052,死出の森 -Lady- scene1
(なんだ!)
ほとんどつんのめったような格好で、男は地面に両手をついた。しかし立ち止まっていられる状況ではない。すぐさま四足獣もかくやという姿勢のまま、がむしゃらに駆け出す。ほどなく前方に魔術が放たれるが、低い姿勢を保って抜け出した。
さらに山に向かって走る。進路として選び得るのは大まかに二方向。山に向かう北か、しばらくは森の続く西だ。東には帝国の領土があるわけだが、それよりも手前には、王国と帝国を分かつ深い渓谷があるはずで、魔物と併せて人間が道を開くのを拒絶している。
南はと言えば、そちらには当然ほかのハンターたちが森に入っているはずで、セレネを振り切れない状態で遭遇すれば面倒なことになるのが目に見えている。
ゆえに向かいたいのは西。いまはまだ、一帯の魔物を南へ誘導しているという、件の少女の言葉が真実だったのか、北に向かいつつも魔物と遭遇してはいない。だが、この先、山に入っていくにつれ、いつ厄介な魔物に取り囲まれないとも限らない。
しかしそんなことはセレネも承知の上なのだろう。距離が迫ったために物理的に追いつくことを重視したのか頻度は減ったが、西方向へ折れるのを巧みに妨害される。
木々の位置関係を見て、魔術の届かない時機を見て進路を変更しようとするも、それを読んでセレネ自身も位置を変えてくる。
結果、止むを得ず男はどんどん北へ、東へと追い詰められていた。
(せめて足が万全であれば)
息が上がり、足が重い。
少女との戦闘での疲労は、その後の意図しない休憩時間で概ね回復できたと思っていたが、どうもそうでもなかったらしい。あるいは、少年との戦闘――とも呼べないと男は思っているが――が影響しているのだろうか。感情的になるあまり、自身の状態を把握しきれていなかったのかと、胸の内で後悔が首をもたげる。
原因の追究はどうあれ、疲弊した体でどうにか逃げているのが現状だ。これをどうにかしなければ、先はない。
魔術から距離を離しきれず、駆け込む先に氷が伸びてくるのを視界に認める。
(貫かれる!)
そう考え掲げた腕に、予想された痛みは訪れない。不可解さに思考が止まった一瞬に、ぐいと力強く腕が引っ張られた。
「くっ!」
バキバキと音を立てて地面に転がる。見れば、左腕と左足に氷が纏わりついている。しかし、それがどういうことなのか、考えている余裕はなかった。
忙しなく膝立ちにまで姿勢を立て直し、引き抜いた勢いそのままに剣を振り上げると、そこに木漏れ日を受けて閃いた白刃が落ちてきて火花が散る。
命を奪うために研がれた鋼を間に挟んで、男は硬い表情のセレネと視線を交し合った。
「なぜだ……」
それは戦闘の最中の問いかけにしては小さすぎる声だったが、不思議と男の耳にはっきりと届いた。
直後、男の剣が振り切られ、セレネはやや後方へと跳んだ。見た目には男が力で追い払った格好だが、セレネが剣を引いたというのが実情。
長剣を手に佇む姿は凜として、いままさにその場に降り立ったかのように、これまでの追走を感じさせないものだった。木々の合間を風が渡り、木の葉のさざめきとともにセレネの銀色の髪が揺れた。
ラット。
と、やや薄めの唇が言葉を紡いだ。
(知られていたか。まぁそうだろうな)
でなければ、こうまで執拗に追ってくるものだろうか。
ラットとは、男が仮面を着けた状態でセレネの前でハンターとして名乗っていた名前だ。セレネを前に仮面を外したことはなかった。そしていまは、少女との戦闘で仮面を落として素顔の状態。
素顔の男をラットと呼ぶということそれ自体は、男がソルという少年を含めた商隊の馬車を襲った盗賊の一人だったことがセレネに露見したという、決定的な判断材料とはならない。たとえ顔が分からなくとも、セレネくらいの実力者であれば、立ち居振る舞いなり魔力の素養なりで、素顔の男を仮面のラットに結びつけることは可能だろうからだ。男にしてみれば、そんなことまで覚えているものか? と思わなくもないが、暴走する少年を前に、一度は臨戦態勢に入ったのを見られたこともあった。
だが、目の前に立つセレネの漂わせる空気は、とてもただの顔見知りにたまたま遭遇したという人間のそれではない。彼女の姿に、波紋一つない静かな湖面の下に、獲物を待ち伏せる化け物が潜んでいるかのような不気味さが漂う。
(なぜ、か……)
理由はわからないが、ひとまず攻撃は止んでいる。問答無用で斬り捨てるに至らない何かがあるのだろう。それがいったい何なのか。返答を誤れば破滅するのか。それとも返答如何に関わらず、破滅は待ち受けているのか。考えないわけにはいかなかった。
「……なぜ、とは?」
セレネが好ましいと思うであろう答えがわからない。とにかく、会話ができるのであれば、最低限、時間を稼いで足を、体を休ませたかった。
「っ!」
男の言葉を耳にした途端、セレネは奥歯を噛み締めて何か身の内から湧き上がる痛みに耐えるかのように全身に力を込めた。しかしそれは一瞬のことで、ふたたび男を射抜いた視線は明らかに怨敵を見る鋭いものだった。
「姑息だな。盗賊」
そうした意味の涼やかな音を残し、セレネは踏み込んで長剣を薙いだ。
男がわずかでも油断していれば、回避が遅れて首が飛んで……いや、落ちていたであろう、美しさすら覚える一撃。
(姑息、ね)
はたしてそれが、かつてラビを連れて歩く原因となった際のことを指しているのか、会話で時間稼ぎをしようとしたことを指しているのか。それは定かでない。その代わりと言っていいかどうか……男とセレネが敵対したことは明らかだった。
男が転がるように後ろに距離を取り、再度向かい合う。
「お前の背を追いながら、考えたよ」
その声に、その瞳に、もはや殺し合いが避けられないものであると覚悟する。
「お前は私が斬るべき、敵だ」
(速い!)
再度の踏み込みからの横薙ぎ。正面から一挙手一投足をうかがっていた男でさえ、瞬きひとつで見逃してしまいそうなそれを、後ろに跳んで回避する。
触れれば傷つく刃物をただ振り回すという動作ではない。もっとも勢いの乗る位置に、もっとも切れる角度で、その場にあるものを断絶せしむる一撃だ。もし男が疲労にかまけて防御していれば、受けた剣ごと切断されていたことだろう。
しかしその強力無比の一撃は、その強力さ故に制動に少しばかり難があるのではないか。
男は後ろに跳びながら、とっさに懐の短剣に手を伸ばしていた。男の持つ剣とセレネの扱う長剣では、セレネの間合いに若干の利がある。そこが付け目。己の間合いから外に逃げる男に反撃の機会がないと、思い込んでいるのではないか。
思うよりもさらに鋭いセレネの一閃に体勢を崩しながらも、男も手にした短剣を投擲した。それは決して会心の一投とはいかなかったが、それでもうまくすればセレネの顔面に突き立つはずのもの。
しかしそれは、セレネの頭の動きにつられた銀色の髪を数本宙に躍らせて、森の彼方へと虚しく飛び去っていった。
(よく見てやがる)
無理な後退から地面を転がった男は、身を起こしながらセレネの動向を見据えた。ふと腹部に熱さを感じて手を伸ばすと、ぬるりとした血の感触と、衣服とともに薄く裂かれた腹部の地肌が指先に触れた。
だが、その程度の損傷を気にしている余裕はない。危機感に急かされるままに剣を掲げ、セレネの追撃を受け止める。
重い。
扱っている武器の違いもあるだろうが、威力を乗せるのがうまいのだろう。一撃一撃が肉体派の屈強なハンターのごとく威力がある。攻撃を受ける剣が押され、流される。
(ならば……!)
袈裟の斬撃に、受けると見せかけた剣を流しつつ至近に飛び込む。セレネが対応するその一瞬に、小剣を逆手のまま抜き放って斬り上げた。
が、手応えは無し。セレネの体は風に遊ぶ木の葉のように男の剣先からひらりと逃げていった。
振り返りざまに順手の剣を振り下ろすも、そこにはすでにセレネの姿はない。
(何が銀級ソロだ……)
戦力詐称も甚だしい。暴走した少年との戦い振りからもある程度は予見されていたことだが、セレネという女の戦闘力はあきらかに銀級ハンターのそれを超えている。具体的には白金級にも届くのではないかと思えるほど。しかしその領域はもはや、男には測ることのできない次元のものだ。なんとなくの憶測でしか語ることはできない。
(だが……)
そう易々と負けを認める気はない。強さの指標によく用いられるハンターの等級とて、所詮は世に数多ある物差しのひとつでしかない。状況や相手によって、得手不得手などは絶対にあるはずだ。
そうした意味では、一対一というこの状況は、男にとっては好条件と言える。……いや、本当はむしろ一対一でなければ悪条件というのが正しいのだが、有利であると思わなければ、二刀で持って斬りかかり、たやすく往なされて近づくことさえままならない現状を、投げ出したくもなるというものだ。
足運び、体捌き、そして姿勢。セレネのそれがやけに美しく見えるのは、自身にそれを崩すほどの力が存在しないためなのか。
(呼吸すら乱さないか)
追いかけてきた直後は、多少なりとも肩で息をしていたような気がしたが、戦闘を経てそれが落ち着くというのはいったいどういうことなのか。それほどに明確に、余裕があるということか。
ぎり、と男は奥歯を噛み締めた。血気に逸る己を律し、逃げ延びねばならない。
剣を合わせてみて改めて思う。この女には勝てない、と。
それは冷静な判断か。臆病風に吹かれただけではないのか、と胸の内でもう一人の自分が喚きたてるのを感じるが、死んでは元も子もない。これまでにも何度となく選択してきた決断だ。
つまりはブレナスやディーゼラルド、王都の騎士に対するのと同じこと。いまはまずこの窮地を脱し、そしていつか、復讐を果たせばいいのだ。
……そう思わなければ、やっていられない。




