053,死出の森 -Lady- scene2
追われているのは男のはずが、斬り合いとなるとその様相は逆転していた。セレネが男の武器よりもわずかに間合いの広い長剣一本を片手に両手に自在に操るのに対し、男は右手の片手剣に左手は逆手に持った小剣の二刀でもって間合いを詰めようと追い縋る。自然、セレネは足を使って自身に優位な間合いを保っての戦いとなったのだ。
男にも短剣の投擲という、セレネの長剣の間合いの外から攻撃できる手段は残されていたが、これまでの戦闘においてすでに7本を消費した短剣の残り本数はすでに3本となっており、軽々に放れるものでもなくなっていた。
(近づけないか)
ならばと飛び込むように見せつつ駆け出そうとすれば、機先を制するように踏み込んで斬りつけてくるため逃走もできない。
さらにはそれを利用して誘い込もうとするも、反撃も見切られて再び距離を置かれる。
状況を利用しようとじりじりと木々に寄ろうと誘導すれば、見透かしたように回り込んでくる。いや、事実見透かされているのだ。
戦闘経験の少なさが垣間見えた少女や、ハンターとしては駆け出しだろう少年などとは明らかに違う。セレネの動きは、様々な状況に対応してきた熟練の戦士の経験が窺えるものだった。
(だからといって!)
男は果敢に斬りかかった。が、やはり間合いには入れない。いかに翻弄しようと疲労した体に鞭を打っても、セレネもまた速度を上げて逃げていくのだ。かといって無理に突っ込めば一刀の許に切り伏せられるのは目に見えている。
(これならどうだ!)
セレネの追い払うような一撃を片手剣で往なした直後、胸を張るように体の前面を開いた男は、逆手に持った小剣の切っ先をセレネに向けていた。そのまま投げ槍のごとく振り被って投擲する……と見せかけて不意に地面を蹴り上げ、土塊をセレネの顔目掛けて引っ掛けてやる。が、事前動作も見せないように気を配っていたのにも関わらず、セレネはしっかり回避していた。明らかに小剣を見ていたはずなのに、下からの一手にも即応する。その視野の広さが憎らしかった。
せめて顔を覆ってくれれば……ようやく稼いだわずかな隙に、セレネを横目に見ながら男は大木の陰へと走った。足元の地面を魔術で隆起させながら足を突っ張って進行方向を切り返しつつ、巨木の幹に小剣を突き立てる。
隆起させた地面がセレネの位置から男が飛び出したように見える瞬間を狙い、その反対側……もともと木陰に入ってきた側から短剣を投擲する。距離的にもそれほど離れていないため、ほとんど回転を与えない直線的な速い一投だ。
短剣の行く末は確認しなかった。残り三本の内の貴重な一振りだが、見守っている余裕はない。だが投じる一瞬確認したセレネの様子からして、陽動は失敗し、短剣は難なく処理されたことだろう。
手早く小剣を引き抜いて大木を陰にしたまま駆け出す。と、体の左右から寒気が走り、男は身を硬くしながら振り向いた。瞬間、聳え立つ大木の左右から氷柱が無数に伸び上がり、男の横を見る間に通り過ぎていく。その幅は徐々に狭まり、少し行った先で合流して一枚の氷壁となった。まるで男と木のあいだに道が引かれたような光景だが、現実には閉じこめられた状態である。
氷壁を見上げ、壁を飛び越えるかそれともさらに走って逃げるか……瞬時に思考を巡らすが、決断をするその前に、木の根元にU字に切れ目が走り、土塊が舞い上がった。おそらく何らかの魔術も用いてセレネが斬ったのだろう。なにせ木の幹はセレネの持つ長剣以上の直径がある。
直後、巨木が男に向かって近づいたような錯覚を覚える。実際は、切断面に沿ってズレ落ちたのに違いない。頭上でばさばさと枝葉がぶつかり、擦れ合う音とともに、巨木がゆっくりと男に向かって倒れ込んでくる。
(冗談じゃない!)
憤りを乗せて氷壁に剣を叩きつけるも、表面が削れるのみで砕くには至らない。
男は片手剣のみを鞘に納め、代わりに短剣を手にして左右に視線を走らせる。セレネの生み出す氷は厚着の男のそれと違って透明度が低く、白く濁っている部分が多い。とはいえ基本は透明なため、分厚い氷の向こう側もぼんやりとは見ることができる。現在、壁の向こう側には森の景色があるのみで、そこにセレネ自身の姿は見当たらなかった。
確認の後、男は氷壁の中央付近からやや片側に寄った。大木の幹を挟んで走っている氷壁ゆえに、多少は空間がある。腰を落として溜めを作り、垂直に飛ぶ。つま先が自身の身長を越えるほどに全力で飛び上がってもなお、視界には氷壁しか映らない。
上昇する勢いの衰えきらない内に氷壁を蹴り、ほとんど水平に近い角度だがもう少しだけ上昇する。氷壁に張り付くようにして短剣を突き立てた。
氷壁が伸び上がっていく刹那、それは氷柱の集合体かのように見えた。地上から目視確認で精査している余裕はなかったが、切れ目に近づいたとき、氷壁は一枚の壁ではなくところどころに柱同士の隙間だったであろう凹みや穴があった。
しかし無邪気に喜んでいる余裕などあるはずもない。頭上からは相変わらずバキバキと枝が折れるけたたましい音が降り続けているのだ。
逆手に小剣を握った左腕を思い切り伸ばし、上方の穴に差し入れる。ぐい、と何度か引っ張って滑らないことを確認し、短剣を引き抜きにかかるが、深く刺さった短剣は刀身ごと凍りついてしまったかのように動かない。残り二本しかない内の貴重な一本だったが、視界が影に飲まれたのを契機に諦めて最後の一本を手にした。
短剣を握った腕を伸ばし、さらに上方の氷に突き立てる。
「ん、ぬううう……!」
一度は左腕に移った負担が戻ってきた右腕がぎしぎしと軋む。これが連戦に次ぐ連戦の後でなければ、自身の体重を支えるくらいはわけないことだっただろう。しかし都合半日近くは戦った後の、セレネの剛剣を受け続けてのこの状況なのだ。思わず、全身の力を抜いてしまいたくなる。だが、それをしてしまえば待っているのは巨木に押し潰される未来だ。多少常人離れした運動能力があろうと、正面切って受け止められるような規模のものではない。
歯を食いしばって体を持ち上げ、さらに上へと小剣を差し入れる。負担が右腕から左腕に移動したとき、見上げる頭上に空はすでになかった。氷の切れ目は見えている。しかしこのまま登っていくのでは間に合いそうもなかった。
男は氷壁に残した短剣に足をかけ、氷壁も押すようにして反対側へと飛んだ。斜め上への軌道。ぎりぎりに見えた氷の切れ目。その針の山に小剣をひっかけて勢いのままに氷壁の外へと飛び出した。
男が氷壁を抜け出した直後、その背後で巨木がバキバキと氷壁を押し潰しながら倒れていく。
男は宙に身を投げ出しながら、右手を剣の柄に伸ばしていた。左手の小剣は体の前面で身に添わせる。剣を引き抜きながら上体を捻ると、枝葉の向こうにわずかばかりの空を見た。瞬間、男の瞳に影が差す。
巨木の倒れるけたたましい地響きの音に、金属同士のぶつかり合う高い音が混じる。
「ごはっ!」
直後、地に叩き付けられた男は血反吐を吐きながら、宙に舞う折れた剣の破片と、それ以上に閃く銀色の髪を視界に収めていた。一度は振り抜いた長剣をふたたび構え直すその影の向こうに、空は望めない。
脱出の瞬間を狙われるだろうと予期してはいた。通行を妨げる氷壁がある以上、どちら側に出ても狙えるような位置取りが上にしかないことも分かってはいた。だが脱出自体に余裕がなく、対策を講じることなどできなかったのだ。
男にできたことと言えば、剣を手にして防御することがせいぜい。右手で抜きざまに斬りかけた剣は砕け、刀身の腹を当てて防御に回していた小剣にも嫌な感触が走っていた。
「ぐっ……ぬ……!」
もし死神の姿が目に見えるとしたら、人は己に向かってくる神を前にどのような行動を取るだろうか。男の選択はこれまで通り、抗うことだった。長剣の形をした鎌を携えた銀髪の死神が落ちてくるまでのわずかな時間に、満身創痍の体に動けと檄を飛ばす。
まどろみの中、肉体だけが動かないときのようなもどかしさが、男の焦燥を煽る。
(動け……!)
その一念が通じたのは、まさに死神の鎌が振り下ろされんとする直前のことだった。男は飛び起きるかのごとき勢いでもって地面を転がり、死地を脱した。
セレネを振り向いた状態で片膝をつき、悲鳴を上げる体にいまだけはと無視を決め込んで男は痺れの残る右腕で腰の片手剣を引き抜いた。左手に残る剣先の欠けた小剣を除けば、最後の一本となったまともな武器である。
すぐに追撃が来ると構えていた男の予想に反して、セレネはすぐにはその場を動かなかった。地面に剣傷を刻んだ長剣の先を地につけ、自身も片膝をついてその場に蹲っている。
その姿を目にした男が、これは……、と腰を浮かせかけた直後、セレネは音もなくすっと立ち上がり、剣を握っていない手で前髪をかき上げて空を見上げた。
ほんの一瞬の忘我したような横顔。巨木が倒れて舞い上がった塵や埃が木漏れ日を反射してきらきらと輝くなかで、長剣を下げたその姿は、いつか目にした一枚の絵画のようだった。
うつくしいな。
などと、もし男に余裕があったのならば、そんな言葉が無意識に口をついて出たのかもしれない。しかし今の男には、その一言を呟くだけの余力も、残されてはいなかった。
彼方へ向けられていたセレネの瞳が、跪いたままの男に向けられる。時が止まったような絵画の世界は一瞬にして消え去り、後に残されるのは戦場のごとき物々しさだけだ。
それにしてもセレネの様子は不自然に思えた。それがいったいどうしてなのか……考えようとした男の思考は肉体からの報せによって中断させられた。感じた痛みに視線を落とせば、男の胸の防具は裂けており、その下に走った直線の傷跡からはだらだらと血が流れ出ていた。どうやら、セレネの一撃を凌ぎきれていなかったのだと知る。
血を失えば急速に体力は失われていく。このままでは逃走するにも支障が出るだろう。最低限の治癒術くらい施しておきたいところだが、はたしてその隙があるかどうか。
じり、とセレネの足が地面に擦れた。それを察知した男も疲労を押して身構える。と同時に、
「グゥオオオォオオォォオ!」
という、いかにも獰猛そうな咆哮が付近に響き渡った。




