12.メトロポリスから
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昇の兄である高橋健太は、現在アメリカ合衆国のイリノイ州にある、シカゴシティーに出張中だった。やり手の若手は支店のあるシカゴに移動してから海外の視野も含めた経営、営業力を身につけ、三年間修行させる会社の方針があり、二年間の海外生活は健太にとって苦になっていない。都心部には日本の企業も進出していて、日本人を見かけることは少なくない。健太の職種は大手の外資系で、勤めるY株式会社から数分のところに世界最大級の高さを誇るシァーズタワーが聳え、ミシガン湖も目と鼻の先に存在する。ミシガン湖は五大湖の一つで北アメリカ大陸中東部、アメリカとカナダの国境にある巨大な淡水湖群である。セント・ローレンス川上・中流部に位置し、上流からスペリオル湖、ミシガン湖、ヒューロン湖、エリー湖、オンタリオ湖が並び、総面積二四万五千三百平方キロメートル、日本の本州より広い。カナダ楯状地の外縁部にできた湖群で、洪積世の氷河作用によって湖の形がつくられたものと言われている。
Y株式会社は十階建てのビルで、辺りを見渡すと決して高いビルとは言えないが、土地の総面積は結構広く、社員一人に対し八畳クラスの部屋が割り当てられていた。日本にいた頃は重役クラスでなければ決して味わえない境遇だったが、健太はこの環境にすっかり慣れてしまっていた。
健太は窓の外にある街並みを、なにをするとも無しに見ながら考え込んでいた。
「昇は居なくなってしまったか」
健太は独り言をつぶやくと弟と過ごした小さい頃の記憶が蘇った。勉強をよく教えていた。その反面、殆ど一緒に遊んだ覚えはなかった。健太が高校生になると、体力が持つ限り塾の勉強や友達との遊びで連日帰宅時間は遅くなり、昇と顔をあわせる回数も微々たるものだった。
健太は後悔していた。肉親を失ったときに初めて気が付く心境はどうにもならなかった。いや、自分が自殺に追いやったのかもしれない。
自分が世の中の楽しいことをもっと教えていれば、昇はまともな生活を送っていて、両親の教育にも嫌気がささず、自殺しなかったのかもしれない。健太は自分の兄としての勤めは失格だと思い込んだ。
外からパトカーのサイレンが鳴り響いた。
「相変わらず物騒だな、ここら辺は」
部屋のドアが開く音がした。それがきっかけで、健太はようやく正気に戻った。
「なにぼやいているんだ、ケンタ」
部屋の外から現れ、英語で話しかけてきたのはアメリカ人のスティーブンだった。ピンク色の皮膚に、痩せてはいるが身長が高く、グレー色のスーツは似合っていて、覇気のある高めの声はいつでも健康そのものだった。
「いや、別に」
「働きすぎなんじゃないか? ちょっと喫煙所で休憩しよう」
Y株式会社の喫煙所は大きな休憩所であるホールの片隅に設置されていた。三年前から自分の仕事部屋でも禁煙が義務付けられ、今ではすっかり喫煙者の肩身は狭くなっていた。もう慣れてしまったが、喫煙所が隔離された当初、健太やスティーブンは煙草を吸わない社員が近くの休憩所でくつろぎながら自分の方を見ている姿がどうしても気になって仕方がなかった。
二人は喫煙所の椅子に腰を下ろした。スティーブン愛用のピースに火が付けられると独特の匂いがした。健太も煙草に火をつけ、灰の深くまで吸った。
「風の噂で聞いたんだが、ケンタの弟は亡くなったのか?」
「まいったな、もう知っているのか」
「ああ、どのぐらい前なんだ?」
「二週間が経つ。葬式には忙しくて参加できなかったが、最近それを思い出して仕事に身が入らないんだ」
「例のプロジェクトか。これだからワーカホリックは好きになれないんだよな」
「そういうスティーブンも変わらないだろ。せめて、少し遅くなったが、今週末にでも日本に帰国しようと思っているんだ」
「当然だろう。本当は仕事を投げ出してでも帰るのが人間ってものだぞ。お偉い方もちゃんと言えば許してくれたはずだ」
勢いよく煙を吐くと、スティーブンの携帯電話がなった。
「わるい、じゃまた後でな」
スティーブンが立ち去ると、ホールは静寂に包まれた。彼のストレートな性格から、昇の死因を聞かなかったのは急な電話のせいではなく、彼なりの気遣いなのだろう。実際、健太の上司は誰も死因については聞いてこなかった。今さら説明するのも億劫なので、都合は良かった。
健太は海外からも通話可能な新機種の携帯電話から実家の電話番号をプッシュした。しばらく立ってから発信音が聞こえた。
「もしもし、健太だけど母さん?」
「健太なの、久しぶりじゃない」
文子からの声だった。音の伝達が悪く、声が途切れた。健太は何度も聞き返した。
「なに言っているんだよ。前連絡してから二週間しかたっていないだろ」
「そう? 今は仕事中なの?」
健太は通話する場所を移動し、だいぶ電波がよくなった。
「ああ、そっちはもう夜か。状況は少し落ち着いた?」
「うん、こっちは大丈夫よ。でもたまには帰ってきなさいよ」
「電話したのもその件なんだけど、今週末には帰国する予定なんだ」
「そうなの。あら、それならお父さんに知らせてどこか行く予定でも立てないとね」
文子は元気そうだったので健太は安心して近くにあった椅子に浅く座った。
「大げさだな。今はそういうのは控えたほうがいいよ」
「確かにそうね。で、どのくらいこっちに居られるの?」
「だいたい五日ぐらいかな。今は仕事が落ち着いたけど、また忙しくなりそうだから、五日が限度だよ」
「五日しかいないの。残念ね。もう少し居ればいいのに」
「マザコンみたいなこと言うなって」
文子は機嫌を損ねたのか、会話が途切れた。それを打ち破ったのは健太だった。
「聞きたいことがあるんだけど」
「なに?」
「昇なんだけど、本当に自殺だったの?」
数秒の間があった。短い時間だが、相手の戸惑いを感知するには充分な時間だった。
「今更なに言っているのよ。警察の方が確認したのよ」
本当に怒って言った。
「ごめん、それだったらいいんだけど」
「変な子ね」
健太は少しの間近況を話した後、文子に七月二八日の午後七時ぐらいに帰国することを告げると電話を切った。
電話を切っても健太は昇の自殺説にひとひらの疑いがあった。
周りの皆は昇が自殺だと納得しているのか。
なぜ俺はそんな事が気になるのだろう?
おかしい。今日の俺はどうかしている。
たぶん忙しい日々から開放された反動だろう。
否、昇が自殺したのは七月十一日。これは彼が昔、道端にダンボールと一緒に捨ててあった、それから中学生二年生から高校二年の時まで飼っていた雑種の猫の命日と同じだ。いつも一緒にいて、まるで昇の友達は猫しかいなかったかのような関係だった。
だからなんなんだ。健太は考えるのを止め、七月二八日までにやっておかなければならない仕事に取り掛かった。
ある人物の番号をプッシュした。
「もしもし俺だけど」
「先日はどうもれ」
機嫌良い返事が返ってきたが、呂律が怪しかった。
「二十八日に帰国する。その時会おう」