047,死出の森 -Girl- scene4
凍りついた森は、少し前までの激しく燃え盛る炎に飲み込まれていたときとは打って変わり、まるで時が止まったかのような静寂に包まれていた。
そんな静寂の世界を、厚着した男性だけが、襟巻きの中から白い息を宙に溶かしながら少女に向かって歩いていく。
「まったく……」
厚着の男性は落とした何かを拾うために座り込んだ少女の傍らに立ち、少女を見下ろした。顔の上半分しか見えないことと、透明度こそ高いが氷越しであるため断言はできないが、男性の目は殺しても殺しても湧いて出てくる害虫を見るような酷薄さを湛えていた。
男性は屈み、少女が呻きながら手にしていた筒状の何かを奪い取った。そして少女の腕をぐいっと引っ張ったかと思うと、乱雑に袖を捲り上げた。
(なんだ……?)
手にした何かは入れ物だったようで、男性は筒の先端を外し、中からさらに細長い筒状の何かを取り出した。
「はっはっはっはっ……」
「動くな」
苦しげに喘ぐ少女の腕を押さえつけた厚着の男性は、手にした筒状の何かを少女の腕、より正確には肘の内側のあたりに押し付けた。
「ふっ! あ、うう……」
「ふん……発作には気をつけろといつも言われているだろう」
立ち上がった男性は筒状の何かを再び入れ物の中に戻すと、少女の眼前に無造作に手放した。
「うるっ……せえ! ふぅ……。んなこと……はぁ、わあってんだよ!」
呼吸も整わない内から、ぜえはあ言いながらも少女が喚く。
「分かっていないからこんな状況になっているんだろう。お前には自覚が足りない」
少女が喚こうとも、男性の表情は辺りの凍りついた森のごとく冷めたままだ。
「はぁ……。いい加減に、だまれよクソ犬……!」
「いい加減にするのはお前の方だリア。そんな風だから、一介のハンターなぞに遅れを取るんだ」
「んだと!」
ついに少女が怒気も露に立ち上がった。男の位置からでは横顔しか見えないが、ずいぶんと顔色はましになったようだ。
「いま殺すとこだったんだこんなゴミクズ! お前が邪魔しなけりゃ」
「俺が邪魔しなければ、発作を起こしたお前が殺されていただろうな」
「!」
少女の全身に濃い紫色の靄がまとわりつく。その気配は、これまでの戦闘中でもっとも濃密なものだった。しかし男性はそれを目の前にしても顔色ひとつ変えようとはしない。
「……リア。お前があの方の恩寵を無下にするというのなら、路地裏の石畳が恋しくなるほど氷付けにしてやろう」
厚着の男の全身にも、少女と同じような可視化された魔素の靄が漂いだす。
(なんなんだこいつらは……)
両者が共に、規格外な力の持ち主であることは疑いようがない。そして主に厚着をした男の発言から、何者かに仕える存在であるらしいと知れる。少女が言っていた、依頼主というのも男性の言う”あの方”と同一人物だろう。表現の差は、そのまま両者の忠誠心の差にちがいない。
これまでの二人のやり取りを、男とてただ唖然として聞いていたわけではない。少女の炎に焼かれた手を優先的に治癒しながら、生殺与奪を握られたこの状況から、いかに生き延びるか。そしてあわよくば……。それをずっと考えていた。
しかし少女だけでも絶望的なものを、おそらくは少女と同等かそれ以上の力を持ち、かつ少女よりも精神面、頭脳面で厄介そうな男が現れたのだ。しかも成り行きを見守らされているあいだに、少女までが復調してしまった。いや、行動を見ていた限り、男によって復調させられてしまったというのが正しいのだろうか。
とにかく、いまはまだ動くことはできない。厚着の男は少女に対しながら、男にも注意を向けている。下手に動けば、まず間違いなく死出の旅路へと赴くことになるだろう。
身を硬くして成り行きを見守る男の目の前で、両者は濃密な魔力の気配を漂わせながら睨み合っていた。少女の腰から臀部のあいだ辺りについている尻尾らしきものはピンと逆立って膨らんでいる。
男の眼前の氷がじわじわと溶け出して氷壁の向こうにいる二人の姿が滲み出したとき、少女の体にまとわりついていた魔素が静かに霧散していった。
(ガキが引いたか)
そう思って見ている男の視線の先で、少女の体がゆらりと傾いだ。
倒れる。そう思われた瞬間、厚着の男性が少女を抱きとめた。
「まったく。手のかかる」
心なしか険しい表情をした厚着の男はそう言うと、少女の体を抱き上げて氷壁越しに男を振り返った。
視線が交わる。厚着の男の目はあくまでも冷め切っており、男に対して何らの関心も感慨も抱いてはいないようだった。
「……」
厚着の男はふいと視線を逸らすと、そのまま何事もなかったかのようにゆっくりと山の方へと歩き去った。
少女を抱えた後ろ姿が見えなくなってようやく、男は体を弛緩させて地面に座り込んだ。
凍りついた森からは冷気が流れており、一帯は涼やかな空気が地面を這って流れている。だというのに、男の全身には汗が噴き出し、思わず首元の布を引っ張って熱気を逃がそうとするほどだった。
(死んだ)
男は仰向けにひんやりとした地面に倒れこむ。
素直な感想だった。実際には命は助かっているのだが、そう思わざるを得なかった。
実に馬鹿げたことに、その感想の裏には湿地帯の地面に染み渡っている水のように悔しさが滲んでいるのだが、それはもうどうでもいい。どうでもいいと思わなければ、本当に死ぬことになってしまう。
自分はもっと器用だったはずだ。命を落としかけるような事態も、悔しさで胸が溶け落ちてしまいそうになるほど体が熱くなったことも、一度や二度ではない。その度に、結局はどうしようもないのだと己を誤魔化してきた。
いつかは。いずれは。そう嘯いてやり過ごしてきた。
(歳か……)
どこで耳にしたのだったか。どこでも耳にすることだから覚えていないのかもしれないが、歳をとるにつれて人間は段々わがままになるのだという。
さすがに男もそれが老人と呼ばれる年齢における話であることは承知しているし、自身がまだその域に達していないこともわかっている。
原因がわからないことは不安だ。だから安易な答えに飛びついてしまいそうになる。
だが、たったいま男が直面している疑問はそんなに面倒くさい話ではない。たんに負けず嫌いなだけだ。それが生来の気質といっていいものなのか、はたまた成長過程で培われたものなのかは定かでないが、男は自身がそうした精神的な問題を抱えていることは承知していた。
そう、問題なのだ。
悔しさをバネにして成長できるならいいだろう。しかし悔しさに囚われて自ら命を捨てるような真似をするようではどうしようもない。
(まぁ、そんなことをあれこれと考えてまで生きる価値があるのかどうかは疑問なわけだが)
「ふふ……」
感傷か自嘲か。ふいにこぼれた笑い声が、燃やされ、氷付けにされて無残な有様を晒している森の中に吸い込まれて消えた。
「だれかいるかー?」
だれかが遠くから呼びかける声。一瞬、笑い声を聞きつけられたのかと男は緊張に身を竦ませた。しかしわずかな笑い声を聞きつけたにしてはいくらなんでも距離が遠すぎる。
呼びかける声の主は男……いや、男というには少々高目の声だっただろうか。まだ少年か青年、その辺りの表現が該当しそうな、きっと場末の酒場などには似合わないであろう爽やかでいけ好かない声だ。
「だれもいないのか?」
再度、呼びかけの声が響く。男自身、場末の酒場になど滅多に足を運ばなくなった身ではあるが、だからといって声の主と自身とで反りが合うとは思えない。
(どっかいけよ。こっちは疲れてるってのに……)
男はそっと身を起こした。このままここでじっとしていてもいずれは見つかってしまう。面倒ではあるが、接触を避けるのであれば自ら動くしかない。
声は一面が凍りついた森の向こう側から聞こえてきている。十中八九、森の魔物を討伐しに来ているハンターだろう。正体不明の猫耳少女が好き勝手に暴れてくれたおかげで、きっと遠くからでも異常を感知できたに違いない。それこそ、炎上する森の上げる黒煙は狼煙のごとく見えたことだろう。
ハンターの判断としては強大な魔物が暴れているようだ、と推測するのが自然だろうか。少女の魔術は威力や精度よりも速度重視でばら撒かれたものだったが、それでもかなり強力なものだったことは間違いない。それに何より、森の中で戦闘している人間がいるとすればそれはハンターと考えるのが自然な状況で、ハンターが森に火を放つとは考えられないだろう。魔物であっても普段なら自分の生息環境を著しく破壊するような行動はしないものだが、いまの森には魔物が異常発生しているという情報もある。
ゆえにおそらく、声の主は助太刀に来たのだ。強力な魔物と交戦中であろうハンターを助けに来て、少し前まで火の手が上がっていたはずの森が一面凍り付き、静寂に包まれているという状況にさぞ戸惑っていることだろう。
きっと情に厚い、困っている人の依頼を利益度外視で引き受けてしまうような親切心に溢れたハンターに違いない。
相手がどんな人間であれ、男には経緯を説明しようという気などさらさらない。
相手も警戒して状況を探っているだろうから、下手に動けば気取られてしまう可能性はある。姿勢を低く保ち、ひとまず近くの木陰に身を潜ませた。
二度の呼びかけからおおよその位置は特定できているが、相手も少しずつ移動しているはず。あらためて目で見て位置を確認しておくことにする。それが済めば、後は向こうの視界に入らないように木陰や起伏を渡ってこの場を離脱するのみだ。
慎重に相手の位置を探る。相手もハンターだけあって警戒して音を出さないようにしているが、溶け出した氷で地面が濡れている箇所があったのだろう。かすかな水音が聞こえた。
呼びかけで確認したのとそう変わらない位置。男は静かに木陰から顔を出し、ハンターと思しき者の姿を確認した。
(あ?)
凍りついた森を不安そうな表情を浮かべながら歩いているその姿は、男に見覚えのあるものだった。装備も様変わりし、雰囲気も異なって見えるが、見間違えるはずはない。
男の脳裏に、小さな火花が散った。




