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Villain:Side  作者: 昼の星
55/55

055,死出の森 -Lady- scene4

うまく区切れなかったので普段の倍くらいの分量があります。具体的には8000字弱ほど。

 衝撃にも手放さなかった剣を握る手に力を込めて、男は眼下を見据えて奥歯を噛み締めた。ふいに血生臭さが鼻腔を突き抜け、わずかに吐き気を覚える。

 やるべきことは理解したと、ゆっくりと落下の始まる中で男は小剣を鞘に戻し、片手剣の柄を両手を重ねるようにして握り締めた。

 内臓が浮くような浮遊感に、全身に力を込めて抗う。視線の先には、巨大な魔物が開いた地獄の入り口。鋭い牙が立ち並ぶ、仄赤い命の穴倉。

 ふと脳裏に疑念がよぎる。もしこのままならば、自分は確実に喰い殺されるだろう。魔物は自然界において獲物を食わなくなると言われているが、人間に対しては別だ。

 問答無用で牙を突き立てられ、消化液の沼に沈められ、分解吸収されて血肉に作り変えられて利用される。いつも自分たちがやっていることをされるだけのことだが、立場が換わればとたんにおぞましく感じることもあるだろう。

 満身創痍で宙に投げ出されている男と、それを喰らうべく大口を開けて待ち構える魔物は、互いに自分こそが捕食者の側であると視線をぶつけあった。

 生物として、すべてのおいて己のほうが優れていると力を誇示しているのか、魔物は前足を両方とも掲げて吼え猛る。その隆々とした黒い塊に、背後から長大な二条の水の鞭、もしくは水の刃が浴びせかけられた。それは魔物のかかげた二本の前足にそれぞれ命中し、激しい飛沫となって弾かれながらも分厚い皮膚に食い込み、鮮血を散らした。そしてやはり瞬間的に凍りつき、魔物を大木に結び止める。

 思慮外の攻撃だったらしい魔物は背後を振り返ろうと身をよじるが、両前足が固定されているためにそれは叶わない。といっても、もともとは少しでも勢いを付けることができれば大木ですら容易く叩き折ることが可能な魔物の腕だ。固定しておけるのはあくまでも一時的なことにすぎない。

 ついで、唸り声を上げるその黒い背が大きくたわむ。と、紫の靄と鮮血が飛び散らされ、男の耳にもごうという音が聴こえた。ほとんど同時に、体のすぐ横を強風が吹き抜けていく圧力を感じた。


(風も使えんのかよ)


 男は落下しながらセレネの才能を思った。状況から考えれば、そんなことを考えている余裕などないのだが。


「グルォアアァアア!!」


 魔物が天に向かって吼える。それは苦悶の声か、怒りの発露か。理由はどうあれ、ふたたび男の落下地点に地獄の蓋は開いた。


「くたばれ!!」


 勢いそのままに、両手で固定した剣を見えていた魔物の上顎から頭に向かって突き立てる。途端、おそらくは反射的に閉じられる顎を、下顎に引っ掛けた右足ととっさに掲げた左腕、というより、左肩で食い止める。いくら魔物が巨大だといっても男が直立できるほどに顎が開くわけではないので、半ば屈むような姿勢だ。

 右足は偶然にも牙の隙間に足を置くことができていたが、左肩には鋭い犬歯が突き刺さり、派手に出血している。

 顔を魔物の鼻頭に押し付けるような格好となり、荒い吐息と口内から飛び散らされる唾液の臭いが鼻を突く。しかしそんなことに構っている余裕があるはずもない。

 男は右手に握った剣をさらに刺し込み、おそらくは上顎の骨を支点にしてレバーを倒すように押し込んだ。

 口内の痛みに怯んだのか、顎を閉じようとする魔物の力がわずかに緩む。替わりに、上下左右に首を振り始める。


「んぬ……ああああぁあ!」


 バキバキと魔物の両前足を戒めている氷が砕かれる音が響く中、男は渾身の力で剣を押し込む。不意に、てこが外されたかのように手応えが消える。感触から、剣が折れたことを覚った。


「ゴアアァアアア!」


 なおも猛る魔物の口中から右腕を引き抜き、折れた剣を逆手に持ち替える。鼻頭に押し付けて左目が塞がっているため、右目だけで血走った魔物の目を見据え、がむしゃらに剣を突き立てようとした。片目であることと、折れた刀身の長さが把握できていなかったことで目測を誤る。


「ぐっ!」


 敵意を感じ取ったのか、左肩にかかる圧力が増す。構わず、折れた剣を魔物の目に今度こそ突き立てた。


「グォオオァアア!!」


 魔物が大きく仰け反った拍子に、両前足を大木に繋ぎ止めていた氷が砕けた。勢い魔物は後ろ向きに倒れる。途中、木に衝突して斜めになりながら、魔物は地面に倒れこむ。魔物の目に突き立てた剣にしがみついていた男も、地響きに砂埃が巻き上がる中で血に塗れた剣の柄が滑り、宙に投げ出されていた。


「ぐ……!」


 地面に転がった男は、もはやボロ雑巾のような有様だった。獣の唾液と、何のものとも知れない血に塗れ、身に纏った衣服もそこかしこが破れている。

 しかしまだ自身の状態を顧みている場合ではないと背後の魔物を見やれば、魔物は地面に横たわったまま呻き声を上げながら身をよじり、転がり、大地を揺らしていた。

 位置関係を把握できていなかったこともあり、セレネの姿を探して視線を走らせる。魔術を放っていた状況から、近くにいる可能性を考慮したが、どうやら魔物を挟んだ位置にいるらしいと察した。

 希望的観測かもしれないが、おそらく魔物はもうまともに動けないように見える。ならば、優先すべきは自身の身の安全だ。なにより、負った傷はとても無視のできないものだ。

 男は無駄に磨き上げた制御で素早く治癒魔術を起動すると、出血の止まっていない胸の傷や左肩の傷に最低限の治癒を施した。


(た、太陽は……)


 いつのまにか傾いた日差しの位置を確認する。最悪なことに、西側を魔物に塞がれる位置関係。逃げるとすれば、北から東方面を選ばざるを得ない状況と知った。

 南へ向かうことも可能ではあるが、自身の状態を考慮すればそれは選び難い。一般のハンターならまだ誤魔化して振り切ることも可能かもしれないが、少年に出逢ってしまえば終わりだ。さすがに現状では勝ち目がない。

 止むを得ず、男は北東へ向かう。確かな指標があったわけじゃない。南寄りはハンターが怖ろしく、北寄りは魔物の影が脳裏にチラついたのかもしれない。

 霞む視界の中、どこを目指しているのかも分からず森を走る。魔物の顎を押し留めていた影響か、右足の感覚が薄く、地面の起伏のせいもあってか妙にふわふわとした浮遊感に包まれていた。


「はぁ……はぁ……」


 ろくに速度も出ていないように思えるが、やけに息が上がる。こんな状態で”敵”が現れたとして、はたして対処できるのだろうか。いや、できなければ死ぬだけだ。その厳然たる事実があるだけ。

 いつのまに怪我していたのか、不意に左目に血が垂れてきた。走りながら拭うも、目測を誤った前方の木に肩がぶつかり、足がもつれて地面に転がった。


「ぬ……っ!」


 最低限の治癒を施したとはいえ、左肩には魔物の牙に抉られた傷が残っており、木にぶつかった衝撃で走った痛みに男は身を硬くして呻いた。

 逃げなければ、死ぬ。その思いだけで身を起こし、男はふたたび森を駆ける。そのとき、背後から男の横をすり抜けるようにして水の帯が飛んできた。

 振り返る男は視線の先に、ぼやけたセレネらしき人影を見つける。まだそれなりに距離があるようで、一息に追いつかれることはなさそうに思える。しかし彼我の状態を考えたとき、これまでの逃走と同じように考えられはしないだろう。

 かといって、もはや男にはただ走る以外に選択肢はないのだ。手元に残った武器はもはや切っ先の欠けた小剣が一本きりで、短剣を始めとした小道具の類いも何を残していたのか把握できていない。少なくとも、もっとも重用した短剣はすでに手元にない。

 だが男の絶望に反して、セレネはなかなか追いついてこなかった。氷付けにする魔術にしても頻度、精度、威力は魔物に出会う以前と比べるべくもない。元々手加減して戦っていたらしいが、消耗はあるらしかった。

 それでもやはり、これといって怪我を負っていないセレネと、決して少なくない量の血を失った男とで、男がセレネを振り切って逃げ切れる道理がなかった。少しずつ二人の距離は縮まり、追いかけてくる足音がすぐそばに感じられるようになる。

 幸いなことは、氷付けにする魔術がじきに止んだことか。またしても手加減かとは一瞬脳裏をよぎったが、魔物相手にもかなりの魔術を使用していたことを思えば、セレネにしても限界なのだろうと思い直した。

 やがて山に踏み入るにつれて少なくなっていた木々が途切れ、眼前が大きく開ける。

 朱の光に染め上げられた峻険な山々が遠く聳え立ち、気づけば足元も柔らかい地面ではなく、硬い岩石のように変化していた。

 この先へ進んでも、道はない。そのことは分かっていた。だがもうどうしようもない。すぐ後ろには死神が迫り、男はただその生命を刈り取る鎌から逃れるために進むしかないのだ。

 どれだけ呼吸をしても息苦しさが拭えない。足元がふらついてふと視線を落とせば、どこから出血しているのかも分からないが、地面には血の雫が散っていた。

 もはや振り返りもしないが、すぐ後ろにセレネが追って来ていることは疑いようがない。

 ふいにわからなくなる。視線の先には王国と帝国を分かつ巨大な渓谷が姿を現している。逃げ続けるためにはせめて北方向に歩を進める必要がある。最悪でも南方向に……。しかしそれも、どうなるというのか。

 わかりきっていることもあるのだ。それはもう自分の逃走速度がなめくじにも劣るのろまなものだということ。

 結局、どこへ向かおうと一寸先に死が待っている。これ以上、重い体を引き摺って歩くことに、はたして何の意味があるのか。

 鈍い思考を巡らす間にも惰性で動いていた足が、崖の淵へと男を導く。

 途切れた道を認めたとき、男は背後を振り返っていた。もしかしたら、そこにだれもいないことを期待したのかもしれなかった。

 深く広大な森が膨大な闇を蓄えようとする姿を背景に、茜色に輝く髪を靡かせて、セレネはそこにいた。

 それを目にしたとき、いないことを願ったはずの男の胸に不思議と安堵するかのような感触が広がった。それがいったい何なのか、男にはわからない。セレネが、鞘に収めていた長剣を引き抜いた。

 それを目にしたとき、セレネに応えるように、男も自然と欠けた小剣を引き抜いていた。すでに片手剣も残っていないため、右手で順手に柄を握る。

 これもまた、死を前にした無意味な行為ではないのか……。

 一歩、踏み出すセレネの足は、自分とは違ってしっかりとした足取りのように見える。そんなもの観察しなくたって、彼我の戦力差がどんなものかは考えるまでもない。じり、と砂利を鳴らしながら男は後ずさった。

 一見、無造作に剣を下げたセレネが歩み寄ってくるたび、一方で悲しいくらいみっともなく剣を構えた男は後退する。

 手にした小剣を、思わず投げ捨ててしまいたくなる。こんな頼りない武器で、いったい何ができると思っているのか。自分に怒りが湧き上がる。


「……何か、言いたいことはあるか」


 低く、それでいて涼やかな声が紡がれた。その声は何故か、男の胸に懐かしく響く。


「ない」


 でたらめな呼吸を繰り返し続けた代償か、声は掠れてうまく形にならなかった。だがそう複雑な言葉じゃない。問題なく伝わったはずだ。

 男の答えは、セレネの欲していたものではなかったのか、その表情がわずかに翳ったような気がした。もっとも、視界は万全でなく、斜陽に包まれたその顔に影が差していたのを見間違えただけにも思えた。

 最後に言い分があるのなら聞いてやろうということだったのだろうが、そんなもの、あるわけがない。

 もちろん、男がこうした生き方に辿り着くまでのいきさつはある。だが、それがどんなに悲惨なものでも、男が殺してきた者たちにとっては関係ないだろう。

 たとえばそう、捕食だ。自分が生きるために殺す。だれもが仕方のないことだと考えるだろう。自分が捕食者であるうちは。

 だが食われる側に回ったとき、仕方のないことだと理解していたとして、自ら首を差し出す者など居るだろうか。どこまでも、全力で逃がれようとするのではないか。

 つまり、死を強要するとき、その背後にある理由など、殺される側にとっては塵芥ほどの価値も持たないということ。

 だからこそ、自分は常に凶悪な殺人者であり、生命を奪う者に過ぎない。それだけが真実。理由を並べ立てる意味など何もない。たとえ悪辣と謗られようとも、この世に生まれ落ちたのだ。

 能面のような表情をして口を噤んだセレネを見つめながら、じり、と後ろに下がると、背後にもう道はなかった。背後に口を開いた渓谷は、ほとんど垂直の急傾斜になっており、その下は影になっていて確認できない。はるかな崖下に礫が吸い込まれていくのが見えた。対岸が見えてはいるのだが、たとえ魔術を行使したとしても容易に飛び越えることのできない距離がある。ろくに魔術も扱えない男には当然、渡る術はない。

 首を前方に戻せば、そこにはもう一息に踏み込める距離にセレネがいる。いよいよもって、進退窮まったと言えよう。

 セレネが音もなく長剣を構え、腰を落とす。

 潔く、斬られてやるのが美しい終わりだろうか。それともこの霞む視界で、震える腕で、いまにも崩れ落ちそうな足で、欠けた小剣を手に立ち向かうべきか。

 いくら状態が悪くとも、これだけ真正面から様子を窺える状況ならば、セレネの挙動くらいはわかる。意を決したのか、今まさに踏み込もうと全身に力が込められるのを看破した。

 瞬間、男は足を踏み外し、まるで吸い込まれるように空中に身を躍らせた。

 落ちる間際、さっきまで立っていた地面に遮られる瞬間のセレネは、驚愕に目を見開いていた。いや、あまりに一瞬のことだったから、自分に斬らせろという憤怒の表情だったかもしれない。

 セレネの姿が視界から消えたとき、男は大きく息を吸い込んで、長く小さく吐き出した。魔物に牙を突き立てられた傷がふたたび出血し、肩を伝い流れる。最低限の血止めだけで、治癒が不完全だったのに違いない。

 もうどれほど、肉体の痛みの訴えを無視し続けただろうか。だがどうあっても、いま全身の体重を支えている左腕を楽にしてやることはできない。

 今、なにより重要なのは気配を探ることだ。

 数秒後か、それとも数分後か。どちらにせよ、セレネは崖下を覗きに来るはずだ。そこを突く。

 そのために、今は左腕一本で垂直の岸壁に掴まって耐えなければならないのだ。

 掴まった岩壁と左手の間に噛んだ砂で、指先が少しずつ、ほんの少しずつ、だが確実に外れていく。

 もし万全の状態なら、掴まった岩壁の状態次第でもあるが、この状況からでも左腕一本で全身を持ち上げ、掴み直すことができただろう。だが、力を込めようとすればするほど、左肩を伝う血の量が増えるような現状では、そんな真似は到底不可能だった。

 だからといって、両手で掴まるわけにはいかない。セレネは絶対に様子を見に来るはずだ。そのとき攻撃を加えるためには、たとえ切っ先が欠けていようと武器が必要なのだ。

 とにかく喧しい心臓が憎らしかった。心臓の鼓動で岩壁が崩壊してしまうのではないかと思うほど耳に煩く、いっそのこと止まってしまえばいいのにと思う。


(まだなのか)


 実際の経過時間と体感時間がずれる経験はいくどもある。だがおそらく、これまでの経験の中で今が間違いなく、もっとも時の経過が遅いと感じていた。

 じりじりと指先が滑る。このままではたとえセレネが姿を現してうまく攻撃できたとしても、崖の上に戻れなくなるかもしれない。様子を見に来るのがこれほど遅いのなら、両手で掴まってなんとか落ち着ける場所を探すべきだったかもしれない。


(違う)


 焦っているのだ。実際はまだ、それほど時間は経っていない。移動などしていれば様子を見にきたセレネに見咎められて、魔術で始末されるのがオチだ。身を潜ませられそうな目ぼしい場所が見つかっているならともかく、そんなものは目に付く範囲に存在しないのだから。


「…………っ」


 これまでか。

 そう思ったとき、崖上を走り寄ってくる気配を感知した。

 走って、何故、そんな疑問に答えを見出すよりも早く、斜陽によって長く伸びた影が男の視界に届いた。間違いなく、崖上にだれかが近づいている。

 迷っている暇はなかった。すでに限界を迎えつつあった左腕に渾身の力を込めて体を持ち上げ、小剣を握った右腕を伸ばし、突く。避けられるようなら、薙いでやる。


「ラッ……」


 まさに会心の一撃だった。これほどに好機を捉えた瞬間がかつてあっただろうか。まごうかたなき命懸けの一撃。

 だが結局、男の剣が血の花を咲かせることはなかった。

 受けられたのでも、避けられたのでもない。あとほんのわずかに突き出すだけで、薄い皮膚を裂き、肉に食い込んでいたはずの剣を、男が手放したのだ。

 なぜそんなことをしたのかと言えば、見てしまったからだ。

 いつか見た、斜陽に翻ったその髪を。色素が薄く、茜色に染められている長い髪が、風に踊るのを。

 本来であれば、攻撃した勢いそのままに崖上に出るはずが、肝心の身を置く場所が塞がっていた。岩壁を掴んでいた左手も離れ、体は完全に触れるもののない宙に飛び出す。

 それでも思った。


(何かないのか)


 だが、何もない。わずかな魔力さえとうに尽きており、自身を癒すことはもとより、落下の軌道を操作することさえ叶わない。

 男にできるのは、ただ落着して死するまでの間、せいぜい思考を巡らすことと、遠ざかっていく茜空を見上げることぐらいか。

 自分は死ぬ。それを理解した。


(下らない人生だった)


 回顧を始めた瞬間、男は全身から力が抜けていくのを感じていた。

 諦めないということは、呪いに近い。いつまでも、己の内にそれを抱えて、苦しみ続けることだったのだ。

 これまで、どんなに望んでも手に入らなかったものも、手が届く可能性が完全に潰えた今、路傍の石ころほどに関心を惹かれないものへと変容した。

 それは男にとって、きっと始めての自由だった。かつて生家を離れ、たった一人で生きていくことを決意したときさえ、様々なものに男は縛られていた。

 そうした妄執すら、ただ死に向かう今になってようやく、どうでもいいと思えた。

 諦めることはずっと、苦しいことだと思ってきた。負けを認めて、己に屈することなのだと。だからいつも誤魔化してきた。現実的な判断をするのだと嘯き、いつかはきっと、と感情を宥めすかしてきたのだ。

 だがそれも、もはやどうでもいい。もう惨めに奥歯を噛み締めることもない。

 ブレナスも、ディーゼラルドも、エアデールも、王国の騎士どもも、妙な猫耳少女も厚着の男もこれまで出逢った有象無象どもも、少年も、そしてセレネも。もはや男の胸中に小波さえ立てることはない。

 薄っすらと闇を孕みだした空に、ちらほらと星の姿を認める。暗闇の中でしか見つけられないなんて、まるで夜中に人間の領域を跋扈する害虫のようだ。人の目が利く明るい内から姿を現してしまえば、潰されるのは道理。己らに害を成すものを排除する。もっともらしく飾り立てる必要などない、生命の現実。

 男は……。

 俺は、この世界に何も残しはしなかった。わずかな軌跡は一夜の砂塵にかき消され、血肉は大地に還るだろう。だがきっと、この大地に生きる者はほとんどがそうなのだ。ただの凡庸な人間であることが、今だけは、素直に受け入れられそうな気がしていた。

 霞む視界に、もう星の姿も映らない。

お読みくださりありがとうございましたm(_ _)m

今回更新分の投稿は今話までとなります。次回の更新予定は未定です。


いくら自己満足といっても、人様に喜ばれない物を公開してもしょうがないのではないかなぁと思ったり……。まぁ、あれこれ言う前に、楽しんでいただけるような作品を書けるようになれという話なんでしょうが。

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