5.事務所内部
と書いてあった。独特の名称である探偵事務所は現在でも顕在であった。
ビルの右側にあるさびれた螺旋階段を上ると、ドアはガラスばりでスモッグがかかり、中を見ることは出来なかった。ただぼやけたガラスの向こうが漆黒の闇であることが義高を不安にさせた。義高はこんなことがない限り、絶対足を運びたくない場所だと思った。
ガラスドアを手前に引くと、薄明かりが点灯した。
入り口での出迎えはない。
すいませんと何度か声を掛けてみたが、返事は無い。
かまわず中へとはいっていった。中から柑橘系のいい匂いがした。内装は想像通り、古臭いどこかの事務所でわりと広かった。だが出窓が部屋のわりに小さくカーテンが閉められていた。外界から空間を遮断しきっている感じで、日の当らない部屋は義高に圧迫感を与えた。部屋の右端に設置されたスティール製の棚には、驚くほど少ない資料ファイルがあり、その横にあるラックには沢山のCDやDVDが並んでいた。さらに横にシフトするとプライベートシアターのつもりなのか、大きなプラズマディスプレイモニターの下にDVDプレーヤーと、正面には背もたれにマージンがある二人用のソファが置いてあった。反対側には全身が映し出されるほどの大きな鏡があった。それに比べると手前にある客用の椅子とテーブルは粗末なもので、まるでリサイクルショップで適当に購入してきたような代物だった。
部屋の隅にはエレキギターとアコ―スティックギターが立てかけてあった。
義高はざっと事務所を見渡しただけでもう不信になっていたが、何度か人の所在確認するために、何度も呼びかけた。
左側に見えるドアの奥からようやく声がした。女の人の声帯だった。妙に気だるい声だった。
「はーい。今行きますから」
まさか女探偵?
と義高の頭の中は疑問符で満たされた。
呆然と立ち尽くしていると、ドアが開き、白のワンピースを着た、髪の長い女が現れた。黒髪で、まったく脱色の後もないなく、薄暗い部屋が一層黒さを際立たせていたが、薄化粧でも顔のつくりははっきりしていて、大きすぎない涼しい目、太めのしっかりした眉。唇のグロスが光沢を帯びて艶かしく、肌は美白だった。和風美人を思わせた。そのため暗い印象はなく、華やかに見えた。
「お客様ね、ちょっと待っていてくださいね。今コーヒーを入れるから」
よく通る声だった。その女は微笑むと、今出てきたドアに再度入っていった。香水の残り香があった。
やはり女探偵か!
疑問符が確信へと変化してきた。事情はどうであれ、事件の解決能力があればそれでいいのだから。
女がコーヒーカップを二つ持ってきた。
「どうぞそこにある椅子に座ってください」
義高は粗末な椅子に座ると、テーブルにコーヒーを置かれた。角砂糖とミルクの入った容器まであった。
「どうぞ飲んでください、ご遠慮なく」
事務的な感じがなく、人のよさそうな受け答えで、義高は緊張が和らいだ。探偵というイメージは、どうしても頭が切れる人、なおかつ冷淡で無駄がなく、依頼内容以外の話はまるで聞かないというものだった。それがいい意味で裏切られたことがなによりもうれしい。
「ありがとうございます」
義高は初対面だと、声はどうしても小さくなってしまう。元来義高の声帯は篭るタイプなので、他人は聞き取りづらい。
中学生の頃、音楽の先生が、自分の発した声は自分の耳で聞くのと、他人が聞き取るものと違うということを教わり、早速カセットテープで自分の声を録音して聞いた。価値観、見解がごっそり変わるという体験をした記憶があった。カセットテープから聞こえて来る自分の声は別人だった。しかも義高が思っていた以上に変な声だった。義高はそれ以来、自分の発する声にコンプレックスを持っていた。相手が聞き返してくる場合もしばしばあった。
「で、今日はどんな用なの?」
飲んでいたコーヒーを噴出しそうになった。距離をごっそり縮小する態度は外見と合わない。義高は瞬時に口を塞いでかろうじてコーヒーを喉に戻した。女はそんな様子は気にせず、義高が答えないので苛立っていた。
「誰かの捜索とか?」
女はいきなり友達口調で接してきた。態度の急変で落ち着きをなくしたのでは、余りにも間抜けに見られてしまうと思い、冷静になるよう勤めた。
「今日は事件の解決を依頼しに来ました」
「どんな事件なの?」
「友達が自殺したんです」
「ふーん、それが事件なの? まあいいや、それで」
「でも、ぼくには友達がどうしても自殺したようには思えないんです」
確かに義高はここに来るまで、昇の自殺を否定することに対して、事件とは定義していなかったことに気が付いた。探偵事務所で依頼している空気が義高の疑問を事件にまで昇格させていた。
「気持ちはわかる。ただ単に自殺と思いたくないのか、それとも疑問点があるの?」
「疑っている動機を聞かれると正直困るんですけど」
「そこがかなり重要だと思うんだけどね」
どうしても人の気持ちを読んでしまう潜在能力までは言えない。ここが弱みだった。女は聞くだけ無駄と解釈してしまったのか、その後に質問をしなかった。早々に見切りを付けえしまうのも探偵ならではなのかもしれないと義高は思った。
「悪いことは言わないよ。ここの依頼金額は超高いし、君の名前は?職業は?私は亜紀」
微妙なタイミングで質問と自己紹介するなと思った。苗字はあえて聞かなかった。
「京理義高です。大学生です」
「義高君はまだ学生で、とてもじゃないけどバイトの給料じゃきついし、やめな。稼いでいる社会人とか、金持ちの家の坊ちゃんならいいけどね。君は違うんでしょ?」
金持ちとは見えないと思われていることは心外だったが、相手がどんな人にせよ、返答はこうなることは予測していた。どこにでもいるような大学生が、事件性もないものを、探偵に依頼している場面など聞いたことがない。しかし、義高は切り札を持っていた。
「残念ながら今ぼくはバイトもしていませんし、金持ちでもありません」
「じゃあ、なにも言う必要はないわね。今回はあきらめた方がいいわ。君のためにもならないと思うし。友達が自殺か他殺かが曖昧で心が晴れなくても、真実を知らないでそのままにしておくことが良いときもあるの。しかも、自殺を疑うちゃんとした根拠がないんでしょ。わたしは君の友達思いの優しい性格だってことは理解したから、今日はこれで……」
亜紀は義高がまったく引こうとしない、むしろ何か言いたそうな態度を見て言葉を窮した。第一印象から、亜紀は義高が粘着質のある性格だとは思っていなかったに違いない。
「今日はこれでさよならとは言えません。他にも、依頼がありまして」
亜紀は呆れ顔で、少し面倒くさくなっていたが、とりあえず義高の話だけは聞こうとしていた。
「で、なにがあるの?」
「実はぼくをあなたの弟子にしてください」
「はぁ、弟子って?」
亜紀は、弟子という言葉を自分の頭の中から引きずり出しているようだった。言っている自分も恥ずかしいとは思いつつ、義高は主張した。
「そうです。古臭い言い方ですが弟子です。といっても、ぼくには経験がありませんから、アルバイトって形で手伝いをしたいと思いまして。けっしてアルバイト料は請求しませんから。給料はなしでお願いします。ただ、事件の解決だけは協力してほしいんですけど」
「アルバイトねぇ。ここは基本的に暇だからなぁ」
亜紀は上を向いて考え込んでいた。給料なしでのアルバイトが効いているなと義高は心の中で微笑んだ。
「ちょっと待っていて」
そう言うと、立ち上がってドアの向こうにある隣の部屋へ入っていった。何かを調べるのだろうか。アルバイトというとまず面接があるパターンが多い。
「ケンジ、ねえ起きて」