(22)
ルシンダにとって登校中は授業時間だけが唯一の救いだった。
それ以外の時間と言えば、
「ルシンダさん」
「ルシンダさん」
「ルシンダさん」
と聖母のような侯爵令嬢がにこにことした顔で、魔王様を連れてやって来るのだ。
すぐ後ろで、あんなに凄まじい殺気を向けているのに、どうしてロゼトワールは気付かないのかと、ルシンダは心で泣いた。
(私のことを気に掛けてくれているのなら、どうぞ、どうぞ、近づかないでくださいませ……!)
逃げ出したいのに、それが許されない立場なのが苦しい。
ロゼトワールの言葉を断りでもすれば、
「貴様のような平民上りの分際で、俺の婚約者の誘いを断るとは言い度胸だな」
と絶対零度の殺気を向けられることは分かっている。何なら、準王族に対する侮辱罪だとかでそのまま死を賜ることになりそうだ。
ルシンダ自身が何をしたわけでもないのに、ロゼトワールの善意によってアシルの不興を一方的に買っていることは不幸以外のなにものでもない。まさに地獄への道は善意で舗装されていることをルシンダは身をもって体験していた。
さて、学院の貴族科の学習内容は、何も座学だけに留まらない。貴族としての教養もまた学ぶ場所である。
貴族には平民にはない社交マナーというものがある。
授業時間だけが唯一の救いの時間だと思っていたルシンダは、すぐにその考えを改めた。
安寧の時間は、座学の講義時間だけだった。
ロゼトワールに、貴族のマナーが未熟だと思われているルシンダは、マナー講習中、ロゼトワールに付き纏われ――もとい、付きっきりでフォローを受けている。
ロゼトワールがいるということは、必然的に魔王――王太子殿下も付いてくるということだ。
貴族の社交はその場に合せた立ち振る舞いが出来るのは当然のこと。挨拶から始まり、テーブルマナーはカトラリーの使い方だけではなく、ゲストとホストという立場によって変わるマナーもある。時と場所により変わる服装のマナー。そして、社交界で最も重要視されるのがダンスマナーだ。
ステップを覚えることは当然の嗜みで、何気なく踏んでいるように見えるステップの中にも、マナーやエスコートの要素がたくさん含まれている。そしてダンスは踊れるだけではなく、誘い方に受け方、断り方にもマナーがある。だからと言って型通りの会話をすればそれはそれで面白味がないため、その場に応じた挨拶が必要になる。
そうした講義を一通り受けた後は、パートナーを組んでの実践練習へと移る。
流石に、ダンスレッスンの間はロゼトワールに絡まれ――もとい、世話になることはないだろうとルシンダはほっと胸を撫で下ろしていた。
「ルシンダさんは、まだ舞踏会の経験がないのですよね」
「ええ。ええ。ですので、わたくしめのような初心者がいても邪魔になると思いますので、まずはステップの復習を端の方で行いたいと思いますね!」
社交界デビューすら果たしていない底辺貴族のルシンダと、由緒正しき御家柄で王太子殿下の婚約者でもある超上流階級のロゼトワールとではそもそもの素養が違う。そもそも、同性同士でダンスパートナーを組むことがない。
(やったー! 魔王と離れられるー!!)
ルシンダはそそくさとロゼトワール、に憑いている魔王から離れる準備をする。
「ですので、フルベール様は、わたくしめのような者のことはどうぞ、どうか、お気になさらず、アシル王太子殿下と」
「そうですわね。アシル殿下はダンスの名手ですから、ダンス初心者のルシンダさんのことも上手にリードしてくださると思いますわ!」
「――――……へ?」
(なんて言いました、こちらのお嬢様……?)
「殿下もルシンダさんにダンスを教えて差し上げたいと、そう思いますよね、ね?」
小首を傾げる周りに可憐な小花が待っている幻覚が見える。かわいらしい婚約者の姿に、アシルは一瞬柔らかな表情を見せたが、すぐに殺気立った視線をルシンダへと向けた。
(何故……何故……!!)
「ヴィー。俺は――」
「殿下は優しい王子様ですもの。困っているルシンダさんのことを放ってはおけませんよね?」
きらきらとした表情で見詰めてくるロゼトワールにアシルは何も言えない。彼は彼女の前では優しい王子様なのだ。
この瞬間、魔王、もとい王太子殿下がルシンダのダンスパートナーを務めることが決定した。
地獄への道は善意で舗装されている。
(わ、私が何したって言うんですか神様……!)
救いを求めて、ルシンダは周囲を窺ったが、一斉に視線を外されたあげく、ササッと無駄のない動きで距離を取られた。
そんな中、ルシンダを地獄に叩き落としてくださった聖女様だけが、かわいらしい笑顔で手を振っていた。ルシンダに向けて。
(神は死んだ――)
不承不承のアシルに掴まれた手がミシミシと音を立てた。
ダンスホールが一瞬にして、氷原へと変わる。
こうして、ルシンダにとって地獄の時間が幕を開けた。