールが指導に当たっているため、入学当初よりも席次を一つ、二つ、三つ、ほど上げて、もう一歩で一桁台というところまで来た。
ロゼトワールには、
「それでも特待生ですか! まだやれるはずですわ、ルシンダさん! 貴女は学年首席を目指すべき人間なのですよ!!」
とやたら鼓舞されるが、流石にこれ以上は無理でしょう、とルシンダは遠い目をする。
まず、前列二列は王子とその側近と婚約者。幼少期より国最高峰の指導員の元で研鑽を積んできた人間達だ。そこにポッと出の男爵娘が入り、抜き去っていくなんて言うのは、都合のいい夢物語だ。一問一答形式の試験であれば、詰め込み方式でもなんとかなるかもしれないが、国の歴史や、政治問題、経済問題等、過去・現在・未来に波及するような思考回路は早々簡単に身に付くものではない。
彼等ほどではないにしても、他の学生だって同じような幼少期を経て今に至る。その中で中間層にいただけではなく、今では上位にルシンダが食い込んでいるのを褒めてほしいくらいだが、マナーも教養も当たり前すぎるパーフェクトお姫様には、出来ないルシンダが不思議なようだった。
世の中には、可能な事象と不可能な事象があって、可能なことも出来る人と出来ない人がいるのだ。学年首席というものは、まあ現実的な事象ではあるが、その席にルシンダが座るのは不可能なことだということをそろそろ気付いて欲しいところだ。
何度、
「フルベール様だって、女子次席ではないですか!」
と口を滑らせようとしたことか。脳裏に浮かんだそんな言葉に、冷や汗が流れたのも一度のことではない。
そんなことを一度でも滑らせようものなら、
「貴様ごときが、俺のヴィーを侮辱するのか」
とすぐさま冷たい剣先が喉元に突き付けられたことだろう。
危ない、危ない、とルシンダは見えない汗をぐいっと拭った。
そんな感じでギリギリで今日も生きている。
けれど、そんな日々とももう間もなく終わりを告げる。
二年近く極寒の日々をよく耐えたと、自分で自分を褒めたたえたいとルシンダは思う。
最初はどうなることかと思ったものの、マナーについてはロゼトワールが指摘できる部分も減り、勉強面ではマリエールに委任され、その間にアシルがロゼトワールをルシンダから引き剥がしているおかげで、学院生活は随分と穏やかになった。ルシンダの周りにロゼトワール、というよりもアシルの出現が少なくなると、今まで遠巻きに見ていたクラスメイト達から、話しかけられるようにもなった。
それは卒業試験を終え、後は卒業式を迎えるという時期になると多くの令嬢からルシンダは声を掛けられるようになった。
曰く、
「ぜひ、将来娘が生まれた時は是非ウチの家庭教師になってちょうだい!」
というものだ。
貴族科、とくに特別貴族科の生徒の多くはすでに婚約者がおり、令嬢達は卒業とともに結婚するのが通例となっている。早ければ翌年にでも子供を生む者も出てくるだろう。
そして、子を産んだ彼女達にとって大事になってくるのは、どんな家庭教師を付けるのかということだ。
入学当初、学力こそ高位貴族にも引けを取らないものを持っていたルシンダではあるが、そのままの彼女であればそんな話は出てこなかったはずだ。卒業とともに記憶から薄れていく存在。そういう存在になったはずだ。
けれど、今は違う。
何せ彼女は、ロゼトワールから唯一直々に礼儀作法を学んだ学生だ。
ロゼトワールと言えば、貴族令嬢の中でも特に美しい作法を完璧に身に付けた、令嬢の中の令嬢として知られている。ただし、同時に彼女は深窓の令嬢どころか幻の妖精扱いの令嬢でもある。
彼女を愛してやまない王太子殿下により、堅く閉ざされた場所で寵愛されているロゼトワールには、同じ階層にいる令嬢であろうと、容易に彼女に近づくことは許されていない。彼女と直接話したことがある者は社交界の中でもごくわずかだ。
だからこそロゼトワール自身に教わることは無理でも、将来的に『ロゼトワール王太子妃の教え子』の肩書を持てるルシンダを雇うことは、箔が付くものと考える令嬢方が増えるというのは不思議なことではない。アシルから逃げるために、ルシンダは、ロゼトワールの礼儀作法を完全と言えるほどに会得している。
おまけに、知力面でもルシンダは国一番の才媛と謳われているマリエールに手ほどきを受けた娘だ。国最高峰の礼儀作法と知識を伝授されたルシンダの価値はかなり上がった。
ふむ。と現状を把握して、ルシンダは思案した。
「卒業後は、礼儀作法の講師派遣所を開くのもいいかもしれないわね」
彼女の中身は商人の娘。転んでもただは起きぬ精神だ。
ルシンダがロゼトワールの手ほどきを受けていることは、今では国中の貴族が知っている。
それこそ『ロゼトワール王太子妃直伝』の触れ込みでルシンダが講習を開けば、需要は大きいはずだ。技術を習得できた者には、修了証を発行でもすればマナー講師として好待遇が期待できる。
これだわ! とルシンダは拳を握った。
辛いこともたくさんありすぎるほどあったけど、生きて卒業出来そうだと思えば気も楽になるというもの。
ルンタッタ、と鼻歌混じりで小躍りするルシンダに、不幸の手紙が舞い込むのはそれからすぐのことだった。