15.昇の遺書
この文章は遺書になる。
発見者が直ぐに現れることを願って、この歪んだ世界全員にこれを捧げる。
下界との接触を遮断した事で、心が海のように広くなった気がした。恨み、憎しみ、嫉妬、怒り、緊張、ストレス、悲しみ。精神に及ぼすマイナス要素を取り除いた気になっていた。自分はなんでも出来るという意思を持った。
朝早く、雨水を傘で凌ぎ、今日のノルマを達成しに駅へ向かう人々を見下ろした。中には社会的に認知された人も、偉い人も、フリーターも、学生もいる。ぼくには誰もが同じに見えた。また、誰もが自分より苦労ばかりでつまらない人生を送っているように見えた。
己の体力を削り、精神をすり減らすのであれば、自由になって過ごせるほうが利に叶っている。他人に、親に、知り合いに何を言われても構わない。心の中でそいつらの事をこう言うだろう。やりたい事も出来ずに生きていることが楽しいのかと。もし言葉にしたら彼らはやりたいこともやっているし、例えそうでなくても未来を考えて生きていると言うだろう。お前のこれからは暗黒だと返してくるだろう。しょせん戯言だ。でもそうなる前に彼らと接しなければ、変な争いも起きないし、お互い嫌悪感に会わずに済む。
ぼくは未来も予想していた。自分が今老人であれば、過去の足跡が無い限り生きる屍として存在する。だから今しかない。世界から隔離し、まるで自分以外誰も存在しない状態になるには。
前にぼくの友人がこう言っていた。
「人は自由になれば、それが不自由になるんだ。むしろ少し縛られているぐらいがちょうどいい」
確かにわかる。だが、それは寂しがり屋か時間の使い方がわからない人、あるいは普通の考えをもった人に言える。そうでなくても対外は友人の意見に当てはまる。
自分はどこまで一人で居られるか。ぼくはふと冷静に分析した。会話も電話さえもしないで、どこまで言葉、思考を溜め込むことが出来るか。夜を超えて、やがて朝へと変化していく空は現実から引き剥がした。人より少し早く起床する鳥のさえずりも、郵便配達員が乗っているバイクのエンジン音も、すべてが自分から離脱したものが聞いている気がした。幻覚のような夢を見ることもある。この感覚が世間でいわれている夢遊病なのだろうか。例えそうだとしても、ぼくは今の感覚が好きだった。
ぼくの好きな感覚、否世界を邪魔するのはいつも現実という世界だ。何かと自由になれたと思っても外力がぼくを引き戻そうとする。これは自然の摂理でもない。所詮争い事が好きな人間の成す事。現実世界の心理は弱肉強食だと思う。高学歴、エリート、経済力、権力、主役、ナンバーワン等。複雑に絡み合っているようで、実は簡単なことなんだ。強者は弱者を永遠に踏み台として使用し、時には跡形もなく食い尽くす。それをあからさまにしない様、皆偽善者を演じ、複雑に捻じ曲がっているだけのことだ。
でも、これ以上人間の悪口を言うのはよそうと思う。今までこの文章で言ってきた内容がぼくにも当てはまってしまうから。
孤独でいる事にも飽きたとき、ぼくはもう一つの世界に行こうと思う。例えその意味が普通の人に理解できなくても、違う世界に行く手段ぐらいはわかるだろう。
義高は黙読し終った時、痛烈な思いが心を錯綜した。自覚した通り、自分は昇のことに対しなに一つ理解していなかった。むしろ生きたなかで、自分以外の他人を充分理解している人物が一人でもいるのかさえ曖昧模糊としていた。とても血のかよった人間だとは思えなかった。
「友の死を悲しむ気持ちがあるなら、全力で解決したらどうだ。このままだとお前たちの行き着くところは、自殺説が高いという思いが勢いを失い、やはり自殺だったんだと断定して終幕を迎えることとなる」
「現時点の情報と今見せてもらった遺書がより決定的になってきたと思うのですが」
菅野は遺書まで見せておいて、これからどう解決していけばいいのかといった表情だった。
「阿呆かお前は。俺は解決しろと言っているんだ。自殺と決めていたら言わないだろ。まだ俺もお前達もまだ情報不足なんだよ」
ここで解決に繋がる糸口を発言できれば株がぐっと上がる時だというのに、義高にはなにも浮かばなかった。
「今日、お前たちが高橋家の聞き込み作業を終えてのんびり休んでいる間、俺はまったく違った仕事を同時進行しつつ高橋家へ聞き込みに行った」
「えっそうなんですか?」
言い終えると、口を半開きの状態で固定した。
「鈍い奴のような顔をするな。それで高橋家の長男である健太は七月二八日に帰国するそうだ」
「出張している兄さんですね」
「調べれば分からないことも無かったんだが、あそこの奥様は男好きだ。なんでもしゃべってくれそうな勢いだったよ。帰れなくなりそうだったが、流石にエリートの奥様と不倫関係だけは御免だからな」
「ケンジは捜査より、そういうところを強調するんだから」
亜紀は呆れていた。緊張感が和らいだ。現実問題として男好きではなくてもケンジのような男が紳士な態度で訪問してくれば、帰したくない女の気持ちはわかった。
「兄さんと言っても、海外出張が長く、家族暮らしは最近していなかったのでしょう。それが手がかりになるのでしょうか?」
菅野は妙にケンジに食って掛かった。朝来た時とは別人だったが、義高も菅野の感性に近いので文句は言えない。
「この機会を逃したらもうお前たちは解決できないだろう。いや、誰も関心を持たなくなるから、そこで終わり。彼は自殺に決定」
「そうなるでしょう」
義高は自然に言葉が出た。
「根本さんにお聞きしたいことがあるんですが」
「なんだ、義高君」
「はい、昇の自殺した部屋は密室だったと親は証言していました。そこの状況をもっとくわしくお聞きしたいのです」
「わかった」
咳払いをしてから続けた。
「彼が自殺と断定したのは遺書でもなく、母親の高橋文子の証言でもなく、現場が密室だったことだ。家宅捜査もして彼の部屋に鍵が掛かっているとして、外側から中に入れる手段は見つからなかった。要は彼の意思がないと、ドアか、窓ガラスを壊さない限り中には入れない状態だった」
「てことは、誰かが彼を殺して中に閉じ込めることも、元々中にいて彼を殺すことも出来ないわけですね?」
「まず不可能だろうね。しかも彼は睡眠薬を大量に飲んでいたし、外傷もない。薬の容器は近くで発見されている。疑いの余地はないよ」
「そうでもねえさ」
「えっ、なんで、なんで?」
亜紀は意外な展開に興味を示すらしい。
「密室でも十分彼を殺す手段はあるからさ」
「そんな方法があるんですが?」
「推理小説ならともかく、現実にそこまで賢い犯人はいるでしょうか?」
「俺に聞くな。ただ、手段についてはまだ話すことは出来ない」
「うそー、ずるいよー」
「そうですよ」
「せいぜい自分で考えるんだな。お前達が思いつかなくてもいずれは話すから。今は俺にも確証できるものがない」
一同期待が落胆に変わった。もし自殺説を打ち破ることができるとすれば、ケンジのもっている推理が唯一の頼りになるだろう。
「じゃあ、殺人鬼の捜査はどうなったの?私、罪もないOLとかを殺すのは許せない」
「確かに、亜紀もいつ襲われるかわからないな」
「怖いこと言わないでよ」
「気を付けろとしか言えないな。俺は守らなければいけない女は沢山いるからな」
満面の笑みだったケンジは鏡で身だしなみをチェックしていた。その時は直ぐに厳しい表情に戻った。
「今日の捜査についてお聞きしたいのですが」
「得た情報は、現場近所の住人が不信人物を見たらしい。体格は百八十前後の痩せ型。黒ずくめの服装で、黒い帽子を被っていたらしい」
義高と菅野はまず消えた。二人は身長が百七十センチに届くか届かないぐらいだった。第一、義高たちには殺人出来る度胸もなかった。
「後は今朝もいいましたが、再捜査した結果、死体から指紋は発見されなかったようです。傷の状態から、ナイフ等の鋭利な刃物と断定していますが、近くの店で凶器と思われるナイフを購入したという人物の情報もありません」
「犯人は用意周到ですね」
「自分から証拠を残すような奴はあまりいないだろ」
ケンジは菅野の発言に呆れていた。こちらの事件もまだ始まったばかりだった。
「他にあるとすれば、現場に靴底の一部と思われる破片が残っていました。鑑定官の話では、その素材についてはどこにでもあるようなものだったらしいです」
根本の話を聞いた一同は反応が鈍かった。犯人の履いていた靴という断定で出来ないわけだし、証拠としては不十分だったからだ。
「なんか気軽に夜道も歩けないわね。これじゃ遊べないからストレスがたまっちゃう。ねえ、根本さん、私のボディーガードやってよ」
「甘えた声で言われても、仕事があるんで」
「亜紀が劣りになればいいんじゃないか? 根本に影から見張っていてもらって、襲ってきたら現行犯で逮捕するというのはどうだ?ボディーガード兼、事件解決と一石二鳥になるだろ?」
「もう、冷たいな。あなたたちには頼みませんよ」
亜紀は目元に指をあて、あっかんべーをした。
「夜遊びは控えてくださいよ、亜紀さん」
「根本さんに注意されなくても、私を守ってくれる男なんか一杯いるから、大丈夫です」
「すねないでくださいよ」
亜紀はそっぽを向いて聞いてない。ふりをした。
「自分は自分で守れと言うことだ。そこの貧弱な二人も気を付けろ」
殺人犯がこの近くに潜んでいるかもしれない。女性だけをターゲットにしている確信はなかった。誰でもよかったという動機で無差別殺人を犯す容疑者は巷でも溢れているし、自分だっていつ襲われるかわからないのだ。むしろ犯人を追う探偵事務所で働いている情報が犯人にリークすれば危険性は高くなる。
「話しは戻すが、前にお前が言っていた武本博之の方も忘れるな。彼からどんな些細なことでも聞き出すんだ」
「昇の友達ですね。わかりました。あっ、そういえばさっきケンジさんが言っていた不信人物が武本のイメージにぴったりなんですけど」
「同時に聞き込んでくれ。どうしても怪しいと思ったら俺に報告するんだ」
「はい」
もしかしたら偶然が起こるかもしれないと義高は思った。昇の調査と殺人事件の調査が同一線でつながれば、こんないいことはない。
「それでは私は署に戻りますので、失礼します」
「今度会う時、たまにはいい知らせを持って来い」
「厳しいっすね、ケンジさんは。出来るだけそうなるようがんばります」
スポーツマンのようにさわやかな挨拶だった。朝夕変わらず元気な根元が羨ましかった。
それを機に一同は事務所から解散した。義高と菅野は帰路をたどった。
「なあ、ケンジさんの言う密室での他殺方法ってどのようなことかわかる?」
前を向きながら菅野に聞いた。
「うーん、遠隔殺人とかにしても、昇には外傷がなかったって言うしな。さらに巧妙なトリックを使ったのかな」
「巧妙なトリックか。例えばどんな?」
「携帯電話で脅迫するんだ。お前は死ぬしかないとな。でも遺書の内容からすると、悪徳宗教関連の人にマインドコントロールされていた可能性も捨てがたい」
「昇の携帯電話の着信履歴は、七月に入って誰もなかったらしいよ」
「それも悲しいな」
「どっちにしても現実離れしているな」
「前にも聞いたと思うけど、義高はどうして昇が自殺じゃないって思ったんだ?」
読心したから、は言えない……
「親が自分の息子を亡くしても全然悲しそうな態度を見せなかったからだよ」
「今思うに、あまりにも疑う動機としては薄いんじゃないか。他にないの?」
どうしてだろう? 江崎教授には本当の事を言えたのだが、菅野に対してはなぜかブレーキが利いてしまった。
「これといった動機はない」
きっぱりと言った。菅野は急に空を仰ぎ、煙草を取り出すと火を付けた。
「そうか。俺には今やっていることが無駄のように思えてきたよ。ケンジさんの推理がなければ完全に俺たちの負けになる」
「弱気になるなよ。前はぼくよりやる気になっていたじゃないか」
菅野は苦笑いをするだけだった。