4.美辞麗句探偵事務所
義高の通っている大学は、全体的にイタリアの街並みを思わせる造りになっている。正午にはチャイムではなく、教会を真似て造られた五号館の屋根に聳え立つ鐘がなり、校舎は芝生がメインで、図書館の横には劇場まである。建物全体は山の上に作られたもので、敷地面積もどの大学にも見劣りしない。学食も大勢の大学生を相手に料理をつくるものであるから、安価な素材を使いがちであると思われるが決して味は悪くない。ラグビーサークル等の大柄な学生は、学食と持参のお弁当を同時に食すこともあった。さり気なくカフェのような休憩所もある。そこにはいつもお洒落な男女がたむろしている。
理工学部に所属している義高にとって、どの教科も、半分以上は日本語とは思えない言葉を使って講義が進行しているかのようだった。当然、できるだけ文系の教科をとって、暗記が中心のテストで単位を稼ぐ形に定着した。
江崎教授が担当している心理学の講義は好んで出席していた。単純に、江崎教授は他の教授とは違い、あくまで学生が理解しうる範囲で講義を進めていく。それ故、学生は疑問に思ったことが見つかれば、質問がしやすく、なにを質問していいかさえ分からなくなってしまう状況を回避していた。講義内容から脱線する時も、相手に興味を与えるよう、様々な工夫を用意していた。
連絡掲示板には心理学の休講という文字が貼られていた。今日は上半期最後の講義で、大学へ江崎教授の話を聞くために来ていたのでいささか消沈していると、菅野清が声を掛けてきた。Tシャツに、グレーのベスト、細見のジーンズにブーツを合わせている。
「おう、今日は心理学休みだろ」
わざとクールに低い声で話す彼は、ミステリーマニアである。古今東西のミステリー作家なり、作品なりを知っている。といっても義高自身、その分野の知識は明るくないので、本人がなんでも知っているというのは疑い深いが、すくなくとも義高を驚かせる知識は持っていた。また、作品の探偵を意識しているのか、妙に低く声を発生する。
菅野と話すようになったのは心理学の講義がきっかけだった。菅野も江崎教授の心理学教授の話は気に入っていた。
「ああ、今日は帰ろうかな。心理学ないし」
「不良大学生だな」
「そういう菅野だって帰ろうとしているんだろ」
「よく見破ったな」
菅野が口を片方だけ吊り上げて微笑すると、義高は高橋家のことを思い出した。
「ちょうどいい。屋上でも行かないか」
「いいな」
なぜ今更屋上に誘ったのかを疑わない彼に、昇の他殺説を話すことを迷った。
十号館は校舎で一番高い建物で、そこの屋上での暇つぶしは学生の間で人気があった。そこそこ高い山に作られた大学であるから、下方の平地である街や海までも見渡せる場所。夜はカップルが多い。義高ら二人が屋上に着いて、誰の姿も見なかったのは、皆が講義を受けている時間のおかげだけではない。偶然も手伝った。
「で、なんでここに呼び出したんだ」
「実はな、高橋昇のことなんだけど」
すべてを話した。義高自身の能力以外は正直に言うと、菅野は興味津々に聞いていた。思ったとおりだった。
「証拠も何もないんだな」
「これから調べる。それには菅野の協力が必要なんだ」
「なるほど、面白そうじゃないか。俺はあまりあいつとは話をしたことはないけど、内に篭るタイプという印象が強かったな。というか、あまり大学に来ていなかっただろ」
「誰もがたいていはそう思うだろうけど、実際も同じだよ。大学はつまらないとは言っていた」
「そうなると、当然自分が自殺しようと思っても、他の人に打ち明ける可能性は少ない」
菅野は煙草に火を付けると、ベンチに座り遠くを見つめた。この場所からは隣の東京都まで見渡せる。
「当然だろ。ぼくだって昇が自殺するようなそぶりを少しでも見せていたら他殺を疑ったりしないって」
義高の言ったことを無視でもしているのか、菅野は相変わらず渋い表情をして遠くを見つめ、煙草の煙を吐き捨てる。これもミステリー小説に出てくる探偵を意識しているのかもしれない。
よく考えれば、管野のように理系の学生が古典ミステリー小説を読むのがなによりも好きだという大学生は珍しい。今の時代、理系のミステリー小説は存在するらしいのだが、義高らがこうしている間にも、皆どのようにお金をバイトで稼いで遊びにつぎ込むかを考えていた。遊びには恋も含まれる。あるいは、家とパソコンに半生をつぎ込んでいる昇のような人間。少なくとも義高の周りには二パターンの大学生が大多数をしめていた。環境からすると、趣味も性格もアナログ的な菅野の存在は貴重なのだ。
煙草を吸い終えると、菅野は携帯灰皿に入れた。
「彼の交友関係はどうだった?」
「あまり知らない。ネットでは何人か友達と呼べる人はいたらしいけど」
「面と向かって心の内をさらすことが出来なくても、ネット上では案外気軽に悩みとかを相談したりするらしいからな」
「うん、ネットが流行る理由の一つでもあるよ」
「いささか捜査には役に立ちそうな話ではない。彼自身もネット上で話をしている相手がどういう人で、どこに住んでいるのかさえ把握しているか疑わしい」
「うん、そこら辺は確かにわからないことだらけだけど、とにかく、友達は少なかったと思う。昇から友達と遊んだ話はいっさいしてこのかったから」
菅野はその後、考えても進展が無いことを推理したのか、あるミステリー小説のトリックについて説明した。まるで関係性がなく、義高が今回の事となにかつながりがあるのか問うと、見事に口ごもった。頼りないとは思ったが、そこは無理もなかった。ただの大学生が一つの事件らしき出来事を捜査するなんて非力すぎる。高橋家に聞き込みに行く権利さえ与えられていないのだから。
家路を辿っている間、すっと人材について考えていた。今必要なのは適切な推理ではなく、証拠を少しでも増やすだけの人材だった。
小さい頃、久美子が元夫の事を調べあげた探偵を思い出した。もう十五年以上も前のことになる。自分に心を開いてくれなかった久美子だけに、くわしくは分からないが、部屋には調査依頼の書類がいつまでも保管されていて、探偵事務所の名前もインパクトがあり、どこに事務所があることぐらいは知っていた。
義高の住んでいるアパートからさほど遠くないS駅から歩いて十分程度の所に位置する三階建ての雑居ビル。元はクリーム色だったと思われる外壁は長年の汚れが染み付き変色していた。空き部屋には、テナント募集という張り紙があった。よく今まで壊されないで残っていた名と思わせる佇まいだった。看板には
『美辞麗句探偵事務所』