23.捜査憂鬱
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七月二十七日は早朝から雨だった。気温が下がって過ごしやすくなるものの、じっとしているだけで湿気がうっとうしい。義高はアパートに居ることも出来ずに一人で横浜にいた。桜木町を下車し、海潮の臭いと、人々の歩く方向に歩けば海に到達した。みなとみらい、赤レンガ邸、山下公園、ランドマークタワー、マリンタワーはどこもカップルや家族連ればかりだった。
早くも男一人で歩いている義高の姿をみて、何組かのカップルは怪訝な顔付きと冷たい視線を送ってきた。それらの様子を気にもせず、淡々と歩いていた。
昨晩、義高は事務所で、亜紀とユキ子がライブから帰ってきたのを出迎えてから帰宅した。自分のアパートに付いて直ぐにケンジから連絡があった。
「明日はこっちに来なくていいから、好きなことでもやっていろ。亜紀をかしてほしかったら、俺から言っておくぞ」
探偵事務所にアルバイトとして働き始めてから、まだ日がたっていなかった。ケンジからは大変な仕事といわれ少々脅され気味だった義高だが、実際ここ数日の仕事を振り返ってみると、たいした仕事をしていない。ケンジの役に立つようなことはなにもしていなかった。
これからだ、と意気込んでいた矢先だった。本当は不休で働きたいという意気込みさえあった。こういった感情は、義高のなかでは大変革命的な出来事にもなっていたわけで、誰にも止められたくなかった。
出鼻を挫かれた。大げさにいうと、生きがいを失ったような気がした。空からは雨が降ってきた。
山下公園を歩いていると、先に見える海の向こうは霧で覆われていて、幻想的だった。遠くに見える船は霧の影響で現れては消えていた。ただ、傘でも防げない雨が義高の靴元を濡らし、皮膚まで侵入してきたことは妙にリアルだった。
海の波はだいぶ荒れ、押し寄せた波は近くの海岸にぶつかり大きな音を立てていた。さすがに公園内のベンチでカップルが休んでいることはなかった。
大黒ふ頭は、よく刑事ドラマで見るようなロケーションだ。地面の高さからはよくわからないが、マリンタワーやランドマークタワーから見下ろすと、今でも銃撃戦や、麻薬の闇取引が行われているように見える。
マリンルージュ乗り場の近くで足を止めた。従業員は船上掃除をしていた。幾人かは乗り場近くの休憩所で雨宿りをしていた。
殺人という名の事件は、日常で行われていることに過ぎない。人間の持っている、負の部分が露呈したとき、事件は起こる。事件を起こす側の人間、事件を解決する側の人間。
そして、何にも関わりがない人間。少なくとも、今の義高にはこの三パターンの人間分類しか頭になかった。人はそれ以外ないとさえ思い始めた。視野が狭くなっているという自覚はなかった。起こった事件が、完全に義高の心を浸食しているに過ぎなかった。
初めて殺人事件現場というものを見たとき、血痕が残った道路を見て義高が感じたものは、案外しらけたものだった。遺体を目の当たりにすれば全然違った受け止め方が生じるのであろうが、自分は早く捜査の手助けをしたいがために、出来るだけ客観的になるよう勤めた。ある意味、自分が捜査員と一時でも同化したことに自惚れがあった。
こうして考えてみると、それはその時だけの感情で、雨が降っている山下公園で遠くの海を見つめている自分はとても無力に思えた。殺された遺族はどのように思っているのか、死んだ被害者はどれだけ恐怖を味わったのか、犯人は今どこにいて、もしかしたら次の犯行を着実に実現させようとしているのか。まだまだ思いつきは浮かんできた。でも、自分は思いつく限りの事を何も解決できていなかった。
ここ数日間でそれを十分思い知らされた。実際、夜中に起こった殺人の現場を想像するだけで怖くなってきた。まだ自分の心は現実に対応していなかった。
気が付くと義高ははいていたズボンの膝下まで濡れていた。不快感を覚え、休憩所に入った。さっき雨宿りしていた人達の大半は乗船し、残っていたのはおじさんしかいなかった。
休憩中に雨は止み、昼過ぎには空から晴天が覗いていた。
事務所では、亜紀達が持ってきたライブの土産話が一段落していた。深夜まで続いたかと思うと、あっという間に朝を通り越し、昼にまでなっていた。ケンジはアルコールの力もあったが、亜紀とユキ子は高揚感だけでずっとしゃべり続けていた。
「いいの? こんなときに義高君を拭き放してしまって」
「妙にあいつの方を持つな。何かあるのか?」
「へんな言い方止めてよ。そういうのじゃなくて、あの子ひどく落ち込んでいたみたいだし」
「じゃあ、亜紀が義高と付き合って、私がケンジってことで決まりにしよう」
「あのね」
「どっちにしろ、あいつは冷静になれていない。現実に起こったことをまだ頭の中で整理が出来ていない。このまま俺に付き添って捜査すれば、とんでもない失敗を犯すだろう。そうなる前に少し考える時間を与えてやっただけだ」
「それなら良いけどね」
「心配するな。まだ事件は何も解決していないんだ。仕事だってまだまだ嫌というほどある。あいつにもやってもらう仕事だって沢山あるんだ」
ユキ子は急に興味のない話に傾いたので、大きな欠伸をした。それに釣られ、亜紀も欠伸をした。ケンジは鏡を凝視して髪の毛を整えた。
「でも、事件は解決出来そうなの? 今回のは殺人事件だし、早く解決してもらわないとこまるわ」
「なに言っているの、亜紀。ケンジに解決できない事件なんてないの。もうすぐだよね、ケンジ?」
煙草に火を付けたケンジは、ソファに体を深くのめり込ますように座った。
「五十パーセントぐらいだな。序序にではあるが、手がかりが掴めてきている。後はもう少しの情報と、それがどのように繋がってくるかの問題だ」
「やっぱり、ケンジはすごいね。他の仕事もやりつつ、事件解決のことも考えているなんて」
「当たり前だ。俺にしか出来ないからたまにつらいけどな」
「五十パーセントか。犯人が残した証拠がもう少しあればいいんだけどね」
「証拠ならどこにでも転がっている」
「どういうこと?」
「例えば遺体、昨日根本から連絡があって、被害者二人の遺体から連続殺人である証拠が出てきた」
根本が黒田に聞いた情報をそのままケンジは説明した。亜紀とユキ子は耳を塞ぎつつも、詳細を聞いた。
「そこまでわかっているんだ。後は動機と犯人自身の逮捕ね」
「重要なのは犯人を見つける事だけだ、動機は二の次以下なんだよ」
「なんで? 動機も大きな証拠になるじゃない」
「動機なんてものは、後になって聞くと実にくだらないことばかりだ。相手が憎い、お金がほしかった、ただイライラしていたからとか、殺人という重い罪から見ると、哀しくなるぐらいくだらない」
ユキ子は会話の内容に嫌悪感を抱いた。それを打ち消すかのように、XJAPANのCDをプレーヤーにセットした。少しの間三人は大人しくなり、音楽を聞き入っていた。音楽はジャンルによって気持ちを沈静させる作用があったり、高揚作用がある。聞こえてくる『ENDLESSRAIN』の曲調は前者にあたる。ボーカルトシが歌う、高い音域での声は音楽業界でも屈指だった。
「でも、最初に殺されたのは女の人だけどさ」
亜紀は思いついたかのように話し出した。ケンジとユキ子は合いの手を入れず、続きを待った。
「第二の被害者って男で、柔道やっていた人なんでしょ?」
「そうだ」
ケンジは面倒くさそうに答えた。言いたいことは大体わかる。
「そういう人が簡単に殺されちゃうものなのかな?」
「事実だから仕方ない」
「普通なら何かしら争った跡とかあって、その時は周りに誰もいなかったかもしれないけど、それに気が付くと思うんだけど。なんか余りにも静かに殺されちゃったって感じで、不自然だわ」
ユキ子は事件に興味がなかったのもかかわらず、確かにだれでも亜紀の思っていることは同感できると思った。
「背後からナイフで不意打ちを食らってしまったんだからしょうがないことだ」
「わかってるけど」
「人間なんて、そういう境遇に立たされたとき、案外もろいんだ。殺された被害者も生まれて始めての経験だったはずだ。急激な自分の体の変化に対応しきれなかった」
「ケンジってなんでも知ってるね。すごい」
「俺だって……いやなんでもない」
「何よ、途中でやめるなんて気持ち悪いじゃない」
「どうでもいいだろ。俺は寝るぞ」
ケンジの過去を知っている人は少ない。亜紀やユキ子にとってもそれは例外ではなかった。突っ込んだ会話をしようとすると、ケンジは柄にもなく心を閉ざしてしまうのだ。