043,死出の森 scene4
今度は間違いない。人間の女の笑い声。というよりは女の子の、と言うほうがより正確。それは無邪気そうな、はたまた不自然な状況からか、気が触れたもののように聴こえた。
「…が……よ…………が」
笑い声の主は続けて何事か口走っていたが、内容まで聞き取ることは出来なかった。
異常な出来事だった。魔物の異常発生などよりも、よほど。
(なんだ、魔術? それともガスでも吸ったか……)
男はまず自身の異常を疑った。なぜなら、ついさっき眼下を走り抜けていった魔物は女の声が聴こえてきた方角からやってきたのであり、もしいま声の聞こえてくる位置に人間がいたのならば、魔物が放っておくはずがないからだ。
しかしすぐに思いなおす。世の中には、己の想像もつかないような天才と呼ばれる人間が確かに存在する。何らかの手段を用いて自分の存在を魔物に覚らせなかったのかもしれない。それにしたって、背筋に寒気の走るような哄笑を上げる意味はわからないが、人知の及ばぬ天才故と言われれば、納得してしまいそうではある。
男はもどかしい気持ちで眼下の様子をうかがっていたが、どうにも枝葉が邪魔をして声の主を視認することはできない。
(いっそ降りてみるか)
そんな考えすらよぎるが、不確定要素が多すぎる現状で、臆病な男がそんな選択肢を選び得るわけがない。
女は何事か喚いた後は沈黙している。仮に本当に人間の女の子がいたとして、すでにいずこかへ去っている可能性も生まれてくるが、男にはまだそこに何者かが留まっているという確信にも近い予感があった。足音や息遣いが聴こえているわけではないし、魔力を感知しているわけでもない。しかし何か、薄い板の向こう側から剣の切っ先を突きつけられているような危機感が胸から離れないのだ。
(ただの思い込みか……だが)
「だれかいるー?」
その声はさきほどまでよりも小さなものに思えた。感情の発露として撒き散らした笑い声でもなく、やるせなく吐き捨てた言葉でもない、『だれか』に語りかける、声。それがはっきりと耳に届いたということは……。
(どうする)
男にとって、考えるまでもない選択だ。声の主もまた、男の存在に確信を持てていないのだ。自分から存在を明かしてやる義理などあろうはずがない。ここはとにかく隠れてやり過ごすのみ。そうと決めた男は息を殺してじっとしていた。
「んー……」
そんな思案気な声が聴こえてくる。もはや人語を解する何者かがその場にいることは疑いようがないが、問題はその正体である。男がその正体について考えを巡らせようとした瞬間、魔力が収束していく気配を感知した。
男はとっさに足場にしていた枝を蹴って後方へ跳んだ。次の瞬間には、下方から枝葉を焼き散らしながら、火柱のごとき巨大な火球が天に向かって飛翔していった。
気を配る暇がなかったので後方を塞いでいた枝葉に突っ込む形となり、男は体中を擦られながら落下する。体勢を崩しながらもなんとか両足で着地した。
「やっぱりいるじゃなーい」
と、予想された場所にはやはり人間の女、それも子どもが立っていた。しかしその容姿は意外なものであり、男は思わず手にした短剣を取り落としそうになった。
その少女は貴族の、特に若い女性が身につけるような赤と黒を基調としてやたらとひらひらしたドレスを身に着けていたのだ。その上、色の抜け落ちたような白い頭髪に、猫の耳を模したらしい飾りのついた、メイドが着けるようなヘッドドレスまで被っている。よく見ると髪の毛の一部だけが赤く染まっているが、返り血というわけではなさそうだ。
気を引かれたのは服装だけではない。
おそらくさきほどの炎を放ったであろう、上方に掲げた腕には、紫色の霞が纏わりついていたのである。それは一瞬のうちに掻き消えたが、紛れもなく可視化された魔素だった。
「お兄さん、ハンターだよね? なぁに、こんなとこまで魔物を狩りに来たの?」
少女はやたらと甘ったるい猫なで声で話しかけてくる。
何もかもが異様だった。しかし思いのほか整合性はとれているのかもしれない。つまり目の前の少女は魔素を可視化し得るほどの天才魔術士であり、その力を持ってしておよそ少女に似つかわしくない危険地帯にまで、戦場に不似合いな格好で赴いている、ということ。
「ねえ聞いてる?」
「ああ……」
問題は少女が敵対するような存在か否か、である。普通に考えれば変わり者も多いハンターの一人と考えるのが自然だろうか。それにしては魔物を見逃し、また見逃されている状況が気がかりだ。樹上への魔術攻撃は警戒のためと捉えられなくもないが……。
「もーしっかりしてよ。あ、もしかしてリアの可愛さに見惚れちゃったとか?」
「……こんなところで何してるんだ」
取り合わない男に、少女はにやついた顔で「んー」と唸りながら考え巡らすように視線を泳がせる。
「何してるかって……散歩?」
そんなはずはない、と言い切れないのがハンター界隈の怖ろしい一面だ。強くなれば強くなるほど、頭のネジが飛んでいる者は多いとはよく聞かれる話で、それは大抵の場合尾ひれのついているものだが、真実がないとは言い切れない。
「俺は魔物を追ってここまで来た。あんたは依頼でここに来たわけじゃないのか?」
「依頼? ああ、依頼といえば依頼だよ。でも依頼主は違うみたいだね。リアは魔物を殺しにきたわけじゃないし」
リアはおそらく名前だろう。ギルド以外の依頼となれば、辺境伯の子飼いということなのか。しかしそうならば、魔物を殺しにきたわけではないとはどういうことか。救護要員ならばこうまで山裾近くまで森の奥に入り込んでいることが不自然だし、あれだけの威力の魔術が使えるのに戦闘要員でないというのも腑に落ちない。
「では何をしに?」
とにかく不可解な存在だ。警戒せずにはいられない。
これが街中での邂逅であれば、ただの良家のお嬢様が妙な飾りを着けているな、で終わる一件だが、ここではそうはいかない。なにせ魔物が異常発生している森の奥なのだ。この先に足を踏み入れれば、さらに強大な魔物が生息しているであろう山岳地帯につながる途上でもある。
「うーん、なんて言うんだろう……一言では難しいなぁ」
少女は口元に立てた指を当てて、悩んでいる格好をして見せている。
ふと、少女のすぐ後ろで何かが見え隠れする。それは現れたと思った瞬間には少女の背中に隠れたが、正体に疑問を抱いた次の瞬間にはまた同じように姿を見せる。
(尻尾……!?)
「リアは、魔物を引っ張ってくるのがお仕事だけど、なんのためにそんなことをするのかって言ったら……」
少女の背後で見え隠れしていたのは猫の物と思しき尻尾だった。それが少女の腰か臀部のあたりから生えてでもいるみたいにゆらゆらと左右に揺れている。
「王国の砦を魔物に襲ってもらうためだよねぇ。でもさぁ、せっかく山の方から魔物を連れて来ても……」
よくよく見てみれば、少女の頭上の猫の耳も、少女の頭の動きとはまた別の動きをしている。それは風の影響などでは説明し得ないものだ。人知の及ばぬ天才故、わざわざ魔術でも用いていることなのかとも思うが、そうした魔力操作の気配は見つけられない。
「ハンターの人たちに魔物を殺されちゃったらさぁ、意味ないよねぇ。あはは」
だいたい、口にしていることが常軌を逸している。辺境伯の手の者でないことはこの際どうでもいい。そんなことより、さきほどやり過ごしたような魔物が跋扈している場所に単独で潜入し、魔物を誘導しているなど正気の沙汰ではない。そんな命知らずの所業を十代の、背丈や雰囲気からして前半かもしれないほどの少女が行っている。それも彼女の言を信じるならば、それを命じた者がいるということ。はたしてそんなことがあり得るのだろうか。少なくとも男の常識の範疇ではない。
「……面白くもない冗談だな」
「ふふ……冗談だと思う? なら……」
少女の声音が、それまでの幼子らしい甘ったるさを急速に失っていく。
「死ぬまでそう思ってればいいよ!」
それまで見せていた可憐な少女像にはおよそ相応しくない歪な笑顔を浮かべて、少女は男に向けて腕を掲げた。その手には可視化された濃い紫の魔素が絡み付いて見える。それを男が視認した直後には、樹上から落下するときに目にした炎の塊が少女との間にあった枝葉を焼失させながら迫ってきた。
「チッ!」
身構えていたことと、魔素の集積を感じ取っていたことで回避自体はさほど困難でもない。だが、木の裏に身を潜ませて少女をうかがう男の首筋には汗が伝っていた。
「あ、やば。森って焼いちゃ駄目なんだっけ。加減するのむずかしいよー」
少女の放った炎の通過した場所は、森がそのまま抉り取られたかのように空間が出来てしまっている。その穴の周りでは火が燻り、穴の先では巨木がその身を抉られて無残な姿を晒している。乾燥していないため、それほど急激に燃え広がるということはないだろうが、もし同じような炎を何度も森に浴びせていれば、大規模な山火事を引き起こすことも十分にあり得る。もっとも、砦付近にいるハンター連中に、砦の兵士たちからも消火に出てくる人間はいるだろうから、それほど大きな火災にはならないかもしれないが。
(それにしてもまた火かよ。もううんざりだ)
それも、これまで目にしてきた中でも五指に入りそうな炎だ。魔素を可視化するほど凝縮できない人間でも同規模の魔術を放つことは可能だが、大抵の者はもっと発動までに時間を要するはず。もし少女が同じだけの時間をかければ、もっと大規模な魔術を放つことも可能だろう。見た目の印象はどうあれ、男がこれまでハンターとして活動してきた中で、間違いなくもっとも強力な魔術士だ。
「んー? どこに隠れたのー?」
木陰から様子をうかがうと、少女はきょろきょろと首も体も動かしながら辺りを見回していた。一見して、ほとんど無警戒に見える。自らの攻撃で対象を見失う辺り、魔術の素養はともかく狩人としては三流らしい。これならば逃げるのは思ったよりもかんたんかもしれない。




