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星くずの碧い海

作者: 柳 ルイ




15(さん)05()分」


 全開にした窓の外枠に右腕を乗せ、わずかに後ろに倒した背もたれに身体を預け。

 ハンドルを操作する左手に嵌めた銀色の腕時計にチラッと一瞬だけ視線を走らせた瑠伊(るい)は、無感情に小さくそう呟いた。

 円形の文字盤の上で、二本の針が60度の角を作って伸びている。


 時刻を確認する、それは今この世界において全くもって意味を持たない、無駄な行動にほかならない。

 しかし瑠伊は、そのことを理解していながら、とっくのとうに体に染みついてしまった習慣をどうしても捨てられずにいた。いや、捨てたがらない、と言った方が適切だろうか。

 だが、また余計なことをしてしまった――などと反省したりは、彼は断じてしない。彼はそういう人間である。


 眩いヘッドライトを前方の闇に向けて照射しながら、よく手入れされて傷や汚れの一つすらもない紺のセダンは、人気の無い山がちな道を早くも遅くもない速度で走行する。

 フロントガラスを通して見える黒一色の景色から一度は目を逸らしたものの、瑠伊はすぐに視線を真正面に戻して、その先を見据えることのみに集中した。

 途切れない大きな塊となって車内に強く吹き込んでくる風には涼しい顔で、全く気にする様子もない。きっちりと整えられた彼の短い黒髪は、多少靡きはしても大きく崩れることはない。

 顔つきは彫りが深く鼻が高くて、目はやや細めだが眼光はぐっと力強い。

 体つきはスタイリッシュでありながらも頑健としており、いわゆる「細マッチョ」と呼称される部類。

 瑠伊は、頼りがいのある印象の、30代前半あたりと見える好青年だった。


 瑠伊が視る(・・)ことによって――彼が進んでいくべき片側一車線ずつのカーブの多い舗装道路は、底知れない闇の中から確実にはっきりと姿を現していく。

 その光景は、多量の灰色、それに加えてわずかな白色と山吹色のペンキが、巨大なブラシを使って車とほぼ同じ速度で手前からスーッと塗られていくかのようだ。

 空は文字通りに真っ暗で街灯さえ点かないが、現れた道は自らの明るさを持っているようで問題なく視認できる。

 中央線や車道外側の線、縦長になった「60」の文字(運転席のスピードメーターの赤い針はそれと同じ数字のわずか手前で小刻みに揺れている)が、ライトに照らされて一段と映える。

 また、彼の視線の動きに合わせて、道を両脇から挟んでいる鬱蒼とした緑の群れや、青色の逆三角形に白の文字で「国道 59 ROUTE」と書かれた標識、さらにはポツンポツンと建つ持ち主のいない家屋なども、順々に形と色と光を与えられていった。


『モノはあるから見えるのではない。視るからあるのである』


 それが、この世界が大きく変わったあの時――天空(そら)から太陽、月、そして無数の星たちが姿を消したあの時――から唱えられている、「存在する」ことに関しての新常識だった。

 そこに何があるのかという問いに対して、絶対的な正解があるものと考えられていたそれまでと比べれば、ほとんど180度近い大転換だ。


 そもそもあの時、世界では何が起こっていたのか。

 人々は、驚くべき多くの事柄を次々と経験したのであった。


 まず人間は何らかの力によって、無差別・無作為にバラバラに色々な位置に投げ捨てられた。その意図はよく分かっていないが、これによってほとんどの人々は家族や友人と引き裂かれ、人間関係を壊された。まずこれで自ら命を絶った者は多い。

 それから人々は、それまで通りの時間感覚を失った。永遠の夜が訪れた世界では時刻や日付などの数字は必要なく、変わりゆく生活の中でほとんどの人々が時計やカレンダーを捨てた。


 そしてもうひとつ、モノに光を当ててその存在を確定させるという役割が、天空の天体ではなくひとりひとりの人間の持つものとなった。

 そもそもモノの本質とはすべて、実体を持たない真っ黒な闇そのものだった。それが現在の場合、人間の誰か一人にでも認識されることによって、それらは何らかの形と色、そして光を与えられて存在する。

 そしてそれが何なのか――リンゴなのかミカンなのかブドウなのか――は認識する人間の意志次第で変化するもので、絶対的な正解などない。それが現在のこの世界において主流の考え方だった。


 瑠伊は他には何も考えていないかのように、ただただ自分の乗る車の数十メートル先だけを、じーっと無心に見つめていた。

 それには二つの理由がある。


 一つ目は、落ちない(・・・・)ために。

 今まさに彼の視界のさらに向こうにどこまでも広がっているのは、ただ真っ黒なだけの実態のない無の空間。彼が少しでも油断して視ることを()めてしまえば、途切れた道の先は底なしの巨大な崖である。

 先ほど腕時計をチラッと見た際もごく一瞬だけですぐ視線を戻すよう努めたのには、そういう理由があった。


 そしてもうひとつは、今の今まで誰からも認識されていなかったこの道とそれを取り囲む景色を、正しく(・・・)再現するため。

 人の手によってしっかりと造られ、昔はれっきとした道として機能しておきながら、何らかの理由――人々の記憶から消えた、この場所を覚えていた人々がみな亡くなった、など――によって忘れ去られた道。

 そんな舗装された廃道(・・)の数々をこうやって車で旅して、すべての余計な感情を排除したまま、自分の意志など一切介さずに元あった通りの姿に復元する。

 それが彼、瑠伊の異質とも言える趣味なのだった。


 彼をそこまで突き動かすものとは一体何なのか……。

 その答えを匂わせるあるモノが、彼の乗り回すセダンの運転席と助手席の間のコンソールボックスの上に、それとなく置いてあった。車の屋根の上にマグネットでくっつけるタイプの赤いサイレンだ。


 学生の頃から正義感だけはやたらと強く、さらに極端な理系脳で、絶対的な定義やそこから展開される論理などを拠り所とした彼に、刑事という職業はまさにピッタリだったと言えるかも知れない。

 今は助手席に座る上司もいなければ、煙草の吸殻入れはもうずっと空っぽの状態が続いている。無論仕事もしていない。

 だが瑠伊自身は、若手の新米刑事として徐々に軌道に乗ってきていた頃から大きく変わっていなかった。

 曖昧でかつ柔軟なこの世界の有り(よう)に対応できず、信用に足る定義や基準となる数値、そしてたった一つの正解や真実に固執する。そういった点では、彼はある意味この社会のはぐれ者となるのだろうか。


 最早本当にあるのかどうかも分からない、モノのあるべき姿(・・・・・)を求めて。

 瑠伊は当ても無く旅を続けるのだった。




 ★☆★☆




 あるカーブを曲がって短い直線道路に差し掛かったところで、初めて瑠伊はそのなにかに興味を示した。

 緩やかに右へと曲がる次のカーブの外側に、細い一本の小道のような形で光ある場所が突き出していたのだ。

 それは彼自身がその場で定義したものではなく、彼よりも前に別の誰かによって認識されたもの。対向車の一台すら見かけることのなかったこの道に、誰かがいる……??


 瑠伊はその光る場所に近づいてそのまま車道に車を停め、硬いコンクリートの地面に下り立った。

 体格の細い人ひとりが歩けるぐらいの幅のその光る道は、多少左右にふらふらと曲がりながら、ただ一本暗闇の中を突き進むようにして国道の本線から分岐している。

 そこから独特の透明感を感じ取った瑠伊は、不思議に思いながらもその行先を目で辿っていき……それを目にしたところで息を止めた。


「……」


 道と同じような透明色の、二人がけぐらいの小さなベンチと、その上で横になって眠っている、白いワンピースを着た少女の背中。

 それはどことなく神秘的で幻想的な、この世のものとは一線を画した神々しささえも感じる光景だった。


「……ん??」


 だが瑠伊は同時に、その奇妙な違和感にも気づいた。


 見えるものは曲がりくねった道と、その先にあるベンチとそこにいる少女だけ。道はその先までは進んでおらずそこで途切れている。

 これが彼女によって認識されたものの全てだとしたら、それはつまり如何に彼女が興味を持った範囲が狭かったかということをよく表していた。道は人ひとりが通れるだけの幅――とても不自然だ。


 瑠伊はそれらの周りを取り囲むだだっ広い暗闇に目を移す。

 抽象的なモノたちが瞬く間にそれぞれの個性を持った姿へと変身し、それらの共演によってひとつの風景が出来上がっていく。

 例に漏れず自分の信念に従って、できる限り雑念を振り払いそれだけに集中した結果だったが……彼は全てをオープンにしてしまった時、激しく後悔した。


 そこにあったのは丁寧に短く刈り取られた芝生の広場――などではなく、人の手が全く行き届いていない汚い空き地。

 背丈の高い何種類もの雑草が、それぞれに遠慮なく競ってぼうぼうに生えており、とてもじゃないが目も当てられない。

 どうやら地形としては丘のようになっているようで、瑠伊から見て左右両端を鬱蒼とした森に、手前側を道路に囲まれていて、奥はと言うと柵も何もない断崖絶壁。

 その遥か向こうでは、濃い緑一色のみで表面をコーティングされた魅力のない山々と、考えただけでゾッとするような底深い谷間が、幾つも連なって延々とループするのみ。これからあそこに向かっていくことを思い、瑠伊は深く溜息を吐く。


 これが瑠伊の思う、本当のあるべき姿。

 彼がたった一人で刻み続けてきた時の記録によれば、旧来の時間の定義でおそらく十年以上にわたって放置されてきたのだろう、そんな無法地帯同然の場所だ。

 真実を歪めることを最も嫌う彼だとしても、落胆を隠せるはずはなかった。


 ただ、救いがあるとすれば、その部分が塗り替えられる(・・・・・・・)ことなく残ってくれたことだろう。

 きっと眠っている少女が認識したのであろうそれらは、しっかりと生きていた。瑠伊はそれを見て思わず感嘆ともとれそうな一言を呟いた。


「なかなか強いな……」


 基本的に瑠伊が見るもののすべては、生まれ持った強い正義感と元刑事としての使命感のもとに、一切の自己中心的な意志を切り捨てて見たもの。つまりは現実であり、真実である。

 そして真実には、他人の願望に基づいて形成された嘘を駆逐し、正しく塗り替えてしまうだけの力があるのだ。

 その自信に満ちた行動で、誰かの夢を無意識にぶち壊し不幸にしてしまった、というような経験が彼には何度もあった。

 自分のやっていることは正しいことではあるが、一方ではそれが誰にとっても喜ばしいものであるとは限らない。その二点間の葛藤は常に彼の心の中にあり続けているのだ。


 しかし、今回ばかりはそうはならなかった。彼の言葉通り、それは少女が強いからなのだろうか。


 瑠伊は黄緑の草が生い茂る部分に足を踏み入れ、しゃがみこんでその一本の細い道に顔を近づけてじっくりと観察した。透明なその道を形作るひとつひとつのモノは、他の場所と同じくすべて草花の形をしたものだったが……その材質は大きく違っていた。


「ガラスか??」


 そこに並ぶのは、間違いなくガラスでできた草であり、花であった。

 近くで見ると、透明な中でも部分によって異なる色を含んでいるのが分かった。葉は緑、茎や蔓などは主に薄い黄緑、そして花の部分は赤や青、オレンジ、黄色、白、紫など種類によって様々だ。

 高さは全体的にきちんと揃っていて、周囲の雑草地獄とは対照的に植物園のようでもあった。


 これがあの少女の夢であり幻想なのか、と瑠伊は思った。自然の土からガラスが生えてくるなど、誰がどう考えても普通には有り得ないことだ。

 ただ、これだけ近くで眺めても塗り替えられないというのは相当なものだ。


 彼はその花たちの中に、一際目立つ一輪の真っ赤な薔薇があるのを発見した。他の花と比べてひとまわりは大きく、その美しさをやや鼻高々に自慢したがっているようにも見える。

 瑠伊は思わずその棘のある薔薇の花弁を触ってみようと、ゆっくり少しずつ手を伸ばしてみたが。


「あっ……」


 彼の右手の太い親指と人差し指が、花弁に触れるよりわずかに五センチあまり手前まで来たところで、その一輪の赤薔薇はパリンッと爽快な音を立てて、自分から華麗に砕け散ってしまった。

 細かくなったガラスは密集する他のガラスの草たちの中に混じって判別がつかなくなる。

 さらに小さな点ほどの大きさとなった欠片は周囲に広がるように散り、銀色に輝きながらひらりと空中に浮遊していた。


 儚く切ない気持ちになると同時に、瑠伊は反省してやや優勢になりかけた自分の好奇心を抑えつけ、再び立ち上がって目線をその先に移す。

 先ほどから雑草をワサワサと踏み鳴らしながら歩いているが、真っ白な少女が目を覚ます様子はまったくない。初めからずっと一定の間隔で、その背中と肩を僅かに上下に動かすのみだ。


 彼は彼女の寝ているベンチの方へと、一歩一歩足を高く上げながら草の合間を縫って近づいていく。

 うっかり手や足で触れてしまうことがないように背後からベンチを大きく回り込み、彼女の顔が見える反対側へと移動した。


 白いワンピースを着たその少女は、スースーと静かな寝息を立てて、いかにも気持ち良さそうであった。

 これまた白いつるつるな肌をした顔は、とても美しく可愛いが、まだどこか初々しくて充分に幼さを残している風である。送ってきた人生の長さはおそらく、瑠伊のそれの三分の一以上半分未満、と言ったところだろうか。

 不自然なまでに綺麗すぎる透明なベンチの上には、その長い銀色のさらさらとした髪が解かれてふわっと広がっている。

 太ももからつま先に至るまでは完全に裸足で、ベンチの近くに靴は見当たらない。


 つい先程の薔薇の花にも似て、彼女は目を引く自分の容姿を無防備にもさらけ出して、自由であった。

 そして一方では、触れたら一瞬でこの神々しさが失われてしまいそうな、そっとしておかなければならないと思えるような、そんなガラスのような繊細さを彼女は持ち合わせていた。


 声をかけてもいいものか……。瑠伊は少しのあいだ戸惑ったが、しばしの思考の後に彼は心を決めた。

 彼は先程よりもずっと慎重にゆっくりと、右手を伸ばしていき、ワンピース越しに彼女の左肩に手を添えた。

 確かに触れた感触と、伝わってくるほんのりとした熱がある――彼女は確かに人であった。

 ビックリとはさせない程度に優しく、彼は立って腰を半分ほど屈めたままでその肩を揺する。


「おい、お前。こんなとこで寝てると風邪ひくぞ」


 瑠伊にとって、そしてこの少女にとってもおそらくはそうであろうが、これは奇跡であり運命とも呼べるほどの出逢いだった。

 廃道を突き進むだけの旅を長いこと続けてきた彼だが、それでもこのような邂逅というのは初めてのことだ。


 瑠伊が不器用なのには、生まれつきの彼の人となりや性格に加えて、もうしばらくの間そのような出逢いとは縁のない生活を送ってきたから、という少し悲しい理由もあった。

 彼自身は無論できる限り優しくしているつもりなのだが、それでも彼の口から零れた低い声とややぶっきらぼうな口調は、繊細な幼い少女相手にはまだ少しだけ威圧的だった。


「んんん、うーーーん………」


 ごつごつとした手に揺り動かされ、少女は目を覚ましたのか小さく声を上げながら、軽く寝返りを打った。

 顔を真上に向けて仰向けになり、微睡んだ両目を開いて真っ黒な空をその青色の瞳に映す。

 それから目線だけをふらふらと動かして瑠伊の顔を視認した彼女は、しかし特に何かを思ったような素振りは見せず、無表情のままで音を立てずに静かに上半身を起こした。

 その絹のように美しい足をベンチから下ろし、初めて地につけ――彼女はその感触でようやく無数に生い茂っている草の存在に気づいたようで、驚いたように反射的に下を向いた。

 それから顔を上下左右に、さらには身体をクルクル回して後ろも確認する。


「……終わった……?」


 彼女は瑠伊がいることにはほとんどお構い無しに、独りそう呟いた。

 瑠伊が聴く彼女の声はとても薄くて透き通っていて、そして囁き声のようで、水に入れたら簡単に浮いてしまいそうな声だった。


 その言葉の意味はあまり良く分からないが……瑠伊は少しばかり面食らったような彼女の表情から、その心情を推察した。

 彼女は眠っている間ずっとずっと夢のなかにいて、その夢にはまだ続きがあった。そしてきっと彼女はそれを見ることを楽しみにしていたのだろう。

 しかし、今彼女の目に映されているこの景色はどうだろうか。

 自分の知らないうちに夢が終わってしまっていた、それも自らが望んでいたものとは全く違う展開、結末で。書いていた途中の物語が、他の誰かによってバッドエンドで完結させられてしまった、そんな感覚にも似ているだろう。

 彼女が絶望し憤るのも無理はないことだと、瑠伊は思った。


「悪い、それ俺のせいだ。とりあえず謝っておく、ごめん」


 瑠伊は立ったまま、椅子に座ってまだグルグルやっている少女を見てそういった。

 だがそれは、彼にとっての最大限の誠意ではないように感じられた。真実を追い求める行為を自ら完全否定することは、彼にしてみれば有り得ないことだからだ。


 少女は彼に一切の関心を示さず、目を合わせることもなければ返事をすることもない。

 気づいていないわけはないだろうが……。瑠伊は呆れるほどにマイペースな彼女のその態度に、はぁと短く溜息を漏らした。


 しばらくして彼女は断崖のある正面のほうに向き直り、今度は何も言わずにすっくと立ち上がった。

 そのまま真っ直ぐに裸足で歩いていき、見晴らしの良い丘の上から緑一色のだだっ広い風景を眺める。おそらく綺麗だなどとは思っているわけではないだろう。

 彼女は今度はその状態で、顔を少しばかり動かすのみで身体は数十秒以上の静止に入った。


 瑠伊はもう一度やれやれと溜息をついて、とりあえず何か気を引こうと彼女への質問を繰り出した。


「なぁ、お前どうしたんだ?? こんななんもないとこで一人で寝て、何してたんだ??」


 やや食い込み気味に早口で訊いてしまうのは、やはり彼の職業柄だろうか。

 対して少女はまったく焦る様子はなく落ち着いて、しかしここで初めて瑠伊の声には耳を傾けて、それから先ほどと同じ透き通るような、ほんの小さな声でこう答えた。


「わたしは…………ステラ」

「ん、ステラ?? ……なんだそれ、名前か??」

「そう」


 別にそれを聞きたかったわけじゃないんだが、と瑠伊は思わずその場で返そうとし、しかし直前で踏みとどまる。

 こちらからの質問には真っ向に答えず、しかし名前は何故なのか勝手に教えてくれる――瑠伊には、彼女のペースというものが全くもって掴めなかった。

 確かに人ではあるはずなのだが、彼女はそれこそ出来の悪いアンドロイドのようである。せめて目線だけでも合わせてくれれば違うのだが、彼女はそれすらもすることはなかった。


 しかし、ようやくまともに言葉を交わしたことで、ごくごく僅かな親近感のようなものでも湧いたのだろうか。その少女――ステラは今度は、自ら瑠伊に向かって問いを投げかけた。


「これは…………この景色は、なに……?」

「ああ、それはな……現実だ」

「現実……?」

「そうだ。この場所のあるべき姿だ」


 瑠伊はあっさりとした口調で、しかし確かな自信を持ってそう答えた。

 まだ何も知らない相手を諭すように、正しいことを教えようとするかのように、彼は力強く言った。

 悲しいことはあるけれどそれも黙って受け入れるべきだという自分の信念を、やや強引に押し付けるようにして。


 ステラはまた押し黙って、丘の向こうに広がるそれをじっくりと観察していた。瑠伊に見せることのないその顔はずっと無表情のままだ。

 やがて、彼の主張などまったく耳に入らなかったのか、それとも心に響いてはいたけれどもそれに対するれっきとした反論をしたのか……彼女は瑠伊に背を向けたまま、ボソリとたった一言零すのみで瑠伊を否定した。


「……つまんない」


 それはもっともな言い分だった。

 遥か以前ならともかく、変化が起こった後のこの世界で「あるべき姿」などというものを信じるのは、常識からして本当につまらないことで、そして無駄なことでしかない。当たり前のことだ。


「ああ、確かにな。つまらないかもしれない。でも俺は間違ったことだとは思ってないぞ」


 瑠伊もそう言って、ステラの後ろからやや覗き込むようにして丘から見える景色を見下ろした。

 それがまるで人生そのものを表しているようだ、瑠伊にはそう思えてきた。

 幾つもの山を登って谷を下り、長い年月を通して同じようなことを何度も何度も繰り返す。どこまで進んでも終わりが見えない、延々と続く地獄のような世界。


「そう。なら……」


 だが直後、ステラがそう言って深く息をふうっと吐き、一変してその青い瞳に力を込めて虚空を鋭く見据えた時――それは起こった。


「おい、これって……やっぱりお前……??」


 景色がすべて、変わり始めた。


 背の高い雑草や花、丘の両端を取り囲んでいた森の木々、背後で境界をなしているカーブしたアスファルトの道路。丘から見渡せる茫洋とした眺望の全て。そして途中まで彼女が描いてきていたあの夢の一部分までも、まとめて一度リセットして。

 ありとあらゆる形が、色が、光が――何かの力でかき混ぜられているようにグルグルと目まぐるしく回り、やがてその動きが激しさを増していく。

 瑠伊とステラを取り囲むなにもかもが、前から後ろまで、地から空まで、無数の白い光の煌めきとなって一時的に一体化する。


 瑠伊は眩しさのあまり目をぎゅっと瞑った。

 だが、この現象が果たして何なのか、瑠伊はよく知っていた。彼は何度かこれを経験したことがあるからである。

 しかし今回が大きく違うのは、瑠伊が形作る真実が塗り替える側でなく、塗り替えられる側であるということだ。これは初めてのことだった。

 確固たる根拠や法則に基づいてそこにあるはずの真実が、たった一人の少女の感情からなる夢によって、幻想によって、妄想によって――嘘によって無かったことにされる。

 それは瑠伊にとって確かに屈辱ではあったが、彼はむしろ驚き、感心していた。彼女がこれほどまでに強い力を持っているということに。

 そのことは、如何に彼女が純粋な少女であるか、それを物語っているように思えた。


 しばらくして瑠伊は目を開く。そこにあったのは鬱陶しいようなむさくるしいような山々の並びではなく。

 まさに宝石そのものを溶かしたのではないかと思うような、息を呑むほどに美しいエメラルドグリーンの海と、ひとつひとつの粒がキラキラと銀色に光る砂浜が、彼の立っているところのその高さをずっと維持したまま、平らに広がっていた。


 瑠伊は、その海がどこまで続くのかと遠くを望もうとしたが――不可能だった。

 おそらく遥か向こうになら地平線が存在するのかもしれないその海は、しかしそこまで見渡すことができない。

 そのずっと手前の位置で、曖昧でぼんやりとした空との境界線によって、海は途切れてしまっていた。

 そうか、夢は現実からの一瞬の逃避でしかなく、前進することができないから……瑠伊はどうしてかそのことをすぐに理解する。


 対して、瑠伊から見て横方向に伸びる海岸線は、どこまでもどこまでも続いていた。

 これがステラの力の強さそのものであるのかと、瑠伊は直感する。

 前進はしないがこの夢はいつでも好きな時にいつまでも、そして何度だって繰り返しここで見ることができる。ステラはとても強くて、そしてそれに負けないくらい怠惰であった。


「おっ」


 瑠伊は、先ほどからはらり、はらりと上からゆっくり降ってくる、小さな何かの粒のようなものに目を留め、それを左手の掌の上で受け止めた。

 足元にある無数の煌めいているものと同じ、銀色に光る小さな点のような欠片。

 瑠伊は、あの道のところにあった薔薇の花を壊した時に、これと同じような点がたくさん舞っていたことを思い出した。


「なぁ、これは何なんだ??」


 彼が聞くと、浜辺を海のほうへと素足で一歩一歩進んでいきながら、ステラは片手間に答えた。


「星くず」

「……星??」

「そう。ガラスでできてる」


 とても懐かしい、脳の奥の奥の方にだけ残っていてほぼ忘れかけていたような単語を耳にし、瑠伊はしばらくその場で固まって考えた。そして、それがなにであってどこにあったものなのかを徐々に思い出し、彼は首を痛くなるくらい真上に向け、広い空を仰いだ。


 もうしばらく何も無い真っ黒なのが当たり前であった天球には、白や黄、オレンジや赤などの色をした幾つもの星が、明るかったり暗かったり、近かったり遠かったりするいろいろな星たちが、無数に散りばめられていた。

 そしてその空から降ってくるほんの小さな欠片が、この銀色の果てしなく続く砂浜を作っているのだった。


 瑠伊は足元からその砂を、片手で握れるくらいの量で拾すと、拳を開いて指の隙間から少しずつ落とす。

 とても細かいからなのか、ガラスで出来ているというのに全く痛くなく、むしろとてもサラサラとして気持ちの良い感触だった。


 サーーッッという涼しい音と、ひんやりとした風をこちらに送りながら、浜辺に波が押し寄せる。

 気がつけばステラはもうそこまで走って辿り着いていて、その足先を冷たい碧に濡らしながら、バシャバシャと楽しそうに遊んでいた。一人で無邪気に、でも静かな声で笑いながら。

 瑠伊は楽しそうにちょこちょこと動き回っているをステラを見て、少し意外だなと思う。


 そんな微笑ましい光景を遠目から眺めている間に、くるっと砂浜の側に向いた彼女と瑠伊の目が、初めてピタッと合わさった。

 その一瞬で、瑠伊の心臓がドクンと大きな音を鳴らす。

 何も余計なことを考えずに、ただただ純粋な自分の感情のみに従って笑う彼女は、美しく神秘的でそして子供のように可愛い、まさに絵に書いたような美少女だった。


 ステラはそこで動きを止めて瑠伊を真正面にして向き直り。離れたところにいる彼に向かって、それまでよりも少しだけ大きな声に変えて呼びかけた。


「ねぇ。こっち、来ない? …………えっと……」

「ん??」

「……名前。わかんない」

「名前……??」


 ステラはその淡い瞳で、それを伝えるために瑠伊の目を見つめ続けていた。瑠伊もその意図にすぐ気づく。


「……あっ、名前って俺か。俺は瑠伊だ」

「ルイ」

「ああ」


 二人はそれぞれ確認と肯定の意味で、互いにコクリと一度頷く。

 そしてステラは、ふふっと可愛らしく優しく微笑んで、瑠伊に向かって言った。


「じゃあ、ルイ。ルイもこっち来て……遊ぼう??」


 白いワンピースを着て、銀色の長い髪の毛をふわりと揺らす、繊細なガラスのようでありながらも強いその少女の立ち姿は。星ぼしの輝く黒い夜空と、艶やかなエメラルドのような碧海(へきかい)をバックにして、これ以上ないほど美しく映えていた。


 そんな幻想的な光景の中に深く入り込むことに抵抗を覚えはしながら、それでもしかし、彼女の強さを信じて。

 瑠伊は自信に満ちた声と言葉を彼女に返した。


「おう。そうさせて貰うぜ」


 その場で靴を揃えて脱ぎ。

 揺れる海とそこにいる少女のもとを目指して、足の裏で直にそのフワフワとした砂の感触を確かめながら、彼はゆっくりと大股でその歩を踏み出した。


 横に並んだ大小それぞれの足跡は、夢の世界の星くずに深くしっかりと刻まれていた……。




 ――――END――――




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