第六十一話 夢を見る少女Ⅲ
『少女』にとって『母親』とは、ただ家系図上において自身の上に位置する記号の一つでしかなかった。
血統で言えば間違いなく真上。肉体的、及び政治的繋がりとしては反論の余地もなく一番近い位置にいる女性の一人。
けれどそれが、必ずしも心の距離と比例する訳ではない。
『少女』には『姉』がいた。
公的には一人。そして実はもう一人、四歳離れた『本物の長女』がいる。
『少女』の、『今の長女』への愛は深い。
けれど『本物の長女』に対しては、何の感慨も懐けない。
それも当然か。なにせ『少女』は『本物の長女』に会った事はないのだから。
いや、本当は何度か目にした事はある。ほんの少しだが、声を聞いた事もあった。――面と向かって言葉を交わした事はないが、互いに存在を認知する程度には交流があったと言える。
それでも全てを失った『本物の長女』に対して何の感情も湧いてこないのは、片親が違うからか、それともただ『少女』が薄情だからか。答えはまだ、出ない。
さて、『少女』の『母親』と言えば、もしかするとある事情で修行のために半ば家出のように城を飛び出して、数日前にやっと帰ってきた『少女』の『姉』より顔を見る回数が少ないかも知れない。
だが『母親』という記号としての認識しかない存在の事など『少女』にはどうでもよく、ソレに対してどのような感情を懐けば良いのか、想いを向ければ良いのか、全く分からない。
だから『少女』は、自分より幼い少女が母親を失った痛みに耐えられず自ら記憶を改竄した理由が、全く以て理解できなかった。
◆ ◆ ◆
セルデセン帝国第二皇女リリアーナ=アルク=ルインリッヒ=セルデセンは、とある少女が療養する部屋に居座り、治癒師や使用人達が看病する様子を眺めつつ、つらつらと益体もない考え事をしていた。
今このベッドに横たわる少女は、敬愛する姉の友人の仲間らしい。
彼女にとってはあまりに遠い、関わりなど殆ど無いような存在だが、無下にはできない。なにせリリアーナが愛する姉が「様子を見ておいてほしい」と『お願い』してきたのだ。喜んで受ける以外有り得ない。
それに、この半妖精種の少女――シャルロッテと自分は、比較的歳が近い。恐らく二、三歳程度しか違わないだろう。だからリリアーナは、この少女をどうにかしてあげたいという気持ちが胸にあった。
けれど彼女が眠っている限り――いや、殻に閉じ籠っている限り、どうしようもない。ただ本当に、『見ている』事しかできないのだ。
それを悔しく思うと同時に、何故――と理解できない部分もあった。
「何故、貴女は事実から目を背けてしまうのでしょう……?」
ぽつりと呟き、リリアーナは穏やかな寝息をたてる少女をぼんやりと眺める。
暫くそのままでいると、部屋に殆ど人の気配が無くなった。
見渡すと、リリアーナ付きの数人の侍女と、この少々特別な部屋を管理する使用人だけが僅かばかり残っている。後はリリアーナ自身と、ベッドで夢を見続ける半妖精種だけだ。恐らく他の治癒師やら使用人やらは、退室したのだろう。退室時に確実に声を掛けられたのだろうが、リリアーナは気付けなかったようだ。
けれどどうでも良い。人が居ようが居まいが、少女自身には関係ない。呼べばそこら辺から暇な使用人がいくらでも駆け付けてくれるし、そもそも今は人の気配の少ない場所に居たかったので、却って都合が良かった。
別に数年ぶりに返ってきた姉が構ってくれないから拗ねているとかそういう訳でも……ない訳でもないが、少し気分を落ち着けて考え事に耽りたかったのだ。
――何故、ベッドで夢を見続けるこの少女は、母親の死を受け入れられないのか。
分からない。同じ状況に陥った事が無いから、考察のしようがない。ある程度推察はできるが、そうすると『親への愛』を一ミリも持たないリリアーナでは、母親が死のうが父親が死のうが『あぁお亡くなりになったようですわね。では、早々に仕事の引継ぎや葬儀の準備に取り掛からなければなりませんわ』というような考え以外浮かんでこないのだ。……まぁ一応、『ご冥福をお祈り申し上げます』と穏やかに告げる程度の誠意はあるが。
これが敬愛する姉だったならば、違っただろう。あの人は、例え尊敬する点が一つもない屑が相手であっても、肉親の死には涙を流すはずだ。彼女は、優しい人だから。
けれどリリアーナには無理なようだ。『姉』以外の全てがどうでも良い彼女には、親の死が『何気ない日常』のうち『ちょっとだけ特別な一コマ』としか思えない。
だから――。
「ん、ぅ……」
「……目を覚ましたようですわね」
うっすらと瞼を開くシャルロッテ。夢と現実の狭間を彷徨う少女はぼんやりとした光の無い瞳で周囲を見渡すと、やがてリリアーナの顔を捉え、慌てて飛び起きた。
「あ、あああああ皇女様⁉ えと、えとえとっ! わたし如きが暢気に眠っていてすみませんっ‼」
「……いい加減慣れてくださいまし。もうこれ、七回目ですわよ」
「うぅぅ、す、すみません……」
「はぁ……もう良いですわ」
いつまでも同じような反応をする常時平身低頭少女・シャルロッテに、リリアーナは隠しもせずに溜息を零した。その動作に余計にシャルロッテは委縮してしまう。
いつもだったら、また今まで通りにカウンセリング紛いな事を始めていただろう。
ただ、何故だろうか。
今日はたまたま、深く考えすぎていたからだろうか。それとも日々彼女の相手をすることにストレスを感じていて、それが限界点に達してしまったからだろうか。
僅かに苛立ちを覚えたのを引き金にして、リリアーナはついその言葉を口にしてしまう。
「まったく……どうして貴女は、人の死を直視できないのでしょう?」
「――――ぇ」
ひゅっ、と。唇から空気が抜け、シャルロッテは急速に青くなる顔でリリアーナを見た。
何を言っているのか分からない。そう示すような――あたかも主張するような動作。それに対してリリアーナは、ピクリと眉を動かした。
「……分からないのですの? わたくしはこう聞いたのです。どうして貴女は母親が死んだと認められないのですの? ――と」
「え――と、それは……どういう、こと、ですか?」
どうもこうもないでしょう、とリリアーナは嘆息する。分かっていた事だが、やはり彼女は依然として『夢』の中のようだ。話が噛み合わない。
今まで何度も何度も彼女の会話相手を務めていたが、全く彼女に変わる様子はない。ずっとずっと、もう永久にそのままなのかと思うほど、彼女は夢に囚われ続けていた。
それだけ母親に依存していたのか。
それだけ肉親の死が悲しいのか。
でも、だからといって、記憶を改竄したままでは駄目だろう。いつかは破綻する方法なのだし、そも死者とはきちんと別れの挨拶をして心の整理をつけてから送り届けないと、心情的にも魔道的観点から見ても悪い。
だからいい加減、現実を見ても良いのではないか――そう、少しでも思ってしまったリリアーナは、更に続けてしまう。シャルロッテを嬲り殺す、言葉の刃を。
「貴女の母親は、亡くなったのです。魔女に実験され、化け物に堕ち、ユーリ様の手によって討たれたのですわ。ある意味救われた、とも言えるでしょうか。……いえ、それは流石にあんまりですわね」
例えミシア=エンフェイト自身が望んだ事だとしても、安易に死を救いだと思うべきではない。死はいつだって悲しみを齎すものなのだ。リリアーナとて、もしエミアリスが死んでしまったら、と思うと涙が止まらなくなるのでそれは理解できる。
けれど立ち止まっている訳にはいかない。死者ばかりを追っていても、自分達の未来は生者である自分達で作らなければならないのだから、いつまでも悲観している訳にはいかないのだ。
――そのような考え方ができるのは立派かも知れないが、しかしそれをまだ十三歳の少女に説くのは少々無理があった。
「な、んで……え、なんで、そ、そんな……酷い事を、言うの? だって、母さまは、し、死んで……なんか、ないもん……っ」
イヤイヤと首を振り、ギュッとシーツを抱いて怯えた視線を向けるシャルロッテ。死を認められない少女は、『酷い事』を言うリリアーナにすっかり怯えて縮こまってしまった。
それがリリアーナの苛立ちを加速させる。心の醜い部分を、掻き毟る。
止められない。止まらない。まるで見えない『何か』に突き動かされるように、彼女は自分でも驚くほど乱暴に言葉を放った。
「だから、何度も言っているでしょう⁉ 貴女のお母様は亡くなったのです! もうこの世のどこにもいないのですわ‼」
「なん、で……だって、母さまは、家で待ってるって……わっ、わたしの帰りを、待ってるって――」
「それは違うのですわ! ええ、確かに貴女のお母様は貴女の帰りを待っていたのでしょう。でもどうしようもなく悪い奴らがどうしようもないくらい悪辣な事をして、貴女のお母様を助からなくしてしまったのですわ‼」
止まらない。
怯えた視線も、苦しげな吐息も、痛みを訴える心の叫びも、何もかもを無視して、彼女は想いをただ叫んだ。
それは、或いは獣の咆哮のような野蛮なものだっただろう。皇女に相応しくない怒声だっただろう。
だけれども、止められない。
「だからもう、認めなさい! 現実を見なさいッ! 愛する人の『死』を受け入れて、前を見て生きなさいッ‼」
――だって。
リリアーナは彼女に八つ当たりがしたい訳でも、苦しめたい訳でもない。
確かに分からないと思った。母親を失っただけでこれほど心を閉ざしてしまう少女の事が理解できないと頭を抱えた。
でも。
だけれども。
ただ、純粋に。
ただただ、愚直に。
――リリアーナは、シャルロッテの事を助けたかっただけなのだ。
だからこそ。
そう、だからこそ彼女は止まれない。
――否。止めてはならないと、思った。
「いつまでも死者に引きずられていてはいけませんわ! わたくし達は生きているのです。止まってなどいられないくらい荒く険しい世界で、生きているのですッ! それなのに、いつまでもぐちぐちうじうじ塞ぎ込んで、ご自分だけの世界に閉じ籠って、いない人間を待っていると信じ切って。何がしたいのですの? 一体貴女は何をしているのですの⁉」
「わた、しは――ただ、母さまが、待ってるって……家にいるから、待ってるからって……」
「――、ふざけないで下さいまし。貴女のお母様は……いいえ、貴女の家はもう、〝終焉教〟の手で壊されていますわ」
「――――」
まるで時が止まったかのように、シャルロッテの動きが停止した。
有り得ない。そんな事、あってはならない。認めてはならない事態を突き付けられ、少女は完全にフリーズした。
だって、前提が崩れてしまうのだ。帰るべき場所がないなど、待っている人が居るはずの場所が存在しないなど。それを一度でも認めてしまえば、『夢』が完全に崩壊する。
帰るべきあの家が無いという事は、即ち、そこで待っている人もいないという事を認めるのと、なんら変わらないのだから。
「ちが、う……違う違う違うッ! そんな訳ない……そんな事、絶対有り得ないッッッ‼」
「いいえ、事実ですわ。『前線都市』エミルフィア南区、そこにある住宅地は〝終焉教〟の教徒に襲われ、住民は皆攫われて、家々は残らず崩壊した。恐らく新兵器の能力でも試したのでしょう。魔道士ではないただの人間の教徒が、強大な魔法を連発したところを辛うじて生き残った衛兵が証言していましたわ。帝国直属の諜報部隊に探らせたので、間違いありません」
「そ……んな、ことって……で、でも、生き残った人がいたなら、きっと母さまも……っ!」
僅かな光明を見つけたとでもいわんばかりに、シャルロッテは叫んだ。――本人でも、それは違うと分かっていながら。
そのあまりに痛々しい縋りに、リリアーナは懐いた悲哀を隠さずに眉を顰めた。けれど手心は加えられない。それは、彼女のためにもしてはならない。
だからリリアーナは、冷徹な仮面を張り付ける。冷酷な言葉を、冷淡な声で放つのだ。
「それは、有り得ない。――だって、貴女は見たのでしょう? 貴女は、戦ったのでしょう?」
優莉から聞いた話。菜月以外に殆ど興味が湧かない彼女にしては珍しく細かい情報まで語られたので、リリアーナも詳しく知っていた。
あの日、あの時。あの場所で起こった、親子の戦いを。
悲しみ、叫び、泣き、悔やみ、恐れ、――そして狂うほどに嘆きを爆発させた、壮絶な殺し合いを。
どちらも意識は無く。けれども本能と、心の奥底にあった互いへの愛を沸騰させて、必殺の攻撃をぶつけ合う。本気で、命を奪うために。
だけれども、半ば『獣』と成りながら――『魔』の力に存在を塗り潰されそうになりながらも、ギリギリのところで最後の一線を越えなかったのは、やはり心を失っていなかったからだろう。
――相手を、愛する家族だと認識していたからだろう。
「だったら、理解しているはずですわ。もう、分かっているはずですわ。――貴女のお母様は、もう死んでしまったのだと」
告げた。全てを説明したうえで、現実を突きつけた。
これが正解だと思っていた。これが正しいのだと、リリアーナは思っていた。
――けれど。
「――かあ、さま……や、だ……やだやだやだやだ――やぁぁああああああああああああああああああああ――ッ‼」
耐え切れなくて、まだ到底受け入れられなくて。シャルロッテは絶叫し、そして気を失ってしまった。
どさり、とベッドに倒れ込む幼き少女。あどけなさが抜け切れない年下の少女を、リリアーナはただ後悔の念の籠った視線で見つめる。
「……ごめん、なさい」
ぽつりと、零れる言葉とともに雫が落ちた。
後から後から、止まらない水滴が流れ続ける。止まらない言葉が、吐き出され続ける。
「わたくしは駄目ですわ……救いようがないほどに愚かでしたわ。良かれと思って行動しても、相手の事を考えたと嘯いて正論を振り翳しても、結局のところ相手が受け入れられる準備を完了していなければ、何を言ったところでただの五月蠅い怒声でしかないと知っていたはずでしたのに……」
全ての善意が、良い結果を生むとは限らない。
段階を踏まなければ、好転しない状況もある。
今回はただ、リリアーナが早まってしまった。それだけの事だ。
――それだけの事が、例えようもないほどに苦しかった。
だから。
「ごめんなさい、シャルロッテ様」
リリアーナは、年下の少女に頭を下げる。
「……でも」
第二皇女は、決意を固めた金色の双眸で、未だ『夢』から抜け出せない少女を見詰めた。
そして、宣言する。
「わたくしは、必ず貴女をその独り善がりの『夢』から救い出して、生きるという事を教えて差し上げますわ。――我が先祖、偉大なる『煉獄の魔女』様の名に懸けて」
実は、リリアーナと優莉は似ています。
次回も宜しくお願いします。




