転章三 ソレは二度と手に入らない夢
「――い、――ル」
声が、聞こえる。
優しい、華奢で矮小な体を包み込んでくれるような温かい声だ。
いつまでも忘れられない――忘れたくない幸せなソレが、彼女の意識を柔らかに揺さぶる。
「――なさい、――ル」
酷く幸せな、気持ちの良い微睡みの中から浮上するように、だんだんと覚醒していく五感。薄くぼんやりとしていた白昼夢のような視界が晴れていくと同時、耳に張っていた不可視の膜のようなものが溶けてきて、声がはっきりとしてきた。
「起きなさい、シャル」
それは焦がれていた声。求めてやまない、愛する者の声。
何故だか少女――シャルロッテはその声を聞いた途端、胸が苦しくなった。
だがそれ以上に熱い感情が込み上げてきて――それでも。
「ん、ぅう……おはよう、母さま」
いつもと変わらない、挨拶を返すのだ。
◆ ◆ ◆
にこりと微笑みを返してから部屋を出ていった母の姿を眠気眼で見送り、お寝坊少女の一日は始まる。
陽だまりの匂いと少女の甘い匂いが混ざった白いシーツから這い出て、平民のものにしては珍しい柔らかな材質のベッドから床に足をつけると、シャルロッテは睡眠で固まった体を解し始める。一日をすっきりとした頭で始める為のストレッチ――エンフェイト家に伝わる『ラジオタイソウ』なるもの――をうろ覚えながらも二番まで終えると、次いで鼻歌混じりに着替えを始めた。
お気に入りの水色のワンピースに身を包み、平民の家には不釣り合いな芸術品である小さな鏡に映る自身を見ながら髪を整えて部屋を出る。日課の通りに洗面所で顔を洗ってからリビングに向かうと、既に朝食が整えられたテーブルを挟んで座る夫婦の姿があった。
「おはよう、父さま」
シャルロッテが挨拶をしながら母親の隣に腰を下ろすと、愛娘の存在に気付いた父が柔らかく微笑んでくれる。
「おはよう、シャル。今日もお寝坊さんだね」
「うぅ……ちょっとだけだもん」
唇を尖らせて拗ねてみせるシャルロッテに、父は朗らかに笑った。
談笑しつつ、食事が始まる。
今日のメニューはやはりいつも通りの質素なもの。と言っても、一般的な平民の朝食よりかなり恵まれた食事だが。
母が焼いた白パンを一口大に千切って口に入れ、鼻腔に抜ける香ばしい匂いに頬を緩める。街で売られている安物のような硬い噛みごたえのモノではなく、貴族が食べるような白パンに忙しい平民が朝から手を付けられるのはかなり珍しいのだが、この場の誰も気にせず穏やかな朝のひと時を楽しんでいだ。
「そういえば、シャル」
少女の小さなお腹が一杯になり、デザートのリゴンの甘酸っぱい味に舌鼓を打っていた頃、思い出したように父が口を開いた。
「今日は森に茸を採りに行こうと思うんだけど、一緒に来るかい?」
「森に? うーん、どうしよう……」
森――この近くと言えば、セルハマ大森林の事だろう。つい最近そこで迷子になり、襲ってきたルアーナッチュから通りがかりの冒険者に助けてもらったという出来事があったので、いつもなら迷わず返事をするところで少し躊躇してしまった。
するとそんな彼女の思考を汲み取って、母が上品に珈琲を啜りながら助け舟を出してくれる。
「シャルは私と一緒に編み物をするのよ。前から約束していたのですから」
「あれ、そうなのかい? 残念だ、久しぶりにシャルの弓の腕が見られると思ったんだけどね」
父と二人で森に行く時は、いつもシャルロッテの体形に合わせて作られた手作りの小さな弓を持っていくのだ。比較的浅い範囲で遭遇するホーンラビットやマッシュルームピッグを相手に射的練習をするのが日課になっている。将来冒険者になってもならなくても、この世界で生きていく為には誰しもある程度は武器が使えなければならないので、その為の訓練なのである。
因みに先日シャルロッテが一人で森に入った時に弓を持っていなかったのは、弓矢の管理を父がしていた為、無断で持ち出せなかったのである。そろそろ流石に自立しようと子供心ながらに思って森に一人で行こうと決意したが、その事を事前に告げても両親は許可しないだろうからと、武器も持たずに黙って行ってしまった。それで死にかけたのだから、二人にはこっぴどく怒られた後、随分と泣かれてしまったものである。
ともあれ、シャルロッテは母の言葉に頷き、
「うん、今日は編み物する。……ごめんなさい、父さま」
シャルロッテが謝罪の言葉を口にすると、父は少し残念そうにしながらも笑みを作って、
「いや、いいんだ。また今度一緒に行こう。今日はたっぷりお母さんと遊びなさい」
「うんっ」
『また今度』の約束をして、シャルロッテは無邪気な笑みを浮かべた。
――少しだけ、胸が痛くなったけれど。それを無視して、少女は笑顔を見せる。
◆ ◆ ◆
「それじゃあ行ってくるよ」
「はい。行ってらっしゃい、カリムさん」
「行ってらっしゃい、父さま」
使い込まれた長剣と解体用の短剣を腰に付け、背中に弓と矢筒を背負った父を玄関から見送ると、妖精種の女性と半妖精種の少女は編み物を始める準備をする。
家事が一通り終わったのは十の刻の鐘が鳴った頃。それから日当りの良い場所にロッキングチェアを二脚設置し、編み棒と毛糸を用意すると、それぞれの好みを知り尽くした母がブレンドした珈琲――シャルロッテはカフェオレだが――を丸いミニテーブルに置いて、二人は安らぎの時間を始めた。
因みにロッキングチェアや珈琲の豆は、シャルロッテの祖母が齎した高級品である。一般人では手の届かない、貴族でも軽々しく出すのは躊躇するような品なのだが、どうして祖母はそんなものをポンポンと置いていくのか良く分からない。母に祖母の事を聞いても苦笑いではぐらかされてしまうので、最近では『そういう人』だと納得する事にしている。
細かい作業に悪戦苦闘し、何度か母に教えてもらいながら編み続ける。麗らかな陽光が気持ちよく、少しだけ眠くなってしまうが――しかし、眠ってしまうのは惜しいと、うつらうつらと舟を漕ぎながらも手を動かす。
「シャル」
少し瞼が落ちてしまいそうになった時に、母が声をかけてきた。
「眠いのなら、眠ってしまいなさい」
「……ううん、編み物する」
「そう」
眠気を誘うようにゆっくりと揺れるロッキングチェアに座り直し、眼を擦ってシャルロッテは再び編み物に取り掛かる。
その姿を愛おしそうに眺め、母は優しく訊いてきた。
「シャル。昨日は何時まで起きていたのかしら?」
「え? う、うーんと……な、何時だったかなぁ」
目を逸らしてしらばっくれる様子は明らかに怪しい。しかし母はあえてくすくす笑うだけに留めると、「何時でも良いけれど」と続けた。
「二十の刻の鐘が鳴るまでには寝なさい。でないと、次の日起きられなくなってしまうわよ? 今日みたいに」
「う……きょ、今日はそんなに起きる時間遅くなかったもん。昨日だって二十二の刻の鐘が鳴るまでには布団に入ったし…………あ」
思わず口走ってしまった事に気付き、顔を赤くするシャルロッテ。
愛娘の不健康な睡眠時間の告白に母は、彼女の母――シャルロッテから見て祖母――譲りの切れ長の眼を細めて、
「ふぅん……二十二の刻、ね。そんな時間まで、一体何をしていたのかしら?」
「え、えと……あ、あははは…………精霊術をちょっと」
「精霊術? 練習していたの?」
少し驚いた様子の母に、シャルロッテは恥ずかしそうに頬を染める。
「うん。もっともっと強くなって、あの冒険者さんみたいに凄い魔法が使いたいから」
脳裏に浮かぶのは、セルハマ大森林で迷子になった時の事。あの恐ろしいルアーナッチュを火の魔法で一撃で葬り去った彼の姿は、シャルロッテの中で幾分美化されて記憶されている。
火を自在に操る大魔道士――そんな英雄のように見えてしまったのは、幼き少女だから仕方のない事だろう。そしてそんな彼に自覚無き恋心を懐いてしまったのも、或いは必然と言える。
ともあれ、そんなシャルロッテの内心を見透かした母は、誰かと重ね合わせるように懐かしむ表情を浮かべて、柔らかい手付きで愛娘の頭を撫でた。
「そう。それは良いわね。シャルなら、きっと出来るわ。私の自慢の娘なのだから」
「えへへ……ありがとう、母さま」
ふわりと優しく髪を梳く母の手に、シャルロッテは嬉しそうに目を細めた。
慈しむように撫でてくれる母親の手が、柔らかく微笑んでくれる母親の雰囲気が、――家族と一緒に過ごす時間が、シャルロッテの一番好きなものだった。
薄く開いた窓から微風が流れ、シャルロッテの肌を撫でた。
母親の愛に――優しさに包まれるように、シャルロッテは微睡む。
瞼に余計な力を入れる必要はない。この幸せな時間に身を任せ、閉ざすように溺れるだけで良い。
「シャル」
愛しい声が、聞こえる。
甘くて、柔らかくて――全身を優しく包み込んでくれるその声が、とてもとても幸せで。
何も考えられない。脳が麻痺した訳でもなく、意識が崩れる訳でもなく、ただただ幸せを貪るように――微睡みの中に、溶け込んでゆくのだ。
「私の可愛いシャル」
狂うほどに愛おしさが伝わって。
親愛を急くほどに苦しくなって。
醜くもがいて、痛々しいほどに足掻いて、必死に手を伸ばして――それでも。
決して届かないと、心の底で理解していようとも。
「今は、おやすみなさい――」
永劫に閉ざされた輪の中に、囚われてしまうのだ。
幾度も幾度も、何千何万と終わる事のない、その微睡みに。
――でも。
ソレは、二度と手に入らない夢だから。
◆ ◆ ◆
――目覚めないで。
◆ ◆ ◆
「――い、――ル」
声が、聞こえる。
優しい、華奢で矮小な体を包み込んでくれるような温かい声だ。
いつまでも忘れられない――忘れたくない幸せなソレが、彼女の意識を柔らかに揺さぶる。
「――なさい、――ル」
酷く幸せな、気持ちの良い微睡みの中から浮上するように、だんだんと覚醒していく五感。薄くぼんやりとしていた白昼夢のような視界が晴れていくと同時、耳に張っていた不可視の膜のようなものが溶けてきて、声がはっきりとしてきた。
「起きなさい、シャル」
それは焦がれていた声。求めてやまない、愛する者の声。
何故だか少女――シャルロッテはその声を聞いた途端、胸が苦しくなった。
だがそれ以上に熱い感情が込み上げてきて――それでも。
「ん、ぅう……おはよう、母さま」
いつもと変わらない、挨拶を返すのだ。
大変遅くなりました。次回より第三章に入ります。
次回も読んで頂けると有り難いです。




