13.復讐の決意
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明子の元婚約者、加藤和夫はやり切れない思いをぶつける手段がなかった。枯れ果てた心身が加藤の気力を削いでいった。真面目というレッテルを体全体に貼って生きてきた男。
今日の早朝死体として発見されたのは本当に明子だったのか。加藤は確認のため、警察所に出頭した。その時、灰色の壁でコーティングされた何もない部屋に案内され、目の当たりにしたのは、白いベットに横たわり、白い布で顔を隠された明子。血の気を完全に失った彼女の額に触れた時、手のひらに伝わった無機質な冷たさはいまでも感触が残っていた。意識は遠くなりそうだったのをよく覚えていた。
変わり果てた明子の姿。顔をよく見ることは出来なかった。
嘘でもいい。警察の身元確認が間違いであってほしかった。あるいは、テレビのバラエティー番組でやるドッキリ企画のように、最後に実は死んでいませんでした、といった類のオチでもかまわない。
今でもそんな知らせがあれば……
身を削るような仕事の日々。帰宅すれば、たいがい家族の皆は眠っていて、ひっそりと疲れて寝るだけの日常だった。起きれば仕事へと向かうというサイクルは、自分が自分であることすら疑問に思えた程だった。
そんなモノクロの生活に、色彩を与えてくれたのは明子だった。加藤は明子と出会った時、生まれて初めて運命を感じたといっても過言ではない。仕事上のトラブルで上司に怒鳴られ、鳴きそうになりながら頭を下げた時、忙しくて手が回らなかった時期に、ちょうど新しい仕事が舞い込んできた時、顧客からの理不尽なクレームがあった時、いくら仕事が苦しくても明子のためと心に言い聞かせれば大丈夫だった。
給料をこつこつと貯めて購入した結婚指輪。明子はいつもと雰囲気の違っていた自分に戸惑っていたけれど、デートの帰り際、自分の知っている一番綺麗な夜景が見えるところでのプロポーズに首を縦に動かしてくれたあの時。自分の絶頂期はこれからも続くと思っていた。
生涯で唯一運命を感じた恋人の損失。
どんなエピソードと天秤にかけても釣り合うことはないほどの不幸。自分が死んでしまうことよりずっと残酷だった。誰かの慰め言葉をいくら聞いても、心に届いていなかった。
明子と過ごせた時間は刻一刻と過去の出来事になってしまう。しかし、自分にとって明子といた時間はいつまでも永遠のものなのだ。
朝に尋ねてきたマスコミの報道人。視聴率を獲得する目的で、カメラとマイクを駆使し、大切な人を失った人の不幸を全国に放送した。ただのスクープとして自分を取材し、涙を流しながら思い出を語っている自分を仕事の種にしやがった。
絶対に忘れない。
自分の精神に叩き込まれたモラルだの社会的常識だの、そんなものはどうでもよくなった。築き上げてきた真面目な性格なんて捨ててやる。
こんなことがあって、ただですまされる社会などなくなってしまえばいい。
だが、社会全体を恨んでもしょうがない。意味もない。恨むべき人物はただ一人。すべてをそいつにぶつければいいことだ。加藤の怒りは絶頂に向かっていた。
悲しみが恨みに変化した。
悔しさが憎しみに変化した。
天使が悪魔に変化した。
俺は絶対に許さない。明子を殺した犯人を。必ず見つけ出し、この手で裁きを与えてやる。犯人は、人の心の痛みなぞ知らないだろう。せめて明子が受けた痛み、俺が受けた心の痛み、すべての苦しみを繰れてやる。
家族も会社も俺のことを異常とみなし、排除するようになった。当たり前だ。人畜無害な性格の男が、ある時まったく違う人間に変身してしまえば、誰だってそのギャップに驚くだろう。後悔はない。自分の気持ちに嘘を付いてまで日常に溶け込もうとすれば、俺が先にこわれてしまう。
例え犯人が捕まったとしても、何年でも待って刑務所から出てきた時に。どんな手段でもかまわない。
明子、明子、明子、明子、明子。
気が狂いそうになった。日常生活では理性を保たないといけない。でもこれもそう長く持つとは思えない。
はやく犯人を、お前を殺すしかない。
もう、誰も止められない。
止められるのは犯人の死。