(28)
厳重に警備体制が敷かれた敷地だとか、一般寮よりも絢爛な造りだとか、恭しく出迎える使用人の数だとか。
そんなものはルシンダの記憶に一切残らなかった。どの選択肢が一番生存率が高かったのだろうかと、ここまで来てもまだ正解が見えない恐怖に、ガタガタと震える。
そんなルシンダの姿に、
(暖かな気候とは言え、よっぽど噴水の水が冷たかったのね)
とロゼトワールが見当違いの心配をする。
「お風呂を用意してもらった方がいいかしら」
「大丈夫です! 本当に! パッと着替えて、パッとお暇しますので!!」
ふっかふかのタオルと、真新しい制服を受け取って、ルシンダは光の速さで着替えて退散しようとした。
「――ほっ、そっ……!」
渡された制服はウエスト部分がきつく、どう頑張ってもファスナーが上がらなかった。
ロゼトワールとルシンダはあまり身長差はなく、腰回りもそう極端に細い印象はなかったのだが、この制服はどう頑張ってもルシンダには着れそうになかった。
(ワンサイズ間違えたのかしら)
あのロゼトワール、というかあのアシルがそんな間違いをするとは到底思えないけれど。
コンコンコン、と扉がノックされる。
「ルシンダさん? どうかしら?」
扉越しにロゼトワールが声を掛ける。
「あ、えと……私には、少し、小さいみたいで……」
「まあ。どうしましょう。ルシンダさんの制服が乾くにはまだ時間がかかるでしょうし」
「いやー、じゃあ、もう、午後の授業は自主休講で――」
「あ! そうだわ。代わりにこの制服を着てみて。こちらの方がサイズが大きいから」
「え? や!」
「ちょっと待ってね。すぐ脱いでしまうから」
「いえ!」
ルシンダの遠慮する声は聞こえなかったようで、しばらくすると使用人が別の制服を持って入ってきた。
「ごめんなさい。人が着たての物は気持ち悪いかもしれませんが」
「そんなことないです! 光栄です!!」
――光栄ってなんぞや? とは思いながらも、ロゼトワールをほんの少しでも否定する言葉を発したら終わりだと思うと、若干気持ち悪く取られそうな発言になってしまう。全肯定したら全肯定したで、邪な感情があるのかと、それはそれで責められる要素しかないのが辛いところだ。
(どないせーっちゅんじゃい!)
泣きたいのか怒鳴りたいのか分からない感情で、ルシンダは新たに渡された制服の袖に腕を通した。
結果として、二つ目の制服は入った。何とか。ギリギリ。ウエスト周りがちょっと苦しくはあるけれど。胸周りはだいぶ余っているけれど。
「ルシンダさん? どうかしら?」
「あ、はい。これなら、なんとか」
お腹を引っ込めることを意識しながら、ルシンダは何とか返した。さっさと帰りたい。
開けるわね、と一声かけてロゼトワールがドアを開けて入ってきた。
「ほっそ! でっかっ!」
入ってきたロゼトワールの制服姿に、ルシンダは思わず驚愕の声を上げた。ワンサイズ小さいかと思っていた制服は、ロゼトワールにピッタリと合い、豊かな胸の盛り上がりも、なめらかにくびれる細腰の線もくっきりと露わにしている。
ルシンダの声に、ロゼトワールは不思議そうに首を傾げる。あどけない様子がよく似合うのに、何だその体つきはとルシンダは内心で唸る。
「――あの、つかぬ事お伺いしますが」
「何です?」
「もしかして、フルベール様は、コルセット等着用して、制服を着られていたり……?」
「いえ。付けていませんわ」
どうして? と不思議そうにするロゼトワールに、自前でコレかとルシンダは遠い目をする。
(確かにこれは危なっかしくて過保護になるわ)
おっとりぼんやりとした性格で、この魅惑的なスタイル。
そこまで気が付いて、ルシンダは、はた……と思考を止める。
(これ、かなりマズいんでは……?)
ロゼトワールはサイズの合っていない大きめの制服を敢えて着ていた。それはつまりアシルがそうしたのでは? ということはすぐに思い至った。
「あ、あの、あのっ! フルベール様ッ! やっぱり、これ、お返し――」
「ヴィー!!」
制服を返却を懇願するルシンダの声は、けたたましく派手に開け放たれるドアの音と、声にかき消された。
(死んだわコレ)
とルシンダはそっと目を瞑った。
「まあ。シャルったら。ノックもなしに女性の部屋に入るなんて、紳士らしくないわ」
「あの女狐に連れ込まれたと聞いたが――その格好はどうした?!」
慌ただしいアシルの様子に、ロゼトワールは「シャルがそんなに慌てるなんて珍しいわね」とおかしそうに笑っていた。ルシンダとしては笑い事ではない。状況的にはルシンダがロゼトワールに連れ込まれた側だが、アシルには言っても無駄なことだろう。大体ここは王族用の寮だ。そこにルシンダがロゼトワールを連れ込むなんて無理な話だと思うが、アシルにしてみれば「ルシンダにロゼトワールが誑かされた」ということになっているのだろう。
だけど、ロゼトワールにしか目に入っていない今ならもしかして、逃げられるのでは、とそっと一歩踏み出そうとしたところで、
「――貴様、その格好は何だ」
冷え冷えとした瞳に早々に捕まった。
「えと。その。これは。その。えと」
「噴水に落ちてしまったのよ」
「噴水、だと?! 大丈夫か?! 怪我は? 怪我はなかったか?! まったく、噴水に突き落とすとか」
ゆらり、とアシルの影が揺らいだ気がして、ひぃっ、とルシンダは喉の奥で悲鳴を上げた。これは完全に、ルシンダがロゼトワールを噴水に突き落としたことになっている。
けれど、ギリギリのところで神はいた。
「まあ。ひどいわ、アシル殿下ったら!」
ぷりぷりと怒って見せるロゼトワールがそこにいた。
「わたくしが、ルシンダさんを突き落とすだなんて、そんな酷いことしませんわ! ねえ?」
何だか怒る観点が違う気がしたが、何でもいい。とにかく、ロゼトワールを突き落としたという冤罪さえなくなればなんでも。
「は、はい。あの、私が、勝手にバランスを崩して落ちただけです」
バランスを崩した原因については口が裂けても言えない。
ロゼトワールを抱きしめ、ルシンダを厳しい目で睨みつけていたアシルは、ロゼトワールの言葉に続くルシンダの言葉に、鼻で笑った。
「そんなことで俺の婚約者に迷惑をかけるだとは、とんだマヌケだな。まあ、お前のような女にはみすぼらしい濡れ鼠のような恰好が似合いだと神も言っているに違いない」
自国民に対してとんだ言いぐさだが、「仰る通りでございます」と命が惜しいルシンダは全面的に認めた。
だが、そんなアシルの言葉に反論したのはロゼトワールだ。もう止めてほしいと、ルシンダは心の中でロゼトワールの肩を揺さぶった。彼女が何か言う度に、アシルのルシンダの印象が悪い方向に転がっていくのだ。
「殿下、違いますわ。ルシンダさんのような方は、鼠ではなく猫というのがお似合いなのですわ」
「猫?」
「ええ。ルシンダさんは『泥棒猫ちゃん』なのですわ!」
泥棒猫ちゃん――?
「ふふ。ルシンダさんのようにかわいらしいお嬢さんにはこう言うのですわ。『この、泥棒猫ちゃん!』と」
わたくし、知っているんですの!
と何故かロゼトワールは自信満々の様子を見せるが、多分、ロゼトワールは激しく何かを勘違いしている。勘違いしているのだが、アシルは、そうだな、と頷いた。
「この女は、狐でも鼠でもなく、泥棒猫だな」
ロゼトワールの関心を奪う、泥棒猫。
ひゅっ、とルシンダは息を飲む。
「――新しい制服を手配してやるから、それを脱いでさっさと出て行け、この泥棒猫が」
「はい、喜んで!!」
野山を駆け回って鍛えた健脚を活かして、ルシンダは魔王の館から全速力で逃げだしたのだった。