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夢遊病  作者: 京理義高
22/38

22.本当のことを探すまで

15


 根本は『美辞麗句探偵事務所』から神奈川県警P署に戻った。上層部はけっこういたが、キャリアが浅い捜査員達は外回りが多く、同期の警官はほとんど見当たらなかった。彼は妙に引っかかっていた。殺人事件には何か落ち度があるんではないかと思っていた。これまでの事件調査結果、犯行現場での犯人が残したと思われる証拠がまったく見当たらない。現実問題として、本当にそんなことが可能なのだろうか。自分には決定的な欠如があると根元は思った。


 上層部はきっと自分には気が付いていない欠如を捜査の重要ポイントとして中枢に置き、もう既に計画に移っている可能性があった。自分のような新米警官にそれを教える価値はまだないと思われているのか。


 体力には人一倍自信はあるが、捜査や過去の経験やデータを生かした推定がまるで出来ていない。そして事件解決の実績がない。根本はあせっていた。この仕事について上司から命令が下らない限り、自主的に動いた記憶がなかった。


 頭をクリアにするため、資料室で捜査ファイルを開いた。


 薄暗い資料室のドアが開く音がして、根本はファイルから目を離した。入り口に立っていたのは、検死官の黒田だった。年齢は四十歳を今年の五月に向かえ、雰囲気は普通の人より長く生きているかのように仙人じみていた。黒田は最近たて続けに起きている殺人事件の遺体状態を検死していた。


「こんな時間まで残業なんて感心だね」


「いえ、ちょっと調べものついでに勉強でもしようかと思いまして。たいしたことではないんです」


「若いんだから、早く帰って遊びたい時期だろ。仕事命もいいが、たまには生き抜きもしないとな」


「わかりました」


 黒田を前にすると、たいていの人はその雰囲気に飲まれ、いつの間にか自分のほうも静かな口調になっていた。根本もだいぶ穏やかなトーンでしゃべっていた。


「黒田さん、少し聞きたいことがあるんですが、お時間はいただけますか?」


「私は時間たっぷりあるよ」


 二人は資料室の椅子に座った。黒田の場合腰掛けたといったほうがいい。


「今現在進行中の殺人事件のことなんですが」


「私は検死官であり、そっちの課ではないはずだけど」


「いえ、ちょっと被害者の状態について聞きたかっただけです」


「うん、それなら私の領域だね」


「それで、まず黒田さんは二週間ちょっと前にあった高橋昇君のご遺体についてお調べになったと聞きましたが、詳しいことを教えていただけませんか」


「高橋昇君? あの自殺した二十ぐらいの若者のことか?」


 黒田は腕を組み、考え込む時の癖でうーんという独特の唸り声を上げた。


「そうです、覚えていますね」


「覚えているよ。あの金持ちの家の子だ。しかし、今根本君は被害者と言ったよね?」


「あっ、すいません。実は今探偵のケンジさんと共同で捜査しているのですが、最近弟子を雇ったんです。その子がちょうど高橋昇君と同じ大学に通っていたらしいのです。彼は高橋昇君の友達でもあって、じかもケンジさんに弟子入りした動機というのが特殊でして」


「弟子入りに、特殊な動機か」


「はい、その動機が高橋昇君の自殺説を否定するためにケンジさんに依頼し、大学生であり、探偵に協力を依頼するにはまだ経済的な余裕がなく、一緒に働くことで協力してもらうって形なんですよ」


「探偵のアルバイトだね、それにしても、高橋昇君の自殺説を否定しているのか?」


「ええ、それで私も完全に高橋昇君は自殺と決め付けていたんですが、その影響もあって、彼が被害者と言ってしまったのも事実です」


「おもしろい発想ではあるね。私たちの見解からは、完全に自殺の線で終始それが揺らぐことさえなかった。わかった」


 そういうと、黒田は小さな手帳を取り出し、パラパラと捲った。

 

 表題に七月十一日と書いてあるページで動きを止めた。書いてある内容は根本から見ると何かの暗号にしか見えなかった。二進数の二という数値を十進数に表すと一〇という数値置き換えられるように、書いてある内容も黒田自身にしかわからない定義があるのかもしれない。


「高橋昇君の死亡推定時刻は七月十日の午後八時から半までの間。死因は大量の睡眠薬服用によるもの。彼の手のひらには睡眠薬に含まれる成分が付着していた。勉強机には水の入ったコップは置かれていて、その状態から、第三者が侵入して用意したものでも、飲ませた痕跡もない」


「睡眠薬で死んだ時の特徴を教えてもらいたいのですが」


「睡眠薬はバルビツレートと非バルビツレート催眠薬に大別されるが、彼が使用したのはバルビツレートであり、過量(薬用量の五〜十倍)に用いると、重篤な中枢神経系の抑制をひき起こし、札昏睡、呼吸停止に至ることになる。応急処置としては、胃洗浄、人工呼吸、保温、酸素呼吸を行い、体液中の薬物を希釈し、尿の酸性化を防ぐためにリンゲル注射をも行う必要もあるが、発見された次の日の午前十時十五分には時がすでに遅かった。 遺体に外傷及び、睡眠薬服用後に出来た傷もなく、ただ死後硬直や体温低下、死斑が残っているのみだった。現場の状況については根本君のほうが詳しいだろう?」


 わけもわからないメモからよくここまで言葉がでてくるものだと関心しながら、根本は必死に自分がわかるメモを取った。


「自殺か他殺かを選別した経緯についてもう少し詳しく教えていただきたいのですが?」


 根本の問いに、黒田はまず自他殺の選別方法十項目を挙げた。これは、仕事として遺体を観察し、得た情報から各項目に当てはめ、項目に該当する確率が高ければ自殺を満たすのだ。高橋昇の場合、殆どが該当していたらしい。


「睡眠薬には即効性はない。先ほど述べたように、致死量まで飲ますということは、かなり大量でなくてはならないわけで、他殺には適さないんだよ。であるから、私の経験から言うと、睡眠薬による死は、おおよそ自殺と考えていいだろう。後、死体の容態をはしょっていたので、もう少し詳しく話すよ。睡眠薬を飲んだ死体の特徴は、目の窪みにドロっとしたものができるというのが一つ。それから顔が脂ぎっているということ。ときどき皮膚の弱い部分に赤い火傷状のものができている。さらに死斑が強くなる。彼のケースはいずれも今の話に該当していた」


「聞く限り、やはり自殺の線を疑う余地はありませんね。但し黒田さんは死体を解剖したわけでもない」


「私はしていないというより、彼の両親がしないでくれと懇願していたからね」


「では、死体の状態からすべてを判断したといっても過言ではありませんね?」


 黒田は顔を曇らせたが、そうだと断言した。以前から知っていた、少なくとも外的要因から、例えばナイフや鈍器等で致命傷になった線は完全に断たれた。


「それにしても、高橋昇君の友達という子はなぜそう思っているのかね?」


「特にはっきりとした経緯はないようです。ですが、探偵のケンジさんのほうも他殺説を完全に否定しているわけでもなく、何か推理があるようです」


「どんな推理なのかね?」


「それはまだ言えないらしいんですが。私としては、今でもひっかかるんです」


 黒田でもさすがに他殺説は肯定できないようだった。今までの経験、実績があるので無理な話でもあった。


「次にT川沿いで起きた事件の被害者の状態をお聞かせ願いますか?」


 黒田はメモ帳を次のページにシフトさせた。


「わかった。被害者森明子の死亡推定時刻は七月十五日午後十時半から十一時の間、死因はナイフのような鋭利な刃物による刺殺死。死体には六箇所の刃創が残っていた。また後頭部、膝には打撲傷があった。

一、肝臓付近。これは背後から突き刺された痕跡があった。

二、鳩尾付近。これは正面から突き刺された痕跡があった。

三、四、右と左わき腹、いずれも正面からのもの。

五、へその少し下の付近、これも正面から。

六、心臓付近。正面から刺し、肋骨をきれいにはずし、心臓まで貫通していた。

 以上だよ。この状態から仮定すると、犯人はまず背後から最初の一撃を食らわし、被害者は傷の深さから大量の血液が失われ、自分から倒れたのか、あるいは犯人に倒されたのか地面に膝を打ちつけた。それから、仰向けに倒れた。そこで後頭部を地面に打ち付ける勢いで倒れた。この時すでに死んでいた可能性もあるのだけれど、加えて犯人は被害者の体に五箇所の傷を負わせた。順番は定かではないが、箇所の刃創位置を見ると、どうしても素人が頭に血が上ってめった刺しにしたとは思えない。特に肋骨をすり抜け、心臓を貫通させる技術は相当なものだ。これは現場で冷静に殺人行ためをこなしていたと考えられる。また、続けてH町事件での被害者の遺体状態についても話そう」


 息を付く暇もないと思った。普段は仙人のような黒田も、仕事の話となれば、プロの領分。別人のように真剣になった。


「被害者安原辰巳の死亡推定時刻は七月二十四日の午後十一から半までの間。死因は先の事件と同様、鋭利な刃物による刺殺死。死体には五箇所の刃創が残っていた。争った形跡は殆どなし。

一、おしりの上付近、これは背後から突き刺された痕跡があった。

二、右胸付近、これは正面からで、被害者の胸板は厚く、肋骨までには到達していなかった。

三、右腕の上腕筋を縦に切られていた。

四、左太ももを横に切られていれ、刃物は骨にも到達していた。

五、心臓付近、こちらも正面から肋骨を避け、心臓を貫通している。

 以上、被害者は体格がよく、現場付近は血の海と化していた。また、被害者森明子、被害者安原辰巳を結びつけて考えてみよう」


「遺体状態、殺人方法は殆ど似ているように思えますね」


「そうだね。死体状態から怨恨による犯行なのかは定かではない。めった刺であれば多少の目星はついてくるところだけれど、犯人が被害者とは赤の他人でも、具体的な出血や、相手の状態を見て致死量を把握していない者の犯行であれば、これだけ傷を負わせないと、死なないかもしれないと思い込む」


「被害者の交友関係は殆ど当たったつもりですが、まだなにも出てきていません。アリバイもありましたし」


 根本は、一連の捜査の流れを説明した。


「そうか。ただ一つだけは言える。殺人方法ではなく、被害者の負った傷口は両方同じ形をしている。決め手は心臓を貫通させた時の傷。深さ、広さが殆ど一致しているんだよ。例え違った人物が時間差で行った犯行だとすると、同じ刃物を使用する確立は限りなくゼロに近い。また、背後から突き刺した傷。私はこれが最初の一撃と推定した」


「そうですね。どうみても、いきなり前方から襲うのであれば、犯人にも相当なリスクがありますから」


「否、私が言いたいのは、この位置は、被害者森明子の場合、肝臓付近。被害者安原辰巳の場合、おしりの上付近」


 黒田はそういうと、間を置いた。根本はなかなか黒田の言わんとしていることが見えてこなかった。


「共通項でもあるんですかね?」


「あるよ。被害者森明子の身長は一メートル五十八センチ、被害者安原辰巳の身長は一メートル七十八センチ、根本君はまだ気がついていないようだが、両者とも地面から一メートル十センチ付近の右手側に傷を負っていた。これが信じられないんであれば死体を二体横に並べて確認するとわかりやすい」


 思わず想像して、嫌悪感を覚えた根本であったが、直ぐに持ち直し、目を見開いた。


「では、犯人が被害者を殺そうとしたとき、必ずその位置から刃物を突き刺すという癖があるんですね」


 近くにいて十分小声でも聞こえる位置にいる黒田に、大きな声で声を発した。黒田は目を窄めた。


「そうだよ。犯行をした本人さえ気が付いてないこともあるんだ。健康体の人間を背後から襲おうとするとき、犯人でも少なからず不安も入り混じる。そういう時は、まず自信がある体制から最初の一撃を加える。死体は雄弁に事件解決の手がかりを教えてくれるものなんだ」


「両者の事件は」


「そう、この事件は同一人物による犯行だ」


 彼からの穏やかな雰囲気は、なくなっていた。

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登場人物一覧は下記に載せていますので、参考にしてください。
http://plaza.rakuten.co.jp/kyouriyoshi/2001
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