7.第1の殺人
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森明子は仕事帰りで多摩川沿いの河川敷を歩いていた。タイトなジャケットにパンツスーツを着た明子のような姿は、この辺りでは珍しい。自宅から五十分の大手メーカー会社に勤めて三年間。彼女にとってはとても長い期間だった。
それは、学生時代で過ごした三年間とはまったく違った部類の長さであり、事務という仕事に生きがいを感じたことはなかった。男社員に少しでも持てはやされると、先輩の女社員には冷たくされ、陰口を言われた。御客の対応はたちの悪い人であっても、笑顔を絶やしてはならなかった。そのような境遇であっても、持ち前の明るさで仕事と人間関係においては懸命に対応した。仕事後友達と飲みに出かける時間が大切だった。明子はそこで日ごろのストレスを解消していた。
来年の春には結婚をする相手がいた。友達の紹介で彼と出会ってから一年の月日が流れていた。結婚を決意するには少し早かったように思える。このまま仕事を続けていくか、退職して家事に専念するか、葛藤があった。
彼からは仕事を止めてほしいという要望がある。でも、もし退職したとして、今付き合っている彼と同棲するようになれば普通に生活するだけの収入は確保さてはいるが、自分が彼との間に子供が出来たとして、育てるだけの貯金はなかった。
愛の幻想が現実を勝る時間はあまりにも少なかった。あるいは現実をみる冷静な心がすっかり根付いていた。けっして彼が嫌いじゃない。外見が崩れているわけでもなく、普通の容姿をもっている。真面目で、普通の人ならこういう人を結婚相手に選ぶような模範的人格をもっている。実際、親や友達から結婚を反対の意見はなかった。何もかもしがらみがなく、順調だった。でも、物足りない。
彼と一緒にいると息が詰まる時があった。束縛心が強く、一緒にいる時間以外は常に監視されているような錯覚に陥る。仕事中に掛けてくる電話がなくなったことが救いだった。大勢いる友達とパーッと遊んでいる時の方が何倍も楽しかった。そんな時間も結婚してしまえば制限されてしまう。否、なくなってしまうかもしれない。そうなると自分の輝ける時というのも同時になくなってしまうのではないかと思った。
明子はそのような陰の部分を秘めていた。親友には飲んだ席で愚痴ったこともあった。彼には悪いなとは思いつつ、溺愛した記憶がなく、プロポーズを受けたときも仕事のように事務的な返事で受け入れた。彼の目は輝いていた。あまりにも嬉しそうな顔をしていたので、私もそれにつられて喜んだ。演技に近かった。
それからは明子にとっての人生を決定させた時間をただひたすら過ごしていた。誰かに縛られる感じは、会社の内定が決まった時よりも上だった。この場所を歩いているといつも様々なことが頭をよぎった。考えたくないことまですべて。自分の体と心が隔離される感じだった。
明子は他人から見れば心配されかねない状態だった。
川沿いの公園は人口的な芝生でコーティングされていた。
彼女の背後からは電車の走る音が聞こえてきた。
下を向くと無数のゴミ屑が転がっていた。
正面には川上を渡る大きい橋が見えた。
右手側から川の流れる音が聞こえた。
左手側にはテニスコートが見えた。
空は曇っていて星は一つもない。
虫達は鳴き声で合唱していた。
生ぬるい夜風が吹いていた。
遠くの街灯が綺麗だった。
暗闇に目が慣れてきた。
不吉な予感があった。
人気は皆無である。
ただ静寂な空間。
民家が少ない。
草のにおい。
長い歩道。
不安感。
直感。
何?
いつもとは違う場所にいるようだった。見慣れた景色、空気が歪んでいるようだった。息苦しさもあった。頭で考えても言葉が浮かばない。明子の今後を考える思考を無にする嫌悪感。この原因はいったい?
足音がした。方向は背後からだった。つま先立ちをして、地面に接する面積を最小限に抑え、音を押殺した歩き方だった。明子は歩みを止めた。自分の足音を無くしたことで、背後からの足音はより鮮明なものとなった。体に寒気を感じた。容赦なく足音は自分の所に近くなる。恐怖から背後を振り向けず、硬直した体は逃げることすら忘れた。体全体が震えた。
突然衝撃と共に、体の中に異物が進入してきた。生の感触がとても他人事のように思えた。痛みを感じる間もなく、人間の肩が背中に当たった。数秒間、時間が止まった。激痛が襲ってきた。背中の部分に冷たいものが伝った。
明子が悲鳴をやっと挙げようとした瞬間、皮の手袋が口を塞いだ。全身の力が加速的に抜けていった。顔面から滝のような発汗があった。それは直ぐに全身へと移行した。目の前が暗くなってきた。周りが暗いというのに、それが手に取るようにわかった。明子は体を支える力がなくなり、膝から地面に倒れた。アスファルトにぶつかった時の痛みはなかった。神経はすでに上半身しか機能していなかった。
「誰?」
明子の人生で発した最後の言葉だった。相手は答えなかった。否、意識が薄れ、五感が働いてなかったのかもしれない。自分を見下ろしたスレンダーな体躯で黒服、顔の半分を覆った深い帽子の姿。暗闇の中から不気味に光る二つの目は据わっていた――ように思えた。死神に見えた。
その後、相手が持っていたナイフは五箇所明子に襲ってきた。生命を支えるものすべてを奪いさった。明子は婚約中の彼を始めていとおしくなった瞬間、絶命した。
黒服の人物は明子の姿を見て笑っていた。