(26)
ロゼトワールは由緒正しい侯爵家の出で、おまけにフルベール家は勤勉で礼節を重んじる家だったため、物心着く前から礼儀作法を叩き込まれていた娘であり、王太子の婚約者として幼い頃より当たり前のように誰よりも洗練された立ち振る舞いを隅々まで身につけた令嬢だ。
それに対して、ルシンダは男女の区別もない子供時代を過ごし、男子と同じように野山を駆け回り、家での食事はテーブルの上にどーんどーんと洒落っけなく乗せられた大皿料理を家族や時には商会の従業員や居候の若者達とつつき合うようにして食べてきた平民だ。そんな平民貴族にロゼトワールのような完璧な礼儀作法を求められても困るというものだ。
そもそも、貴族というものは家の歴史や格式によってそれぞれの付き合いがあるものだ。同じ『貴族』と言っても、上流階級と下流階級の間には越えられない階層があり、二つの階級が渾然一体となって存在することはない。
勿論、どっちつかずの中間層に属するような貴族もいて、己の地位を確立しようとより下の者を見つけて嘲笑することはあるが、正真正銘の上流階級の者が、わざわざ底辺にいる者を見下す行動はしない。そんな稚拙な誇張をする必要もないからだ。そんなことをすれば、上流階級としての余裕がないものだとみなされ、却って家の格式を落とすことに繋がる。真の上流階級は、その場に泰然と構え、至らない者を導く余裕を見せるものだ。
だから、はっきりと底辺貴族だと分かるルシンダをわざわざ貶めようとする貴族は、そもそもあまりいない。むしろ、「こんな者まで気にかけてあげる優しい私」を演出する道具に利用される側だ。
ただ、成金男爵家でありながら、特別貴族科に入学したことでルシンダは注目を集める存在だった。同じような階級の人間には嫉まれ、少し上の階級の者からは目障りに思われる存在だったかもしれない。それでも、そのこと自体は時間とともに馴染んでいく類のものだったはずだ。
それなのに、今もルシンダが「あの子が?」「例の?」とヒソヒソ噂されているのは、超上流階級にいるロゼトワールのせいだった。
ロゼトワールは何もルシンダを貶めようとしているわけではない。――ロゼトワール的にはイジメているのだが、ルシンダ本人を含め、誰もそうは思っていない。
ロゼトワールは流石生粋の上流階級の出という令嬢で、上流階級の世界――特別貴族科に放り込まれた、未完全な貴族の娘であるルシンダを心配し、その世界に見合った立ち振る舞いを身に付けさせようと親切に教えてくれている。捨て置かれてしかるべき底辺貴族にまで慈愛の笑みを浮かべて、手を差し伸べるロゼトワールは、清廉な真なる上流階級のご令嬢だった。――時々、ロゼトワールは理解不能な反応を見せるが、底辺の人間が最上の人間の思考を理解することは出来ないのだろうとルシンダは諦めている。
社交界に出たことのないルシンダはそれまで知らなかったが、ロゼトワールは社交界で『月夜の妖精』と讃えられる令嬢だった。その呼び名を聞いた時、ルシンダは「なるほど」と納得したものだ。美しい夜空を思わせる瞳に、夜空から地上を優しく照らす月光を思わせる淡く光り輝くハニーブロンドの髪。加えて、常に穏やかな微笑を浮かべているその姿は幻想的な可憐さを持っていて、女神というよりも妖精という表現が似合う美少女だった。おとぎ話から抜け出してきたような見た目のロゼトワールは、その中身もどこか浮世離れしていることから、独特の感性を持っているようだったが、穏やかで心優しい美少女であるロゼトワールは総じて聖女のような令嬢だった。
そんなロゼトワールに手を差し伸べられることのどこに問題があるのかと言うと、彼女の婚約者が問題だった。
ロゼトワールの婚約者は、この国の王太子、アシル・シャルル・エクトル・フォルタンだ。彼にとってロゼトワールは唯一絶対の存在で、社交界に出ている貴族の間では、アシルがロゼトワールのことを寵愛していることは有名なことだった。彼女に手出しする者については敵意を持って排除する。一切の温情なく、徹底的に。
そんなアシルの寵愛を受けるロゼトワールが、親身になって近付くことが問題だった。
ヒソヒソと遠巻きに噂される内容は、「あの子が」「例の」――「アシル殿下に睨まれてしまった可哀想な子」というものだ。向けられる視線は嘲笑や冷笑ではなく、憐憫による純粋な同情。
遠巻きに向けられる同情の視線に、居た堪れなくなるのも仕方がないと言えた。
誰か助けて、とは思うが、誰も助けられないことはルシンダ自身分かっていた。もし、ルシンダ以外に同じような状況に置かれている人間がいれば、ルシンダだって遠巻きに同情する側に回っていた。可哀想だと思いつつも、それ以外何も出来ない。
何せ相手はこの国の王太子。この階級社会の最上位に君臨する人間だ。上流階級に属する人間だって、気軽に声を掛けることすら出来ないのに、下流階級の人間は本来なら挨拶だってまともにすることは許されない立場だ。ロゼトワールがいなければ、同じクラスに在籍していても、卒業まで一言も喋らずにいたことだろう。元平民の歴史も何も無い成金男爵家のルシンダと王太子であるアシルの間には中途半端な中間層等存在しない。明確な、けして超えることのできない壁がある関係だった。
世の中にはその壁をぶち超えて成功する物語は多くある。けれど、現実の話は、稀に、極稀に、極々稀にあるかもしれない程度で、その話のほとんどは夢物語だ。夢であってけして現実ではない。
身分差を超えた恋愛に憧れる女子は確かに多く、平民を含めた下流階級の娘が、上流階級の見目麗しい貴公子に見初められて幸せになる話は星の数ほど存在するが、それは物語だから楽しめるのだ。そんなことが現実に起き、本当に幸せになれると思っている者がいれば、それはあまりに現実の世界を知らない愚か者だとルシンダは思っている。
下流階級の者が憧れているのは、上流階級の世界の華やかで煌びやかな上辺だけのもので、その内情のドロドロとした派閥間の権力闘争や、冷酷で残酷な人間関係なんかの暗い部分は必要としていない。現実の貴族社会は、物語のように綺麗事で全てが丸く収まるような都合のいい世界ではない。そんな世界をまともに知らない人間が入ったところで、上手く立ち回れるわけもなく、一方的に利用され、搾取され、ボロボロになるだけだ。愛だけで全てが解決するほど現実の世の中は甘くない。
実際に、ロゼトワールの一方的な慈悲によって、無理やりに上流階級の中に引っ張りあげられた超底辺階級のルシンダの現実は甘くない。これが物語の世界であれば、ロゼトワールとともに王子であるアシルも優しくルシンダに手を差し伸べてくれていただろう。優しく笑いかけてくれたかもしれない。そしてなんなら、王子に対して身分違いの淡い恋心を抱いたかもしれない。
(それがどうよ! 現実なんてこんなもんよ!)
くっ、と現実から目を背けるように、ルシンダは内心で拳を握りながら顔を背ける。現実世界は斯くも厳しい。ルシンダにとってアシルは憧れの王子様ではなく、恐怖の対象だった。
ロゼトワールは物語の中の理想のお姫様そのものなのに。むしろ、ルシンダのようなちっぽけな存在を全力で敵視する王子であるアシルが嘘みたいな存在だった。優しい王太子の婚約者に声をかけられた結果、王太子に虐げられる元平民の男爵家の娘の話なんて聞いたことも無い。
(階級も性別も関係ないとかあの王子は心が狭すぎる! 少しは婚約者のように物語の王子様を見習って!)
愛こそ全てみたいな身分差のある恋愛物語があるが、その愛すらない場合どうすればいいと言うのだ。物語のように縋れる愛すらないルシンダの現実は悲惨でしかなかった。
これが、ロゼトワールの地位を狙っている娘の話ならこの仕打ちはもっともだろうか、そもそもルシンダは王子からの愛も求めてないし、上流階級に伸し上がろうという野心だってない。
身分差がありすぎるが故に、その所作の違いが目立ち過ぎてしまうことが不幸を呼ぶとか、やはり現実は理不尽だ。
まさかロゼトワールが、ルシンダとアシルを恋仲にしようとしているなんてルシンダ達本人含めて誰も気付いて居ないことが、一番の不幸の原因だとは誰も思いもしなかった。
王太子殿下の最愛の婚約者を「現実の世界を知らない愚か者」と言っちゃうルシンダさん。
「え?! ち、違う! 違います! 私そんなつもりじゃっ……!!!!!!!」