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毒蟲は土に蠢く  作者: 児島らせつ
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謎解き二

第十一章


二〇一六年九月三十日


 中浦酒造の工場で、関係者たちを前に矢永は続ける。

「今までお話しした、間接的な要素を繋ぎ合わせると、ある推測が浮かび上がってきます。毒殺犯は、コエリョによって隠された武器を、いつか必要となる日のために密かに守ってきた。今回、開発という名のもとに武器が人々の目に晒されるのを防ぐために、殺人を犯さざるを得なくなってしまった、という推測です」

 何とも強引な推測だ。この強引さは、矢永が生まれ持った、特筆するべき資質の一つとも言える。

 自らの推論を得意げに語る矢永の態度に、場を包み込んでいる重苦しい空気の温度が、少しずつ上昇し始めているように感じられた。

「話は変わりますが、青刈地区という名も変わっている。種子ついでに考えたのですが、青刈とは『アポカリプシス』が訛った言葉とは考えられませんか。アポカリプシス。つまり新約聖書にある『ヨハネの黙示録』です。山際君、君はヨハネの黙示録について説明できるかな」

 一同の視線が矢永から私に移動し、私の体を強烈に貫くのがわかった。私は、突然の指名に困惑しながらも、辛うじて口を開いた。

「『ヨハネの黙示録』とは、新約聖書の末尾に記されている聖典で、一種の終末預言的な内容となっています。『ヨハネの黙示録』では、七つの目と七つの角をもつ子羊が、神から授けられた七つの巻き物の封印を解く毎に、地上がさまざまな禍に襲われます」

 私は一つ一つの言葉を確認し、ゆっくりと語る。

「七つめの封印を解いた時に現れた七人の天使によって、更なる禍、天変地異が起こり、世界の終わりに最後の審判がおこなわれます。最後の審判では、『命の書』に名前がある者は天国に送られ、名前がない者は地獄に落とされます。最後に、救世主であるイエスの再臨が告げられ、ヨハネの黙示録は終わります」

「よくできました。いつも頼り甲斐のない君にしては、上出来だったよ」

 矢永が唯一人、愉快そうにパチパチと手を叩いた。人々の視線が、再び矢永に戻った。視線による緊縛から解き放たれた私は、ふうと大きく深呼吸をした。

「青刈という名の由来については、あくまで想像に過ぎません。想像に過ぎませんが、もしこの地名が、新約聖書の最後の審判を暗示していると仮定したら……。大量の武器と最後の審判、大変興味深い組み合わせと言わざるを得ない」

 話を聞いている人々の中に、明らかな動揺が広がった。矢永は、人々の動揺に全く配慮する素振りを見せない。

「ここで新たな疑問です。今回の殺人事件では、なぜ殺害の道具として、毒物が使われたのでしょう。また、使われた毒物の正体は、いったい何だったのでしょう」

 矢永は、一瞬の間を置き、人々の視線が自分に集まった事実を確認すると、もったいぶって口を開いた。

「毒物の正体は、カンタリジンでした」

「カンタリジンだと?」

「そいは、いったいどがん物質ね」

 人々の間から疑問とも、糾弾とも受け取れる声が上がる。伊東を中心とする集団の構成員からだった。

「カンタリジンは、比較的身近な昆虫であるツチハンミョウから採れる毒物です。同時に、昔から洋の東西を問わず暗殺などに広く使われてきた、比較的ポピュラーな毒物でもあります。しかし、ポピュラーとは言っても、現代においてもっと簡単に手に入る毒物はたくさんあります。にもかかわらず、犯人はなぜカンタリジンを使ったのでしょう。さらに、カンタリジンの製法などに関する知識は、どこから手に入れたのでしょう」

 矢永は先ほどから、自身を攻撃的な目で見詰め続けている一団を、鋭い目で見返した。

「私はカンタリジンの出自を調べるうちに、恐るべき仮説に到達しました。今回の事件に使われた毒物、カンタリジンの正体は『カンタレッラ』です」

「カンタレッラ?」と、伊東が語尾を上げながら呟いた。呟き声を聞き逃さなかった矢永は、伊東に近付き、正面から対峙する。

「かのルネサンス期、イタリアで権勢を振るっていたボルジア家が、政敵を倒すために用いたと伝わる毒薬です。カンタレッラの正体は不明ですが、カンタリジンとの説があります」

 一旦、言葉を止めた矢永は、取調室の刑事のように冷めた目付きで、伊東の反応を観察する。心苦しい感情が芽生えたのか、伊東は気まずそうに矢永から目を逸らした。

 矢永は、なおも伊東の顔を覗き込みながら、一気に説明する。

「コエリョやヴァリニャーノが、まさに日本にやってこようとしている時代、イエズス会の総長を務めていたのは、ボルジア家の一員であるフランシスコ・ボルハという人物でした。ひょっとしたら、ボルハを通じてイエズス会に伝えられたカンタレッラが、布教活動に、秘密裏に利用されていたのかもしれません」

 矢永は顔を上げると、一同を見渡した。

「ボルハ自身はつましく、布教にも熱心で、イエズス会最高の総長の一人として後に列聖されたほどの偉人でした。それでも、布教の反対勢力に毒薬を利用しようとするイエズス会全体の意向には逆らえなかったという推測を、誰が否定できるでしょうか」

 やがて、カンタレッラの精製方法はイエズス会の教えとともに、密かに青刈地区に伝わった。矢永の言葉は、コエリョがこの地にカンタレッラを持ち込んだ可能性を示唆している。

「もちろん、何の根拠もなく言っているのではありません。実は我々は、郷土資料館である資料を見つけました。それは以前、種子神社が焼け落ちた時に、祠の中から見つかった紙片です。その紙片には、カンタリジンと思しき薬物の精製方法が書かれていました。ご丁寧に、ボルジア家のものである牡牛の紋章まで、しっかりと漉き込まれていました」

 紙片は、この地区でカンタレッラの製法が後の時代まで伝えられてきた、証左といえる。

「種子神社の武器とイエズス会、ボルジア家、そこにもってきてカンタレッラ……。ここまで情報が出揃うと、今回の事件にカンタリジンが使われた理由が、朧気ながら見えてくるではありませんか」

 開発推進派の殺害には、コエリョたちが種子神社の武器を守るために残したボルジア家の毒薬、カンタレッラが使われるべきである。その事実は、予め運命付けられた必然だった。それが、矢永の推測だ。

「ただ、犯人が紙片の存在を知っていたかどうかは疑わしいですがね。もし知っていたなら、いつ見付かるかわからない祠の中などに、長年に亘って放置しておくはずはない。長い年月の中で、祠の中の紙片の存在はいつしか忘れられ、製法だけが口承か、或いはそれに近い方法で伝えられてきたのでしょう」

 ここで矢永は一つ大きく息を吸い、何かを決意したように姿勢を正す。

「今回、種子神社に隠されたコエリョの武器のために、カンタレッラを実際に精製し恐ろしい犯罪を実行に移した人物は、いったい誰か」

 矢永は、厳しくも冷たい目で人々を見回すと、右手の人差し指を一人の人物に向けた。

 ――いよいよ、その時がやって来た。

 私は目を瞑り、覚悟を決めた。

「それは、貴女だ!」

 矢永が指差す先には、葉月がいた。

 一同が、葉月に視線を移す。葉月の隣に立っていた南奈も、驚愕の表情を浮かべながら、葉月を見詰めた。

 葉月は、微動だにしなかった。矢永は、葉月の美しく整った、それでいて強い意志を感じさせる顔を、冷徹な視線で射抜いた。

「なんでも江戸時代以降、この地区は度々、幕府による隠れキリシタン弾圧の舞台となった。だが、いずれの場合も、原因不明の撤退で救われたとか。この伝承にも、恐らくカンタレッラが関係しているのだろう」

 不穏ともいえる空気が、人々の間にざわざわと漣のように伝わった。私は目を瞑り、うつむきながら考えた。

 外の社会からやってきた私たち余所者が、今、ここに集まった人々、特に伊東を中心とする集団の価値観を土足で踏みにじっている。伊東たちは、その事実に不快感を覚え始めている。

 私の頬を伝わった脂汗が、顎の辺りからぽたりぽたりと滴り落ち、コンクリートの床に吸い込まれていく気がした。

「貴女の家は代々、コエリョによって隠された種子神社の武器を守ってきた。幾世代にもわたって使命が受け継がれていくうちに、コエリョの遺産はいったい何だったのかさえも、忘れられたのかもしれない。結果として、ただ守る行為だけが使命として受け継がれた」

 葉月は唇を固く結んだまま、相変わらず身動き一つせずに、矢永を見詰めていた。

「郷田君、貴女は、都会に出て一流大学で学び、一流企業でも通用する醸造の知識を学んだ。にもかかわらず、この地区に舞い戻って、中浦酒造に入った。中浦酒造に就職した理由は、コエリョが残した武器を守るためだろう」

「何ば言いよっと。証拠はあっとか」

「そうたい。いい加減な話ばすんな」

 先ほどにも増して、伊東たちの苛立ちが静かに、だが確実に募っていく。人々の心は事件解決とは全く異次元の、本能的な怒りに近い感情に支配され始めていた。

 私は、この場から逃げ出したい衝動に、懸命に抗う。今は息を飲んで、事態の進展を見守るしかない。伊東たちの不満を制するように、右手の掌を聴衆に向けながら、矢永は答えた。

「私も、全くの想像でこんな話をしているのではありません。幾つかの証拠があります。まず一つめは、証拠というよりは、ヒントと表現したほうがいいでしょう。郷田君が制作している、ブログのタイトルです。三枝君、タイトルは何と言ったっけ」

 突然の指名に驚いた様子の美香だったが、すぐに矢永の質問を理解する。

「『まだらネコのほろ酔い日記』です」

 矢永は、はっきりとした声で美香に重ねる。

「皆さん、お聞きになりましたか。まだら猫です。私は当初、中浦酒造に棲み着いているぶちの猫を指していると思っていました。しかし、この言葉は、別の意味を表しているとも考えられます」

「どがん意味ね」

 伊東が矢永を上目遣いに見ながら、低い声で静かに問うた。矢永は得意げにも見える尊大な表情で、伊東に語り掛ける。

「カンタリジンは、先ほども申し上げましたように、主にツチハンミョウという甲虫の仲間から抽出されます。ツチハンミョウの仲間は、決して珍しい昆虫ではなく、この辺りでもごく普通に見られます。ツチハンミョウは漢字では『土斑猫』と書きます。『斑猫』、つまり『まだら猫』です」

 矢永は葉月を振り向くと、したり顔で続ける。

「郷田君。貴女の家では、恐らく今回の毒物カンタリジンをツチハンミョウの仲間から抽出する方法が、昔から伝えられていた。実際に抽出をおこなっていた貴女にとって、ツチハンミョウは身近な存在だった。そのため、深く考えもせず、ついブログのタイトルに使った」

 葉月は、真っ直ぐな瞳で矢永の顔を凝視したまま、肯定も否定もしなかった。二人の視線がぶつかり、見えない火花を散らした。

 葉月に自分の行為の罪深さを省みてほしいという願いに、罪悪感に苛まれる葉月を見たくないという気持ちが交錯する。許されるなら、一刻も早くこの場を後にしたいが、そのような行為は許されない。

 私は、最後まで見届けなければならない。

「ブログのタイトルに関しては、君の内面的な問題なので、私が今、ここで証明する芸当は不可能だ。しかしながら、このタイトルが私にとって一つの大きなヒントになった事実は間違いない」

 ここで矢永は、一方的に葉月から視線を外し、再び不特定多数の人々に視線を移す。

「二つめの証拠は、カンタリジンを精製するには、それなりの設備が必要だという事実です。以前、中浦酒造の醸造課の内部を見せてもらいました。見たところ、エバポレーターや遠心分離機など、一般的な精製のために必要な機材が、最低限は揃っている様子でした。つまり、郷田君にはカンタリジンを精製する行為が可能でした」

 矢永は、しばし間を置き、人々の意識が自分の口元に集中するのを待った。

「三つめは、ここにいる山際君と郷田君の会話の中の言葉でした。山際君は、郷田君に『貞夫氏が毒物らしき粉末を持っていた』と話しました。ところが、その話を聞いた郷田君は、『毒の瓶』と表現しました。これは明らかにおかしい。なぜなら山際君は、容器について一言も喋っていないからです。ところが、郷田君は毒物が瓶に入っている事実を知っていました。『犯人だけが知り得る事実』です。私にとって、非常に有力な証拠でした」

 伊東を中心とする男たちは、確かにその瞬間、今までにない敵意を私たちに向けた。彼らは怒りに目を血走らせ、体を打ち震えさせている。激怒する姿は、隙あらば私たちに襲い掛かろうと様子を伺っているようにさえ見えた。

 伊東たちのエネルギーは、もはや危険水域の近くまで達しているに違いなかった。

 一方の矢永は、少しも怯まない。

「郷田君。私の話に納得していない人々も少なからずいるようだが、続けても構わないかな」

「構いません。続けてください」

 葉月が動揺を微塵も見せず、静かに、よく通る声で矢永に告げた。葉月の声を合図に、敵意に満ちた伊東たちの目線が、若干ながら弱まった。

 すかさず、矢永が口を開く。

「ただし『毒の瓶』発言は、証拠としてはあまりに曖昧に過ぎますし、ブログのタイトルや精製設備などは、一応のヒントではあるものの、証拠ですらありません。肝心な殺害方法も、謎のままです」

 矢永は、困ったような表情でしばし沈黙した後、続ける。

「毒物は、社長と間弁護士のグラスと酒からしか検出されませんでした。当時、会場にあった酒瓶からも、料理からも一切検出されなかったのです。これらの事実から、普通に考えると、犯人が二人の持つグラスに直接、毒物を入れたという結論になります。しかし、あれだけ目撃者がいる中で、グラスに直接、毒物を入れる行為は考え難い。しかも、毒物を直接入れたのなら、その後グラスに口を付けた時、すぐに苦しみ始めるはずです。ところが、お二人は、グラスのお酒を飲みながら談笑している途中で、突然苦しみ始めた。これは、毒物を直接入れたのではないという事実を示しています。では、犯人は、何を使ってグラスに毒物を入れたのか。私はあるものに気が付きました。お二人の殺害に使ったもの、それは恐らく氷です」

 矢永は薄ら笑いを浮かべながら、表情を確かめるように葉月を見詰めた。

「社長と間弁護士は、お披露目会の最中、確かに氷の入ったオンザロックを飲んでいた。氷の中心部付近に毒物が仕込まれていたとしたら、毒物が溶け出すまでに一定の時間が掛かるため、飲み始めてから毒物を摂取するまでにタイムラグが生まれる。郷田君、貴女は恐らく、オンザロックの氷の中に毒物を入れておいたのだね」

 葉月は、ふふと氷のように冷たく笑った。

「でも、クーラーボックスの氷は、その時近くにいた社員が交替で希望者に提供していましたし、なかにはご自分で氷を取られる方もいらっしゃいました。私がお二人のためだけにクーラーボックスに毒入りの氷を仕込んでおくなんて、不可能です。にもかかわらず、毒物を摂取したのがお二人だけだったという事実は、どのようにご説明されるのですか」

「確かに、クーラーボックスの氷を使うのは難しい。そもそもクーラーボックスから、毒物は検出されていないしね。それもそのはずだ。お二人の毒殺に使われた氷は、クーラーボックスの氷ではなかったのだからね」

 今まで腕組みをしたまま、黙って話を聞いていた穂高が、納得いかない表情で疑問を口にした。

「それはおかしい。迷惑系ユーチューバーの突撃取材予告が原因で、一般の出席者は入り口で手荷物を預け、ほぼ手ぶらの状態で会場に入っていたそうです。スーツの下に氷を忍ばせておくなんて、不可能です。話によると、中浦酒造の関係者も、同じような状態でした。氷をこっそり持ち込むのも、ましてやその氷をお二人のグラスに入れるのも、無理としか思えません」

「その通り。毒殺用の氷は、こっそりではなく、あるものを使って堂々と会場に持ち込まれていたんだよ。それは郷田君、貴女が会場に持ち込んだワインクーラーだ」

 矢永は葉月の目を見ると、愉快そうに微笑んだ。

「貴女は、お披露目会に冷えた酒を提供することを提案して、会場に五合瓶を差したワインクーラーを持ち込んだ。もちろん、氷入りのね」

 葉月は驚いた様子だったが、足下に目を落とすと、呆れた様子で微笑した。

「仮に毒入りの氷を持ち込んだとして、いったいどのようにしてお二人のグラスに入れるのですか」

 答えを用意していたかのように、すかさず矢永が答える。

「このようなシナリオはどうだろう。貴女は会の最中、頃合いを見計らってワインクーラーから五合瓶を抜き取ってアイスペールに見せ掛け、なおかつその氷が勝手に使われないように、ナプキンを被せておく。次いで、社長と間弁護士の二人に声を掛ける。言葉の内容は、そうだなあ。例えば『ブログで、新しい飲み方としてオンザロックを提唱したいので、二人がオンザロックを飲んでいる場面を撮影させていただけませんか』といったところかな」

 確かに、葉月はあの日のパーティ会場で、氷が入ったグラスを掲げる社長と間弁護士をデジタルカメラで撮影していた。当日は九月としては寒い日だった。正直、オンザロックが飲みたくなる気象条件ではなかったが、ブログのためと言われれば、隆社長は拒否できなかっただろう。

「二人が承諾したところで、貴女はクーラーボックスの横に置かれたアイスペール、いやアイスペールに偽装したワインクーラーの毒入り氷を、目立たないように二人のグラスに入れる。あとは、五合瓶をそっとワインクーラーに戻し、グラスの中の氷からカンタリジンが酒に溶け出すのを待つだけだ。警察も、出席者たちが口にするはずのないワインクーラーの氷に毒物が入っているとは思わないだろうから、ワインクーラーの中までは調べない。したがって、この方法なら鑑識の目も欺ける」

 東京の警視庁のように凶悪事件に日常的に慣れ親しんでいる警察なら、ワインクーラーを含め、あらゆる可能性を視野に入れて証拠を集めるかもしれない。しかし、地方の警察は事件慣れしていない分だけ、無意識に「有り得ない」可能性を排除し、先入観に基づいた捜査をするケースがままあるという。

 葉月は、その点をも見越していたというのが、矢永の考えだ。

「それで?」と葉月が、続きを促す。

「貴女としては、毒入りの氷を全部使い切りたいところだっただろうが、そもそもワインクーラーに氷が数個という状態は不自然だ。多めに入れざるを得なかったために、多少残ってしまった。また、事件発生後のどさくさに紛れてワインクーラーを持ち出したいと考えていたが、思った以上に警察の到着が早かったうえに、一部の人たちによって現場から遠ざけられてしまったために、それも叶わなかった。しかし、それらの事象は、貴女にとってはある程度、想定内だったのだろう。貴女は、氷を使い切らなくても毒物が検出されないように、わざわざワインクーラーを氷の隠し場所にしたのだからね」

 矢永の長い解説を受けて、葉月が鋭い視線を矢永に送った。

「とても面白いお話ですね。でも、ワインクーラーの氷にカンタリジンが入っていたという証拠はないですよね」

 強く真っ直ぐな視線が、矢永を捉える。矢永は、葉月の視線に動揺する事なく、むしろ嬉しそうな表情さえ見せる。

「私たちは偶然にも、花壇の一角にツチハンミョウが集まっている部分を発見した。恐らくそのツチハンミョウは、カンタリジンの誘引作用によって集まっていたのだろう。誘引作用とは、同じ毒物をもつ仲間を引き寄せる作用で、交尾相手を見つける手段であり、子孫繁栄のために役立っているとする説が有力だ」

 矢永は、ここでふうと静かに息を吐く。にやりと笑いながら、決定的な一言を口にした。

「ツチハンミョウが集まっていたその場所こそ、澤田さんがワインクーラーの水を捨てた場所だった。この不思議な符合は、ワインクーラーの水に、カンタリジンが混入していた事実を示唆している」

 葉月は、驚愕の表情を浮かべた。目を大きく見開き、唇を噛む。

「さすがの貴女も、ワインクーラーの中に残ったカンタリジンの誘引作用が発動する点までは、読み切れていなかったようだね」

 驚いたように顔をこわばらせた葉月だったが、次の瞬間、目を伏せながら微かに笑った。何かを諦めたようにも、何かから解放された事実に安堵しているようにも見えた。

「矢永さん。貴方は、狡い人ですね。人の心を弄び、いたぶりながら追い詰めていく。でも、そのおかげで、私は自分の存在と真摯に向き合えた気がします」

 矢永の言動が正しいか否かと聞かれれば、「今に限っては正しい」と、私は答えるだろう。しかし、許されるならば、この場にいる人々を代表して、矢永の横っ面を張り飛ばしてやりたい。理屈では割り切れない、非合理的な感情が私の心を苦しめた。

 私は、葉月を正視するに忍びなくなり、顔を背けた。

 次の瞬間。

「貴女は、何て酷い人なの! この人でなし!」

 秋江が叫び声を上げ、髪を振り乱しながら葉月に掴み掛ろうとした。

 すんでのところで、菊池が秋江の体を横から押さえ込む。秋江は、そのまま膝から崩れ落ちた。

 水を打ったように静まり返る工場内に、秋江の啜り泣く声が小さく反響した。

 菊池が、秋江の腕を取り、肩を優しく抱き上げた。秋江は、抱き上げられた肩を震わせながら、力なく立ち上がる。菊池に支えられたまま、工場を後にした。

 秋江の姿が見えなくなっても、啜り泣きの声は、いつまでも工場の壁に反響し続けている。

 そんな気がした。


         *


 秋江の後ろ姿を見送った矢永は、仕切り直しとばかりに、独演会を再開した。

「事件は、それだけでは終わりません。貞夫氏の死という、不可解な事象が起こりました。貞夫氏の死は一見、自殺に見えました。しかし、一つの疑問点がありました。カンタリジンです」

 私は、一切の感情を一時的に封印して、矢永の話に聞き耳を立てる。

「郷田君が毒殺事件の犯人である限り、貞夫氏が自らの意思でカンタリジンを摂取するのは不可能です。それなのになぜ、貞夫氏はカンタリジンを摂取したのか。それは、社長と間弁護士を殺害した郷田君が、貞夫氏にカンタリジンを盛ったからにほかなりません」

「ははは、葉月が犯人ち、こいは可笑しか」

 伊東が大袈裟に手を叩きながら、乾いた笑い声を上げた。

「貞夫さんは、死んだ日の十一時頃、中浦酒造で目撃されとう。死んだ時間は十一時以降で、自殺現場は中浦酒造から往復四十分は掛かるとばい。ばってん、葉月は十一時から遺体が見つかる十六時まで、会社を離れとらん。犯行は不可能ばい」

 矢永は伊東を振り向くと、予想していたと言わんばかりの余裕を浮かべる。これ以上ないと思えるほどの、冷たい目で笑い返した。

「貞夫氏を目撃した人物は、郷田君だけだ。郷田君の証言自体、虚偽の可能性がある」

 伊東は、矢永を厳しく見詰め、追及の手を緩めない。隙あらば、矢永の足下をすくってやろうという、決意に満ちた勝負師の目だ。

「ばってん、目撃証言ん通り、十一時前後に、貞夫さんのスマートフォンで『中浦酒造の近くにいる』ていうSNSのメッセージば送られとう事実が、わかっとうとやろう」

「その通り。穂高君の情報では、SNSの発信地点は確かに中浦酒造の近くだったようです。その後、警察がまったく動いていない様子を考慮すると、その情報に間違いはないでしょう」

 矢永は、余裕を演出しているのか、薄ら笑いを浮かべたまま、ことさらゆっくりと伊東に語り掛ける。盲目的な信者に語り掛ける、如何わしい教祖のような口調だ。

「もし、葉月がSNSば送ったとしてん、貞夫さんのスマートフォンは十一時頃に中浦酒造ん近くにあって、十六時の遺体発見時には遺体発見現場にあった事実に変わりはなか。ばってん、さっきも言ったごと、そん間に葉月は中浦酒造ば離れとらん。やっぱい不可能ばい」

 伊東老人の話は、論理的で切れ味が鋭い。田舎でのんびりと暮らす凡庸な高齢者の隠れ蓑を被っているが、どうしてなかなかの切れ者だ。

 私は、矢永の勝利を信じながらも、伊東を興味深く見守った。

「郷田君が貞夫氏を殺害する行為は、不可能ではありません。これからご説明しましょう。あくまでも『可能性の域を出ない推測』との条件付きですがね。その前にまずは、なぜ郷田君がわざわざ貞夫氏を殺さなければならなかったのか。ご説明しなければなりません」

 矢永は、傍らにあるベルトコンベアのコントロールパネルの上に置いていたペットボトルを手に取る。中の水を一口飲むと、天井を向いて「ふっ」と短く息を吐いた。

「話は毒殺事件以前に遡ります。貞夫氏はかねてから、樹希君と自分の息子を結婚させ、あわよくば会社の経営に食い込む計画を練っていました。そこで、辻君に対して『結婚を諦めろ』と執拗に迫ったと思われます」

 矢永は一度、人々を見渡す。一同の間に、驚きの感情が波のように広がった。波の拡大を確認して、矢永は独り小さく頷く。

「脅迫まがいの言動が始まった時期は、ここ数ヶ月だったでしょう。どうにも困った辻君は、恐らく郷田君に『中浦貞夫から脅迫まがいの言動で結婚を反対されている』と相談した。郷田君はかねてから、辻君に友情以上の好意を抱いていました。そこで辻君を助けるため、脅迫に関する情報を集めようと、こっそり貞夫氏に近付く決意をしたと思われます」

 人々が、一斉に葉月を見た。人々の顔には一様に、聞いてはいけない事実を聞いてしまった驚きと、戸惑いに似た表情が浮かんでいた。

「郷田君が、貞夫氏とどの程度まで近しい関係になったのかはわかりません。そんななか、一ヶ月前に重蔵会長が亡くなると、郷田君は隆社長と間弁護士の殺害を計画しました。同時に辻君を助け、毒殺犯の濡れ衣を被せるために、貞夫氏の殺害も企てたとしたら如何でしょう」

 伊東が、相手を卑下するかのような笑いを浮かべながら「まさか、そげん馬鹿な」と、吐き捨てるように言った。

「殺害を実行に移し、成功させるためには、貞夫氏と一層、親しい関係になる必要があったでしょう。貞夫氏は、一部では好色漢として知られていたようですから、方法は自ずと想像がつきます。犯行現場となった橋も、より親密になるために何度か使われた可能性がないとは言えない。前もって利用していれば、殺害を実行する時に相手に怪しまれないですからね」

 葉月は、マリア観音のように穏やかな表情を浮かべながら、やはり、微動だにしない。葉月の強さの前では、背徳の記憶さえも、計画という装置に内包されている歯車の一つに過ぎないのか。

 私は、周囲の景色が捻じ曲がっていく、眩暈にも似た感覚に襲われた。

 辻が突然、人込みを掻き分けながら走り出ると、矢永の胸ぐらを掴んだ。拳を振り上げながら「いい加減にしろ!」と叫ぶ。

 ほぼ同時に、振り上げた拳と矢永の間に、葉月が体を滑り込ませた。辻を振り向くと、「やめてください」と静かに、強く言い切った。

 葉月の言葉に虚を突かれた辻は、一瞬の逡巡の後、「……すみません」と矢永に謝罪しながら、拳を降ろした。その表情は、恥ずかしそうにも、悔しそうにも見えた。

「あいにく、人に憎まれる状況は慣れている。心配しなくてもいい」

 矢永は独特の言い回しで謝罪を受け入れると、上着の胸元を整えながら続ける。

「私の推測では、貞夫氏は、郷田君の目撃証言がある十一時前には、すでに殺害されていました。ただ、問題は貞夫氏のスマートフォンです」

 矢永は、誰に向けるでもなく、人差し指を立てながら「いいですか」と断りを入れる。

「貞夫氏のスマートフォンは、十一時には中浦酒造周辺にあり、遺体発見時の十六時には、遺体の脇にありました。その間、郷田君は中浦酒造を離れてはいません。郷田君は、どのようにして、スマートフォンを貞夫氏の遺体の元に届けたのでしょうか。方法は、唯一つ。川です」

「川? 意味がわからんばい」

 伊東が、怒気を孕んだ声で訴えた。

 工場内の重苦しい空気と緊張感は、秋江の慟哭以降、もはや臨界点に達していた。質量を増した空気が人々の肉体を束縛し、精神の暴発を辛うじて抑え込んでいた。

「決行の前……、前日か二日前かは、わかりませんが、郷田君は貞夫氏に『九月二十一日の朝、例の場所で会いたい』と連絡を取ります。例の場所とは、殺害現場です。現場は人家からも離れ、まず人目につきません。待ち合わせ時刻は、十一時に中浦酒造に到着する予定を考慮すると、十時ぐらいでしょうか」

 矢永は、人々の暴発の予感をものともせず、淡々と解説を続ける。

「決行当日には、会社にあらかじめ午後出社の連絡を入れておきます。郷田君は、貞夫氏と現場で待ち合わせて、毒入りのビールを飲ませます。貞夫氏が息絶えるのを見届けると、毒物を貞夫氏に持たせ、スマートフォンを抜き取ります」

 ここで、穂高が再び疑問を呈した。

「貞夫氏の缶ビールに、確か毒物は入っていませんでした。こっそり毒物を飲ませたのなら、ビールからも毒物が検出されますよね」

 矢永は横目でちらりと穂高の姿を捉えると、控えめに微笑んだ。

「簡単な話だ。毒物入りの缶ビールを飲ませた後で、毒物の入っていない缶とすり替えればいい。それだけだ」

 私は目を瞑り、貞夫氏の遺体発見現場の様子を、頭の中に思い描く。矢永の推測と矛盾する点は、発見できなかった。

 現場に矛盾がない代わりに、私の心の中には、不安と安堵という矛盾する二つの感情が渦巻いていた。矢永の推測が全くの的外れであってほしい願望と、真実を知りたい欲望の間を、私は今もって彷徨い続けている。

「一連の作業をシミュレーション通りに手早く終えると、十時三十分過ぎ頃には撤収可能となるでしょう。ここからが、この事件の核心だ。当初は完璧とも思えたアリバイ作りだね。わくわくするよ」

 矢永が、冗談めかした口調で自らの感情を露わにした。矢永は、ここに集まった人々の感情が、依然として爆発寸前である事実を全く理解していない。

 いっぽうで葉月だけは、人々の感情が作り出す歪んだ空間の外にいる。

「十一時に車で会社に戻ると、貞夫氏のスマートフォンを使い、家族宛てに『今、中浦酒造の近くにいる。とんでもない事件を起こしたしたのかもしれない』とSNSでメッセージを送ります。中浦酒造付近からの発信なので、貞夫氏が生きて中浦酒造付近にいた偽装になります」

 矢永は、自らの推理に感心するように、右手で顎を撫でた。

「以降の説明は、トリックの核心ともいえる部分です。多分、郷田君は、ここでも氷を使ったのでしょう」

 一同が、息を呑む音が聞こえた気がした。幻聴だったのかもしれない。が、聞こえたとしても不思議のない状況が、工場内にはあった。

「十一時五分、郷田君は研究棟の二階、誰もいない研究室の酵母保存用の冷凍庫に隠しておいた、大きな氷の塊を取り出します。氷には、あらかじめスマートフォンが入る大きさの穴が開けられていたのでしょう。穴にスマートフォンを入れると、水を満たして一時間ほど凍らせ、接合させます」

 まるで、見てきた口ぶりである。人々は、先ほどにも増して、矢永の言葉が真実であるかのように錯覚し始めていた。

「十一時十分頃、郷田君は私たちに対して、貞夫氏を見掛けたという嘘の証言をしました。この証言は、SNSのメッセージが送られた時間前後、貞夫氏が中浦酒造付近にいた偽装になりました。続いて十二時過ぎ、昼休みになると、目立たない裏道を数分歩いて、スマートフォン入りの氷を清水川に運びます」

 葉月を振り返った矢永は、人の心の中を見透かす笑顔で葉月に視線を送った。

 葉月は心を見透かされまいと、強い表情で矢永の視線を撥ね返す。まだ、自分の罪と対峙する勇気と覚悟を失っていないらしい。

「十二時十分、郷田君は清水川にスマートフォン入りの氷の塊を流します。運搬には、恐らくクーラーボックスのような容器を使ったのでしょう。氷の塊は数㎞流れると、貞夫氏の遺体がある橋の横にある堰で止まります。やがて氷が溶けると、スマートフォンは水没します」

「実に巧妙な方法だ」と呟くと、矢永は負けを認めた棋士よろしく、額に右手を当てて唸った。気を取り直したように手を降ろすと、再び口を開く。

「清水川は水が比較的豊富で、ある程度の水深があり、流れも安定しています。大きく蛇行している犯行現場付近までは、障害物となりそうな設備も河原もありません。そのため、スマートフォンが入った氷は、堰まで辿り着く可能性が高いと思われます。流速は、見たところ分速百mほどですから、現場に流れ着くまでは、二十~三十分ぐらいです」

 矢永は、天井に近い空間を見上げる。自分の言葉を一つ一つ確認するように、立てた人差し指を前後に動かしながら、解説を継続する。

「事前に、入念なシミュレーションを繰り返していたはずです。氷を流してから到着するまでの時間、氷が溶けるまでの時間は、ある程度予測できていたでしょう。その後、十二時十五分には会社に戻り、遺体発見までは、ひたすらアリバイ作りに専念します」

 葉月は、シミュレーションの記憶を具体的に思い起こしているのか。頬をやや紅潮させながら、どことなく懐かしそうな表情をした。矢永は、葉月にちらりと目を遣ると、最後に付け加えた。

「これで、貴女の完全犯罪もどきは完成となる」

 葉月は、矢永の挑発的な言葉に心を乱されたりはしなかった。むしろ、矢永の言葉を素直に受け入れようとしている態度にさえ見えた。

 私は、矢永の失態を目に焼き付け、記憶する行為こそが自らのレゾンデートルだと自覚している。そんな私の目は、矢永の心に過った微小な落胆の影を見逃さなかった。

「断っておきますが、今の私の話は、郷田君自身に犯行が可能だったという見解に基づいた話です。ひょっとしたら、フィクションかもしれないし、フィクションと主張されれば、返す言葉もありません」

 人々による嘲弄の視線をものともせず、矢永は渾身の力を込めて抵抗の矢を放つ。

「ただ、郷田君は、先ほどもお話ししましたように、見てもいない粉末の容器を『毒の瓶』と表現しました。また、郷田君が一人で管理していたワインクーラーの水に、ツチハンミョウが集まりました。さらに貞夫氏は、社長と間弁護士の殺害犯しか持ち得ないカンタリジンで命を落としました。これらは、私の推測が必ずしも荒唐無稽な内容ではない事実を物語っています。少なくとも、私にとっては、これだけで十分です」

 矢永は、得意げな顔をして踏ん反り返り、葉月を見下ろした。葉月は、繰り返される矢永の挑発的な態度にも、決して動揺を見せない。

 罪の意識、良心の呵責。秋江を初めとする、中浦家の人々による糾弾。

 葉月は、世にも恐ろしい犯罪を決意した瞬間から、全てを受け止める覚悟を決めていたのだろう。全てを受け止めながらも、決して逃げず、強い意志を持った目線で前を向く。葉月は、誰にも負けない本質的な強さを、内に宿した人間だ。

 矢永は、聴衆を見渡すと満足そうな顔をして、再びペットボトルの水で、口を湿らせた。

「考えてみると、一つめの毒殺事件の切っ掛けは『開発反対派である重蔵会長』の死、二つめの貞夫氏殺害事件の切っ掛けは『結婚反対派である重蔵会長』の死でした。二つの事件は、いずれも一見全く関係がないと思われる『重蔵会長の死』で、すでに避けられない必然となっていたのです」

「もう、やめてください!」

 工場の中に、女性の声が大きく響いた。

 声が聞こえた方向に顔を向けた。南奈が、愛しい人を守るように、葉月を抱き締めながら叫んでいた。

「もう……、もう、十分でしょう! 悪いのは、葉月じゃありません。葉月は、悪くない……」

 南奈の肩は、わなわなと小刻みに震えていた。美香が下唇を噛みながら、一瞬、悲しそうな目で南奈に視線を移す。すぐに視線を逸らすと、俯いて目を閉じた。

 決して本意ではないながらも、結果的に南奈を裏切る形になった事実に、美香自身も苦しんでいるに違いない。いつもは憎らしい後輩だが、この時ばかりは、私も美香への同情を禁じ得なかった。

「結城君、ご忠告有り難う。申し訳ないが、やめるわけにはいかない。この土地の呪縛に縛られながら生きている人たち、ここにいる全ての人たちのためにも、私は語らなければならない。僭越ながら、その魂を呪縛から解き放たなければならない」

 矢永が、妥協を許さない厳しい目で南奈を見た。

「……奇蹟ばい」

 矢永の言葉を遮り、伊東が呟くように小さな声で口を開いた。伊東の言葉を受けて、更に別の男が叫んだ。

「そうたい、こん事件は人殺しじゃなか。コエリョ様の遺産、俺たちん土地ば守ってくださる奇蹟……種子神社の奇蹟ばい」

 男の言葉を合図に、人々の間に「奇蹟ばい」「奇蹟に決まっとう」という呻きにも似た声が上がり、やがて不気味な波のように広がっていく。伊東たちは呻きながら一様に、矢永の顔を恨めしそうに凝視する。

「なるほど。コエリョが遺した武器を守るために、隠し場所を侵そうとした者をことごとく抹殺する。それが貴方方の信じる『奇蹟』ですか」

 相手の心を射抜く厳しい目を伊東たちに向けながらも、矢永は冷静を装った声で自らの説を展開した。

「貴方方の信仰は、もともとは各地に残る、隠れキリシタンの信仰とよく似た内容だったのだろう。しかし、この地で独自の発展を遂げた結果、キリスト教や他の地の隠れキリシタン信仰とは、全く異なる宗教に変貌した。いや、宗教とさえ言えない。私に言わせれば、人の死さえも奇蹟なる言葉で片づける、愚かなカルトだ!」

 矢永は、やや興奮した様子で語気を強めた。矢永にしては珍しく、額に強い憤りを表す深い皺が寄り、眉間に血管が浮かび上がっていた。

「貴方方が、今回の事件、いや、数百年と続いてきた恐るべき伝統、奇蹟などと呼ばれている禍々しい呪縛を、どの程度まで具体的に感知していたのか。私にはわからないし、知りたいとも思わない。いずれにしても、一つの思想や行動原理が数百年もの間、人目を忍んで連綿と受け継がれ、生き残るためには、少なからぬ人の協力が必要だったろう」

 相手を威圧する矢永の言葉の迫力に、伊東を中心とする男たちは怯み、口をつぐんだ。

 矢永は、自らを落ち着けるように、ここで右手の人差し指を額に当て、頭を軽く振った。

「覚えているかい、郷田君。貴女は、私たちがこの地を訪れて四日目の夜、料理屋で『自分はこの土地に縛られて生きるしかない』と語っていたね」

 葉月は、返事を拒否したまま、矢永の目を見返した。矢永は、葉月の拒否を確認して続ける。

「かつて私は、隆社長と間弁護士の毒殺には、生贄の匂いがすると述べた。だが、許されるならば、訂正しよう。生贄は、貴女だった」

 矢永の語る通りだ。私は、無意識のうちに大きく頷いた。

 一旦、生贄になったからには、この土地に縛られ、自らの生き様を運命付けられながら生きなければならない。拒否する行為も、逃げる行為も、決して許されない。

「もう一度、言おう。貴女こそが、生贄だ。今もこの土地に、この土の中に巣食う、奇蹟などと呼ばれる目に見えない毒虫のような存在に捧げられた、生贄だった」

 きっと、葉月自身も苦しんでいただろう。今も、矢永の容赦ない指摘に、自らの人生を振り返り、苦悩の表情を浮かべているに違いない。私は今一度、南奈に抱き締められながら佇む葉月を確認する。

 私の予想に反し、葉月は南奈の頭を優しく撫でながら、心の平穏を取り戻しつつあるらしかった。優しさの中に強さを湛えたいつもの表情が、徐々に葉月の顔面に蘇りつつあった。

 矢永は、伊東たちに厳しい目を向け、辛辣な言葉をもって糾弾する。

「貴方方は、生贄として生きる運命を負わされた郷田君の人生の上に、胡坐を掻いてきた。偽りの奇蹟、換言すれば、まやかしとも表現できる存在を、無責任に信じてきた貴方方の責任は、とてつもなく重……」

「これで、よかったんです」

 矢永の言葉を遮るように、葉月が強い口調で答えた。微動だにせず、凛として背筋を伸ばしたその姿に、私の心臓は一瞬大きく波打った。

「私が自らの運命を、父からはっきりと告げられた時期は、中学を卒業する間際でした。私は驚く以上に、今まで感じた経験のない不安におののきました。想像してみてください。我が家、いえ、この地域の人々が代々にわたって隠し続けてきた、コエリョ様の秘密。それを守れと、ある日突然、一人の年端もいかない中学生が、命じられたのです」

 葉月は遠くを見詰めながら、なぜか少し懐かしそうに、静かに語り続ける。

「その時以来、私は確かにこの土地に縛られ、同時にそんな自分の運命を呪いながら生きてきました。秘密を誰に相談する決断もできず、かといって拒否する行為もままならず、一人で苦しみながら、毎日を過ごしてきたのです。それは、今でも変わりません」

 葉月のやや高く、よく通る声が、荘厳な讃美歌の調べのように工場の空間に響き渡った。葉月の姿を前にしながら、私はかつて広報課で二人きりになった時、葉月が語った言葉を思い出した。

 ――幸せでなかったとしても、私は、その運命を受け入れようと思っています。きっと、生きるとはそういう意味なんだと思います。

 葉月は、きっとあの瞬間も、運命を押し付けられた理不尽さに耐え、運命を懸命に受け入れようとしながら生きていたのに違いない。

 私は、自分の無神経さを恥じ、鈍感さを呪った。

「……でも、これでよかったんです。他の人が生贄になるぐらいなら、私が生贄で、本当によかった……」

 感情を抑え付けていた見えない糸が、切れたのかも知れない。今まで、悲しみや苦しさといった負の感情を一切、表に出してこなかった葉月の頬を、一筋の涙が流れた。

「……悪くない。葉月は、悪くない……」

 南奈は、言葉を繋ごうとする葉月の肩を一段と強く抱き締め、右手の親指で葉月の頬の涙をふき取りながら、呪文の如く繰り返した。

 葉月は、南奈の頭を右手で愛おしむように撫でると、矢永の目を柔らかい視線で捉える。

 続けて、周囲の人々をぐるりと見回すと、聖母かと見紛う表情で、にこりと微笑んだ。

「もう、これで全て終わりにしましょう。呪縛も、生贄も、私たちを苦しめる何もかもを……」

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