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ヒーローとヒロインの恋のお助け役である、悪役令嬢の行動をまとめたノートを見返していたロゼトワールが満足そうににんまりと笑う。
「ああ。でも、良かったわ。これは難しそうだと思っていたのよ」
最近、なかなか悪役令嬢としての役割を果たすことが出来ていなかったが、今日は上手く働けた。
最初は、ヒーローに婚約者がいることを見せつけること。
これは特に苦労もせずに実行できた。入学時にロゼトワールはアシルの婚約者として紹介された。同じ寮に住み、学院でもずっと一緒にいるのだから、その姿を見せることは簡単だった。
どちらかというと、アシルが自分の婚約者を見せつけて、牽制しているのだが、ロゼトワール的には同じことだった。
次に、マナーの不出来を注意すること。
王太子の隣に立つ存在のマナーは完璧でなければいけない。社交の場ではスマートな立ち振る舞いが求められる。そのマナーを知らなければ、とんでもなく白い目で見られてしまう。パートナーがいれば、そのパートナーまでそんな無作法者を選んだ者として恥をかくことになる。一国の王となるべきアシルにそんな恥をかかせるわけにはいかない。
厳しいことで有名な王宮のマナー講師にも褒められるロゼトワールが細かい点もつぶさに指摘した甲斐あってか、初めは拙い挨拶しかできなかったルシンダの挨拶は格段に美しいものになった。その作法を見て彼女を下位の出と侮る者はいないだろう。
「ルシンダさんは努力者ね。シャルのために、あんなに短期間で挨拶の作法が身に付くんだもの」
ルシンダが必死になって礼儀作法を身に付けたのは、アシルのためというよりも、アシルのせいだ。その出来が拙ければ拙いだけ、ロゼトワールは親身になってルシンダの指導にあたる。その度に吹きすさぶブリザード。今日はあんなに気持ちよく晴れていたのにな、と思うほど、局地的に氷雪が針のように全身に突き刺ささる厳冬期のような心地に落とされれば、嫌でも必死になろうというもの。一日でも早くロゼトワールの及第点を取り、あの極寒の視線と殺気から解放されたいとルシンダは頑張ったのだ。
そしてダンス。
社交界に不慣れなヒロインは、その華やかな場に気後れするのだが、そこは優しい王子様が颯爽と現れて彼女を華やかな場へと連れていく。
巧みなリードで彼女を舞わせ、会場中の視線を釘付けにするのだ。
実際には華やかな舞踏会ではなく、学院のマナー講義の一環ではあったし、ほとんどの人間は哀れな生贄にそっと視線を逸らしていた。熱心に見詰めていたのはロゼトワールくらいのものだ。憐れみこそすれ、誰一人アシルと踊るルシンダを羨ましがったりしていなかった。
ダンスフロアで踊る二人も、アシルは忌々しさも殺気も隠さない瞳で口元だけに笑みを作り、ルシンダはルシンダで恐怖に怯えて引き攣った笑みを浮かべていた。互いに楽しさ皆無のダンスだった。
「恥ずかしがって、シャルはもうルシンダさんと踊りたくない、なんて言うし」
うふふ、とロゼトワールはその微笑ましさを思い出して顔を綻ばせる。
いつだって、ロゼトワールの前では完璧な王子様のアシルが、ルシンダの前では違う顔を見せる。それだけアシルは彼女に惹かれているということだろう。
アシルとルシンダの恋は、着々に進んでいる。
(今日だって……)
悪役令嬢の多くは、わざとヒロインの大事な制服やドレスを汚すのだ。貧しいヒロインは替えの制服やドレスを用意出来ずに困ってしまう。
そこにヒーローが現れて、彼女に新しい制服やドレスを贈り、彼女をピンチから救うのだ。
物語の悪役令嬢の多くは、ヒロインに水を掛けたり、持っていた飲み物を掛けたりして彼女の服を汚すのだが、アシル(ヒーロー)にいつルシンダ(ヒロイン)に意地悪をするのかと警戒されているロゼトワール(悪役令嬢)はなかなかルシンダにこっそりと近づくことができない。おまけにロゼトワールには水物を持ち歩く習慣がない。王宮で開かれる舞踏会は、アシルの婚約者として王族席に座り、飲み物片手にフロアを歩き回って談笑するようなこともない。他家で開かれる舞踏会にはあまり参加をしたことはないが、そこでも飲み残しがあれば零してしまっては大変だからとすぐにアシルが取り上げて回収してしまう。
どうしたらいいのかしら、と思っていたら、なんと今日はアシルと別行動だった時に、運よくルシンダが噴水に落ちてしまう場面に遭遇した。
寒そうに震えていたルシンダには申し訳なかったが、アシルとの恋を進めるためには必要なことだ。
(きっと神様も応援してらっしゃるのね!)
こんなに都合よくルシンダの制服が汚れてしまうなんて、そうに違いないとロゼトワールは確信した。
ルシンダには不運の重なりでしかないけれど。
ずぶ濡れのルシンダに見かねてロゼトワールの制服を貸し与えたけれど、何故か公務で不在のはずのアシルが急に戻ってきて、ロゼトワールの貸し与えた制服を脱がせ、新しい制服を贈った。きっと、大切なヒロインに悪役令嬢の制服を着させることが嫌だったのだろう。
アシル的にはルシンダような人間が、ロゼトワールの着用済みの制服を着ることが許しがたい光景だっただけだが。ロゼトワールにもきっちりと新しく緩めの制服を贈りなおしている。身体の線に合った制服を着て授業に戻ることも、また、ルシンダが袖を通した制服を着ることも嫌がったからだ。
「わたしが、ルシンダさんを噴水に突き落としたと誤解もしていたし……」
そんな事実も全くなく、ルシンダが誤解されていたのだが――。
――ツキン。
悪役令嬢として正しい結果のはずなのに。
アシルに初めて疑われたと思うと、ロゼトワールの胸にツキンと小さな棘が刺されるような痛みが走った。
漠然とした、不安や孤独がロゼトワールの中に生まれる。疎外感とでも言うのだろうか。
ロゼトワールとアシルは、婚約が調った五歳の時からずっと一緒の時を過ごしてきた。ずっと。それこそ毎日のように。
王宮で、同じ部屋で講義を受け、手と手を取り合ってダンスの練習をして、お茶を飲んで。
任される公務が増えても、アシルは欠かさずロゼトワールとの時間を作ってくれていた。
誰よりもロゼトワールに優しく、完璧な王子様。
不安を吹き飛ばすように、ロゼトワールは慌てて首を振った。
「大丈夫よ。優しいシャルのことだもの。ルシンダさんと恋仲になるためだと知ったら、ちゃんと許してくれるわ」
大丈夫よ、とロゼトワールは自分に言い聞かせるように呟く。
大丈夫。大丈夫。
ロゼトワールの大事なアシルが幸せになるためには。
ルシンダのように身分の低い女性と幸せになるためには。
自分のような身分だけの婚約者――悪役令嬢が必要なのだ。