31.絶望から発狂
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「気がついたか?」
ケンジは自分を襲った犯人に問いかけた。犯人である男は美辞麗句探偵事務所のソファーに寝かしていた。
「ここはどこ?」
「俺の探偵事務所だ。それにしてもさ、自分から犯罪予告して現れるなんてルパンみたいなことをするんだな」
同席していた義高はケンジが漫画の世界に出てくるキャラクターで比喩していることが可笑しかった。噂通り、黒ずくめの男で身長も高いが、一度でも疑った武本似ても似つかないような顔をしている。髪は短く剃っているし、眉毛の太さは気が強そうで、腫れぼったい武本とは違い、薄い瞼に眼光が鋭い。悪く言えば、ニュースに出てくるような犯罪者顔ではあるが、若くて青年実業家といってもわからならいぐらい凛々しい。菅野は同席しているにも関わらず何もしゃべらなかった。
「亜紀、加藤和夫は呼んでいるんだろうな?」
「うん、そろそろ来る頃だけど」
「ということだ、犯人さん。今呼んでいる和夫という男はお前に殺された森明子の婚約者だよ。もしかしたら怨恨で殺されるかもしれないから気をつけな」
手錠を掛けられている犯人の男はようやく表情を取り戻した。
「お前さん、名前は何ていうの?」
「大崎だ」
「ふーん、で俺達に挑戦状を送ってきたわけだ」
「ちょっと待ってくれ。挑戦状だの犯罪予告だの、さっきからよくわからないことばかり言うな」
「はっ?」
小さな封筒を取り出したケンジは、中の紙を取り出して大崎の前に投げ捨てた。
『XXX公園午後十一時十分、連続殺人犯でもある俺がカップルを狙う。お前に勇気があれば私を止めてみろ』
「ご丁寧にも俺の事務所宛てに送ってくるなんていい度胸だな。これまでの犯行通り、同じ場所をナイフで狙っていたわけだし、律儀なもんだ」
大崎には何の事だかさっぱりわからないといった表情だ。
「でも、今回もし首とか顔を狙われていたら超やばかったよ」
亜紀はケンジと一緒にカップルの振りをしておとりとなった。衣服に鉄板を組み込んだアイデアを聞いた時、さすがに義高や菅野も不安になったが、ケンジには迷いがなかったこと、明日の仕事の段取りをH町の警官駆工藤と電話で話あっていたこともあって、必ず捕まえると思った。
大崎は一連のやり取りを全く聞いていなかった。
「まさか、大崎、お前が送った文書ではないと本気で言っているのか?」
ケンジがこれ程驚いた表情を見せたのは、義高にとって初めてであった。大崎は連続殺人に対しては否定していないが、犯罪予告文に対しては異常な形相で否定したことはケンジにも違和感があった。
「だからさっきから言っているでしょう。その文書は私のものではない。ただ、私の次の行動を知る人間なんているはずがない。私は心の中で思ったことを直ぐに行動しただけだから」
考え込んだケンジは煙草に火を付けた。
もの凄い勢いで探偵事務所のドアは開かれた。現れたのは加藤和夫だ。急いで来たのか、息があがってはいるが、目が据わり顔色が無い。和夫はケンジに指を指された大崎に顔を向けた。
「あなたが、T川で女性を殺害した張本人ですね?」
大崎は面倒臭そうに頷いた。和夫は狂ったように笑い声をあげた。
「はははははっはははははははははは。やっと見つけたよ。よくも殺してくれたね」
和夫の目は完全にイっていた。あらゆる感情が溢れんばかりで抑えられない状態である。危険だ。大崎は手錠をしているし、和夫が飛びかかれば、止められないかもしれない。それなのにケンジは物想いにふけっているようだし、亜紀は異常な男に近寄らないよう、部屋のすみに引っ込んでいる。菅野も同じだ。
「普通には殺さないからね。勿論警察にも渡さないよ。ぼくはね、二六年間で初めて明子という運命の人に巡り合えたんだ。それを外道のお前の手によって殺された。どんな動機があろうと、許さない。すべてを失った。ぼくは会社を辞め、友達を失い、家族からも精神病院に行けと勧められた。お前にとってはどうでもいいことだよな。今まで信頼してきた家族さえ、ぼくの豹変についていけなかったんだぜ。ぼくに残されたのは、お前をこの手で殺し、ぼくも自殺することだ。お前はどれだけやばいことをしているかわかっているのか。わかっていたら、ぼくの前に無表情で姿を現してはいないだろうな。今ここで何人かの目があるからぼくがお前を殺さないと安心して落ち着いているのか?」
大崎は何も言わなかった。
「ははっはははははははははっははははははっはははっはははははははははっははははっははははははははははははははっはははははっははっははっはっは。ぼくがそんな優しいわけないだろ。優しいなんてものは幸せをつかんだ人にしか芽生えない感情なんだよ。もちろん、人を、赤の他人を殺せるだけのお前にこんなこと言ってもなにも伝わらないがな。万が一ここでおまえを殺さなくても、ぼくは死神よりしつこくお前につけていく。ぼくはお前が犯したような姑息な犯罪は犯さないぜ。なんせ失うものは何もなく、あるのは死だけだからな。ぼくは今お前を殺すことが出来れば、どんな重い罪でも背負い、死ぬ覚悟でいる。お前が渋谷のスクランブル交差点にいようが殺す。刑務所の中にいようが爆弾で刑務所ごと吹き飛ばす。世界を敵に回してもお前だけは殺す。どんな手段をつかってもお前は逃げられない。殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す」
目の前に現れた修羅と化した男を宥めることは出来なかった。義高は全身が震えていた。殺人という行為は本人だけでなく、周りの人を巻き込み、救えなくなってしまう程の状況を生んでしまうのだ。と義高が思った瞬間、和夫はズボンのポケットからナイフを取り出し、大崎に切りかかった。スローモーションのような映像を見ている感覚でも体が動かない。大崎は目をつぶったまま静止している。
金属音がした。和夫は予想外の反発に仰け反った。ケンジが鉄入り黒いジャケットを振り被り、大崎にナイフが刺さる瞬間刃先は止まった。大崎は手錠で顔を覆っていた。
「間一髪だった」
ケンジはいつものような余裕の表情が崩れていた。この場にいる誰もがケンジと同じ行動に出ようと必死に思ったが、体が動かなかった。空気は張りつめ、義高は現実ではないという錯覚を信じたかった。
「危ないことはよしなよ和夫さん」
「なななななんで止めるんだ。ぼくはぼくはこいつを殺すため、今まで頑張ってきたんだ。あなたのような優秀な探偵に依頼してこいつを捕まえるように頼んだのは、ぼくの手で殺したかったんだ。なのになぜ止めるんだ」
空気が張りつめた。ここにいる誰もが日常から逸脱した状況にリアクションさえとれないでいる。
「あなたがこんな殺人犯に手をくだしてなにになる。将来希望の星となるであろう和夫さんが殺人犯を殺めても誰も喜ばなし、あなたのためにもならないよ。よく考えてほしい。和夫さんは何も罪を犯してはいない。ここにいる大崎という外道は罪の重さをやっと理解しかけているような腐った人間だ。そういう人間を殺したことで、人は人。過去の経歴は関係なく人を殺してしまった事実は身分を越えて罪になる。例え数年で刑務所から出てきたとしても、あなたは手を汚すべき人ではないんだよ」
和夫は息が荒い状態で反論した。
「でもここにいる殺人犯は、やがて出所し、同じことを繰り返す可能性は高い。人間どのような更生をしてもかわらない心の奥底はあるからね。ぼくのように最愛なる人を、私利私欲で無感情で、無差別で殺してしまうこの殺人犯のようになるんだ。ぼくは許せない。例え数年後まっとうな人生を歩んでいたとしてもだよ。人の命の重さをわかっていない、尊さをわかっていない人間を、数年かけて矯正したとしても過去の犯罪は消えはしない」
最愛の人の死。義高は考えただけでも気が遠くなるような話だ。神経が弱ければ廃人になってもおかしくない状況下で、和夫さんが人格を失ってもおかしくもないと思った。しごく当然な状態である。冷静に傍観している自分と、恥を忍んで切実に訴えかける和夫の発した言葉にはなに一つ間違えはないとさえ思っていた。
「変わらないんだよ、ここにいる大崎と、今やろうとしている和夫さんの行動は」
「なんだと。ぼくは」
そういうと、膝から崩れ堕ちた和夫さんの瞳から涙が零れ落ちた。
「少しはわかってもらえましたか。安心しました」
少なくとも復讐で殺人という定義であれば同列となってしまうことをケンジは説明した。
「殺人犯に正当な捌きを訴えるために、被害者の家族は身を削って著名を集める。だが、捌きを下すのは俺らのような一般市民でも探偵でもない。幾千の犯罪が不当な決断において完了してしまうケースが殆どだ。誰にだってそういう場面は不正であると思う。これが現実なんだ。極刑になることはまれになり、いずれは人々の頭から解決した事件は忘れされてしまう」
「そんな世の中なんてどうでもいい。ぼくは明子を殺したこいつを殺すために今日まで生きてこれた。法律だの憲法だの能書きはたくさんだ。ここにいる犯人を殺してしまえばぼくがどうなろうと関係ない」
「ふざけるな」
ケンジは怒声をはなった。音量を凌駕した
放たれている覇気はこの場を張りつめ、氷のように冷たくさせた。
「恨みに満ちた和夫さんの姿を、死んだ明子さんが見たいとは思わない。それが人間というものだ。和夫さんを心配していた周りの人間関係だって同じおもいだろう。和夫さんがもしここにいる大崎を殺してしまえば殺人犯になるんだよ。それが世間だ。周りの人がどれだけ心配しているか、和夫さん両親がどれだけ心配しているかわからないのか。俺だって大崎という人間の屑を殺してしまったことで和夫さんが殺人犯という、大崎と同列になる状況なんて見たくない。和夫さんには今まで構築してきた人格、社会的地位を維持してほしい。それは俺だけではなく、ここにいる人間すべての思いを代弁しいるだけにすぎないにしても」
滝のように涙を流している和夫は言い返す術がなかった。自分のことをここはで考えてくれていて真剣になってくれる友人というものは、普通に生きていても出会えないものだ。そう思うと涙がとまらなかった。殺したい、でも未来を考えて明子の分まで生きていく強さを身に付けなければならない。葛藤が噴火しそうだ。感情がとうに自分のキャパシティーを超えている。そこで得た決断はケンジの放った言葉に影響され、今では生きて、正当な立場であることが大崎という殺人犯を捌けるのではないかという思いが和夫に芽生えた。本来の穏やかな性格がかすかに戻った。涙が乾ききった状態になった。表情は氷が溶けたかのように穏やかになった。
「美辞麗句探偵事務所に依頼をしてよかったです。ぼくは目の前に起こった最悪の出来事に固執しすぎで周りのことはまるで見えていないことがわかりました。今こいつを殺してもぼくの心は晴れないでしょう」
「わかってもらえましたね」
ケンジはくったくのない笑顔を魅せた。男から見ても魅力的な、包容力を含んだ笑顔だ。
「ぼくはここで大崎を殺しません。でも正当な判決がなければ極刑という形で皆さんの著名を集め懇願するでしょう。その時はよろしくお願いします」
ポケットから財布を取り出すと、依頼完了時の報酬をケンジに支払った。義高はその額を見て、初めて昇の調査協力を依頼した時、亜紀に学生では無理だからと言われたことを思い出した。五万円という和夫が支払った金額は、今回命をかけたケンジと亜紀の報酬を考えるとあまりにも安価だ。
「安心してください。責任をもって警察に引き渡します」
和夫は真っ青な顔色だっだが、余裕を取り戻し開き直った笑顔で探偵事務所から立ち去った。ケンジは携帯電話を取り出し根本に大崎の逮捕を依頼した。奇妙なぐらい無口だった大崎は抵抗もせず大崎達警察に連行された。亜紀がH町の工藤に連絡を入れて、事件解決を告げた。