046,死出の森 -Girl- scene3
やはり自分は判断を誤ったのだ。逃走のためのかく乱に対する反応から、少女はそれほど戦い慣れてはいないと考えた。この考え自体はおそらく間違いではない。少女の戦い振りから、巧みな戦術などはまったく見られない。もう少し戦闘経験があれば、炎の塊など撃ち出していないで、もっと広範囲を焼き払う発想も選択肢として自然に出てくることだろう。そうすれば男に抗う術はない。あれだけの炎を扱える少女に、それができないわけはない。身体能力の高さから、森が燃えたとしても逃げ出すのは容易なはずだ。
全身に動けなくなるほどの異常はない。しかし男は木の根元に蹲ったままで立ち上がれなかった。
「ははっ! ようやく観念したかクズが! ゴミはゴミらしくさっさと燃やされてりゃいんだよ!」
やや離れた位置に着地した少女はやけに興奮した様子で男を睨みつける。男を追い掛け回しながら魔術を多用したことで息が上がったのか、少し苦しそうにも見える。
男はしゃがみ込んだまま。仮面の奥からそれを見ていた。
「はーっ、はーっ……死ねクソガキ!」
少女の手から、少女自身がすっぽり収まってしまいそうなほどの炎の塊が、いまだ木の根元に蹲ったままの男に向かって放たれた。
なぜか、迫りくる炎の表面、その揺らめきが男の目に留まった。
火は男にとって、いや多くのハンターにとって、身近な安らぎの象徴でもある。依頼で町の外に出たとき、休息のためにと野営をし、ただ燃え盛る焚き火を見つめてぼうっと過ごしたことのある者は多いはずだ。
だからだろうか。轟々と燃え盛りながら迫ってくる炎を前に、男はなぜか心中が凪いでいくような感覚を覚えていた。
しかし安らぎの象徴とも言える焚き火とはいえ、直接手を触れてしまえばどうなるか。相当に小さな子どもでもなければ、だれもが知っていることだろう。
男にも当然それはわかっている。少し前にも実際に左腕をひどく焼かれたばかりなのだから、痛みも、己の肉が焼かれる焦げくさい臭いまで鮮明に思い出せるほど。
(くだらない人生だった)
たしかにそう、男は自分の人生を過去にした。
だが、男の意識は途絶えなかった。死後の世界の実在を知ったわけではなく、外的な要因もない。ただ男が木の根元から飛び出して、迫りくる炎からぎりぎりで逃れただけだ。
(なぜだ)
男の自問に、答える者などいない。いるわけがない。
気がつくと、男は短剣を投げていた。やや高い軌道。斜め上から曲がって落ちる角度。
短剣は男の想像通り、容易く少女の炎に焼き払われて消失した。
「この……」
その瞬間、剣を手に接近していた男と、手に炎を湛えて目を血走らせた少女とで目が合った。
直後に噴き出した炎の激流が、僅かに身を反らせた男の全身を掠めて容赦なく熱する。
とっさに放った炎、塊の撃ち出しではなく奔流。だからこそ、密度は薄くなる。
「ぃああああああ!」
少女の放った炎を目くらましに、炎の中を切り裂くようにして男は剣を振るう。少女の首を飛ばす軌道。
剣を振り抜いて手に感じるのは空虚と激しい痛み。少女は屈むようにして剣を避けていた。
手を抜いていたわけではないが、こうなるであろうことはこれまでの戦闘から想定していた。振り切った腕を切り返し、少女に向かって力の限りに叩きつける。
地面に埋まっていた石にでも当たったのだろう。炎に炙られ耐久力を失っていた剣が砕け、赤い少女の血とともに破片が散った。
「ぐっ! うううう!」
炎に焼かれた手が痛み、男は思わず歯を食いしばる。
飛びすさった少女に向けて剣の柄を投げつけると同時に、男自身も地面を蹴る。
飛んでくる剣の柄を払い除けた少女の胴体に、己の足すら破壊するつもりで蹴りを叩き込む。
体重だけは見た目の通りということか、少女の体は軽く吹き飛んだ。むしろこの場合、軽すぎたというべきか。木の幹に叩き付けられた少女は左腕と右肩のあたりから血を流しながらも凶悪な笑みを浮かべて目を血走らせていた。
「燃えろ!」
言葉と同時に少女の手から扇状に炎が流れ出た。それはさながら橙色をしたおぞましい鉄砲水が森を飲み込まんとしているようだ。
男は少女の方向に向けて思い切り飛び上がった。上空の張り出した枝を掴み、勢い回転してさらに飛ぶ。空中で逆さになった視界で、炎の川が空中へ追いかけてくるのが見えた。
少女の位置を通り過ぎる瞬間、懐から取り出した液体を撒き散らす。
落下を始めた男に炎の川が追いつこうとしたとき、
「きゃあああああ!」
と少女の悲鳴があがり、炎が途切れた。
無様に地面に全身を打ちつけた男が仮面の外れた顔を持ち上げたとき、少女は上半身のそこかしこから火を上げて暴れていた。その背後では完全に森が炎上している。
男は少女に切りかかるべく、痛みを堪えて剣を引き抜き駆け出そうとした。が、そのときすでに少女は自身に纏わりついていた火を消し去っており、もはや歪と言えるほど表情を歪めて男を睨みつけていた。攻撃に移れる体勢になっているのを目にしたためか、少女の眼光の鋭さのためか、男の足が止まった。
「む、無価値な、ゴミがっ……! お前みたいなクズが、生意気に、息なんてしてんじゃねえぞ……!」
可燃性の液体をひっかけてやったが、自前の炎で飲み込んで消し去ったのだろう。ドレスにも燃えた跡は視認できるが、たいした打撃は与えられなかったようだ。
男の視界で、魔素が纏わりついた少女の腕が持ち上がるのが、やけにゆっくりに見えた。
もう何秒も経たないうちに、辺りは火の海へと変えられるのだろう。仮にさきほどのように飛び越えようとしたとしても、すでに少女の背後は人間が生きていられる世界ではない。ただ駆け抜けることは可能かもしれないが、少女の追撃があると考えれば現実的ではない。
(逃げ場はない……)
すでに勝敗は決したと言っても過言ではない状況……だが、不思議と剣を手放す気にはならない。痛む手に、止まっていた足に、再び駆け出すための力が込められる。
そして一歩踏み込んだ瞬間、少女の手が唐突に燃え上がったように業火を纏った。
最速で直線的に行く道は途絶えた。あと少し、速さがあれば届いたかもしれない刃は、もはや届くことなく焼け落ちる未来に呑まれてしまった。
選択肢はまだ四つある。上下左右。しかし上下はすでに見せている動きになる。特に上はついさっき抜いたばかりの位置取りであるため、警戒される可能性が高い。
ならば左右か。それも距離が離れれば離れるほど相手に余裕を与えるだけの愚策となるか。それでもどちらかを選択しなければただ焼かれるだけだ。たとえ踏み入る先が袋小路だとわかっていたとしても、諦めたくないのなら、どちらかを選ばなければならない。
(左!)
剣を持つ手は右。僅かでも刃の届きそうな方を選択した。少女は魔術を手で扱っており、傷ついた左腕では魔術を使っていない。もし右腕を傷つけることができれば、魔術を封じることができるかもしれない。いや、これだけの魔術を扱える人間が、手でしかそれが叶わないとは思わないが、精度が落ちる可能性はある。
目の前に迫る炎を避けて左に踏み込む。高熱の揺らめきの向こうに見た少女の視線はしっかりと男の動静を捉えている。が、男とてそんなことは承知の上だ。
足が重い。これまでずっと大きく逃げることを余儀なくされ、走らされっぱなしな上、何度も全力で踏み込み、無茶な制動を続けた代償。しかしここで止まれば即、命を失うことになる。
ある種、肉体への脅しのように足に負荷をかけて地面を踏みしめ、少女に向かって剣を伸ばす。少女の炎が追いついてくるより先に……。
(届け!)
視界の右側が橙色の輝きに覆われだし、呑まれると思った刹那、わずかに乱れた炎の向こう側に、男は自身に向けられた少女の手のひらを目にした。
「あああああああああ!」
少女のドレスが裂け、血が舞った。
男の伸ばした剣が少女の右腕を切り裂いたのだ。
少女の腕は炎はおろか、可視化された魔素さえ纏ってはいない。
(なんだ!?)
しかし浅い。表面上を浅く裂くのが限界だった。いくら少女が戦い慣れていないとしても、悲鳴を上げるような傷ではないはずだった。
届かない。間に合わなかった。死んだ。そんな思いがよぎっていた男は、完全な想定外の状況に思わず足が止まった。
「ああ、う……うううぅううぅぅ……」
少女は苦しげに呻きながら後ずさる。右腕も負傷し、両腕から血を流しているが、それらを苦にしている素振りではない。まるで寒さに耐えようとするように背を丸め、身を竦ませている。ぎゅっと閉じられた目蓋の端から涙を零しながら、口からは涎をしたたらせている。
(毒か……?)
あまりの状況の推移に、男も思わず少女の状態の原因について思考してしまう。
(そんな場合じゃない!)
現状が最大の好機であることは疑いようがない。たとえ原因がなんであろうと、そんなことは関係ない。いま、殺すのだ。
男が意識を切り替えて少女に切り掛かろうとしたとき、目の前に魔力の集中する気配がした。反射的に制動をかけた直後、地面から巨大な氷柱が勢いよく、少女と男の存在する空間を分かつ壁のように聳え立った。
男は氷壁にぶつかり、倒れた。素早く膝立ちとなり辺りを見回したとき、
「まったく困ったものだな、リア」
という男の声を耳にした。
声は左方、炎に焼かれている森があげる悲鳴の中から聴こえたような気がした。
(霧!? 霞!?)
男が燃え盛る森にそんなものを幻視したと思った瞬間、火の海と化していた森が一瞬にして凍りついた。冷気が地面を滑るようにして森を駆け抜け、しゃがみ込んだままの男を包み込み、男は思わず身震いした。
「寒い……」
ぼそりとそんなことをつぶやきながら、妙に着込んだ格好の若い男が現れた。口元は襟巻きで隠れて見えず、一部を除いて真っ白な髪は短く切られて綺麗に整えられている。長身だが、厚手の外套を身に着けていることを差し引けばそれほど体格が良いわけではなさそうだ。襟巻きも外套も、そしてその下に履いているものまですべてが暗い色をしている。
「ううう……ぅ、うう……」
透明な氷柱の向こうで、少女はまだ呻いている。自身の服をまさぐってなにやら取り出したようだが、腕がうまく動かないのか取り落としていた。
少女との間を遮られている氷壁は大した幅ではない。いまなら回りこんで止めを刺すことも容易だろう。そう思った男が実行に移そうと腰を浮かせかけたとき、目の前の氷壁が聳え立ったときのような魔力の流動が今度は左右から同時に感じられた。
「動くな」
厚着した男性の言葉と同時に、目の前の氷壁と同じものが男の左右に聳え立った。
「そのままにしていれば見逃してやる。ハンターを殺すことは任務に含まれていないからな」
視線だけを男に送りながら、厚着の男性は悠々と凍った森を抜けてきた。その身に、かすかに紫の靄を漂わせながら。




