第五十話 ふざけるな、と叫んでも
菜月がイアミントと魔法戦を繰り広げていた頃、一条優莉はシャルロッテの母親だった化け物と戦闘しつつ大部屋を出ていた。
淡く銀光を纏わせる紫苑の髪を靡かせながら乳白色の廊下を駆けるその姿は、美しいの一言に尽きる。されど今の彼女を肉眼で捉えられるほどの動体視力を持つ者は少ないだろう。それほどまでに速く彼女は足を動かしていた。
菜月と離れるのは本望ではない。だが出来れば、力を使う姿を自分の愛する人に見せたくなかった。
「ガアアあアぁアアッ!!」
悪鬼の如き怨嗟の声が廊下に響く。
同時に化け物の長い爪刃が振るわれ、それを優莉は血器長剣で弾いた。流れるように繰り出される右蹴撃を後ろに下がって躱し、続く蛇尻尾の噛み付きを容赦なく長剣の刃で斬り裂く。されど硬質なその皮膚には浅い傷しか入れられず、優莉は舌打ちを零して後方へ跳んだ。
化け物の皮膚は恐ろしく硬い。まだ使い手の腕が悪いとは言っても、『血器術』で生み出した武器はミスリルすらも豆腐の如く切り裂くほどの切れ味を誇るのだ。それを浅い傷程度で受け止めてしまうこの化け物に、一体どんな攻撃が通用するというのだろうか。
優莉の目的は殺す事ではなく無力化。菜月に指示されたそれは、しかし彼が思っている以上に難しい。
かといって諦める訳にもいかない。優莉は両の手に握る血器長剣を構え直し、再び攻撃を加えてくる化け物を弾き返す。強くノックバックさせ、追撃として事前に作っておいた傷口から血を操って『血器術』で飛ばした。
短剣の体を成して放たれた血はしかし、無造作に振るわれた化け物の腕に薙ぎ払われてしまう。次いでノックバックで崩されていた体勢を整えた化け物は膝を折って足に力を溜め、それから爆発させるような勢いで優莉に殴りかかってくる。
「影よ喰らえ」
対して優莉は灯りとして壁に掛けられていた太い蝋燭を取って化け物に向かって投げ、同時に『事象』を組み込んだ呪文をすらすらと読み上げて魔術を発動させる。放物線を描いて宙を泳いだ蝋燭は優莉の狙い通り化け物の面前へと到達すると、その灯された火によって作り出された影が蠢き、化け物の脚部へと突き刺さった。
「アギャッ!? ぐ、ガぁアッ!!」
鋭く尖った影に肌を食い破られた瞬間に潰れた悲鳴を上げた化け物だったが、しかしすぐに噛み殺す勢いで唸って影を脚で強引に薙ぎ払った。ぶちぶちと肉や血管が千切れる音が立つが、気にせず化け物は出血するその足で再び床を蹴る。
(痛覚は一応あるみたいですね。辛うじて、程度でしょうが)
化け物が悲鳴を口から漏らしたのは、恐らく痛みでというより、蠢く影が肉を食い破って体内に侵入してくる気持ち悪さからだろう。
優莉の扱う魔術は【影】。一条の血筋に遺伝する魔術性質とは別のものだが、こちらの方が彼女には合っていた。
長く修練を積み研究を続けてきた魔術なので、少なくとも半月程度しか触れていない『血器術』よりも効果的にダメージを与える事が出来るようだ。体内まで攻撃が通る事は確認出来たので、いざとなったらこの魔術で仕留めれば良い。そう考える事で、少し楽になった気がした。
しかし無力化は難しいだろう。影は化け物の膂力には耐えられないようなので、拘束するのも一筋縄ではいかない。
(ともあれ、先輩に言われた通りにしないと嫌われてしまいますし)
なんとしてもこの化け物を無力化しなければならない。菜月から嫌われる事だけは、絶対に避けなければならない事なのだから。
冷静に頭を回転させながら、優莉は血器長剣で化け物の攻撃を捌いていく。
低く体勢を落とした化け物が下から打ち上げるような形で拳を放ってくるのを優莉は体を引いて躱し、続く左側からの足払いを長剣を先回りさせて斬り返す。強烈な脚撃は多大な衝撃を生み出して少女の細い腕を痺れさせるが、優莉はすぐさま身をかがめ、力で押し切られる前に剣の腹を使って足を頭上へ逃がした。
「グ、オオッ」
しかし外れた攻撃に頓着せず、化け物はすぐさま次撃として左拳を突き出してくる。無茶な体勢でも無視出来ない威力を孕んだそれを優莉は体を捻って回避すると、突き出された腕の横を通過するついでに刃を走らせた。深く斬り込んだ筋からおびただしい量の鮮血が吹き出す。
だが二の腕の半ばまで斬り裂いたところで化け物が右手で横薙ぎに払ってきたので、太い腕から剣を抜き、姿勢を低くしたサイドステップで回避。後ろへ回り込むように体を動かしながら血の短剣を飛ばし、相手の斜め後ろの低い位置という死角から長剣を突き出した。
その恐ろしく速く流れるような動作は、常人では全く反応出来ずに串刺しにされていた事だろう。だが化け物は、生物の限界を打ち破る気で手を加えられた異常生物。振り返りざまに短剣を打ち落として叩き割ると、その人知を超えた勢いを保ったまま右手で優莉を薙ぎ払った。
「きゃっ」
咄嗟の反射で血器長剣を化け物の右手にぶつけるも、しかし化け物の剛力は優莉の体を易々と吹き飛ばしてしまう。
小さく痛みを噛み殺す為に悲鳴を上げ、空中で素早く体勢を整えた彼女は服の袖に隠していた短剣を投擲する。
金属の刃程度では化け物の皮膚に傷をつける事は難しいだろう。だが化け物の無造作な薙ぎ払いによって打ち砕かれる筈だったその刃に紋様が浮かび上がり、優莉の魔力が宿ったそれは一瞬の明滅ののちに起爆した。
それは爆発を象徴する紋様を刻み込み、対象物を中心に起爆させる【刻印】の魔術。【影】の魔術に次いで優莉の得意とする魔術だ。
小型爆弾と化した短剣は爆炎と共に乱雑に割れた鉄片を散らし、細かい刃は化け物の肌を爆発の勢いで以って傷つける。化け物は顔を守るように右腕を掲げたようで、その呪いの浮かぶ太い腕は皮膚が抉れてズタズタだ。その強度の低い傷口へ、優莉は二本の長剣を叩きつける。
交差するように振るわれた長剣の刃は見事なクロスを描いて鮮血を散らし、次いで体を回転させながら放つ横薙ぎは化け物の腹の皮を裂いた。前者は骨を断てず、後者は刃が届かず深く斬り込めなかった為に痛恨の一撃とはならないが、しかし今までに無く多量の血を流した化け物は驚愕と怒りを顔に浮かべた。
「ガァァアアアアアアッ!!」
喉を焼き切らんばかりに酷使して発せられた雄叫びと同時、化け物が大振りの叩きつけを繰り出した。
隙が大きい攻撃なので躱し易いし反撃も加え易いが、しかしその威力は到底無視出来るものではない。安全マージンを維持する為に大きく後方へ跳び、牽制として血の短剣を放つが――その刃で脇腹を抉られる事を気にも留めず、化け物の腕は足元の床を破裂させた。
ズゴドォッ!! と石片や埃が火山の噴火の如く猛烈な勢いで噴き上がる。
(……目眩まし、でしょうか?)
だとすれば期待外れだ。優莉は素早く術式を構築し、発風の紋様を刻んだ短剣を放とうとして――ぶるりと悪寒が体に走る。
「――ッ」
殆ど反射で体を横に投げだした。
その第六感が功を成し、一瞬前まで優莉が居た場所で、七筋の水式レーザーが空間を蹂躙した。
(これは、魔術っ!? エレメント系統の【水】……いや、これはイデア系統の【精霊】ですかッ!)
頭の中で素早く答えを導き出しながら、体を一回転させて着地。ほぼ同時に化け物に向かって三本血の短剣を放ち、時間を稼ぐように後方へ大きく跳ぶ。
系統――大抵の魔術は属性的事象系統と概念的事象系統の二種類に分類される。
【影】や【刻印】は変質的な用途の多いイデア系統に属し、【水】や【火】などは直接的な運用方法が多いエレメント系統に属する。どちらが強いといった事は無いが、メインに研究するのはイデア系統のものとし、血筋や師事に関係なく扱い易いエレメント系統を戦闘に用いる魔術師が比較的多く見られる。
優莉は血や気性、魔術性質などが合わない為にエレメント系統は最低限しか会得していないが、今あの化け物が使った魔術がエレメント系統ではなくイデア系統に属するものだと見破る事は出来た。
何故この化け物が魔術を使う事が出来るのか――それは、優莉がシャルロッテの同行を許可した時に考えた事と一致するのなら、説明が付く。
「セイレイよッ!」
化け物が怒鳴るように命を発する。同時に魔力が放出され、術式が展開。先ほどの言葉を呪文として、命令の通り水の精霊が水の刃を走らせた。
化け物の魔力回路は異常に強靭なのだろう、制御は甘く術式も雑だが大量の魔力を含んだ水刃は、打ち消す為に振るった血器長剣を半ばから切り裂いてしまった。
「なっ!?」
まさか『血器術』で作った武器を破壊されると思っていなかった優莉は驚愕を口にする。
その一瞬生まれた隙を突いて、化け物が俊足の体運びで優莉の懐に飛び込むと、非常に痛烈な蹴りをぶち込んできた。
「あがぐッ、ごふっ!」
捩じりを加えて叩き込まれた脚撃の衝撃が少女の腹部を破壊しに掛かった。
血と胃液を吹いて弾き飛ばされた優莉はその体をくの字に曲げたまま壁へと激突、乳白色の石材に蜘蛛の巣状の罅を入れてその勢いを四散させる。
灼けるような痛みはやはり直撃した腹部が一番強い。骨が折れずに済んだのは魔力で強化されていたお陰だろうが、今ので臓器が幾つか破れた。恐らく数え切れないほど千切れた毛細血管から溢れた血が肌を青に染めているだろう。下手に肌が強化されていると血が逃げなくてこういう時は困る。
一条家で施された訓練の賜物か、異常に冷静に働く脳で自身の現状を判断すると、優莉はすぐさま立ち上がって新たな血器長剣を作り出した。折れた一本より多く血を使って頑丈にしてあるので、今度はそう簡単には折れないだろう。その代わり、かなり血と魔力を消費してしまったが。
一瞬くらっとした頭を振って、優莉は紅い血の双剣を構え直すと、音もなく地を蹴って斬りかかった。
ずっと本気で剣を振るい魔術を行使しているが、別に無力化を諦めた訳ではない。『血』の力を使ったり首を斬るなど一撃で屠ろうとしたりせず、徐々にダメージを蓄積させて体力を奪っていけば、いずれ魔術による拘束が出来ると考えているからだ。
だが化け物が魔術を使った為、その勝機は薄くなった。
最悪の場合は『銀虐魔王の血脈』を使って殺す事になるだろうが、その時は仕方ない。もとより無力化したところで、菜月には悪いがこの化け物をシャルロッテの母親に戻す事は不可能なのだから。
肉体だけなら、多少の後遺症が残るだろうが、『魔法解除』で何とか出来たかも知れない。
だが、これはあまりにも精神体が傷つき過ぎていた。
『魔法解除』でイアミントの魔法を打ち消したところで――それも技量が著しく劣っている為に難しいのだが――、元の人格が戻る保証はない。良くて記憶の激しい欠如、次善で人格の大きな変化、最悪目が覚めない植物状態の可能性もある。
果たして母親がそんな状態になって、シャルロッテは喜ぶのか。
答えは、否。死ぬよりましだと思うか、殺してあげた方が母の為だと思うかは分からないが、どちらにせよ救えない。
(……そうなるくらいなら、今ここで殺した方が良いんでしょうかね)
心の中で思いつつ、実行する気は優莉には無いが。
最善は意識を奪って無力化、次善で四肢を欠損させて行動を封じる。魔力切れを狙うのは明確な量を予測出来ないので実質不可能だとすれば、魔術での抵抗をさせないように最悪でも目潰しと耳切り程度に留めておくのが良いか。
物騒な事を魔術師の少女は真顔で考えながら、左手の血器長剣で化け物の左腕を裂く。頑丈さと共に切れ味も向上させていたソレは太い腕を手首の辺りで切断し、もう片方の剣を傷口に刺し込んでぐるりと掻き混ぜるように抉った。
痛覚が鈍いのか悲鳴は無い。だが中身をぐちゃぐちゃにした左腕を使い物にならないと判断した化け物は、再生の為に魔力と生命力を傷口に集中させつつ右手で優莉を追い払う為に爪を立てて振るう。
酷く鋭利なそれを優莉は掻い潜り、脛へと刃を走らせた。力を再生に集中させている今、肉体強度の強化に回す分が減っている為に易々と剣は骨を通過する。だが完全に断ち切る前に魔術発動の前兆を察知した優莉は、剣を脚に刺したまま手放し横へ跳ぶ。
直後、ズジャッ! と高圧縮された鉄砲水が石造りの床を穿った。
一撃で終わらず水撃は連続して優莉を追ってくる。飛沫を散らして連射される水式レーザーを走って避け、途中で相手の攻撃を遮るように刻印入りの短剣を放つが、爆破や小竜巻程度では効果が薄いようだ。
優莉はインベントリーから鉄貨を十枚取り出し、化け物の周囲にばら撒く。
意外にも考える頭はあるのか、無害だと判断した化け物は鉄貨を無視して魔術を放ち続ける。その様子ににやりと笑みを浮かべた優莉は、素早く呪文を唱えて術式を展開させた。
「裏に忍ぶ影よ、疾く其の光を刺し穿てッ」
鉄貨の裏面を無理やり『影の面』と仮定。そして優莉の思想通り、ちょうど裏面が化け物に向いたところで鋭い影の槍が飛び出す。
「グぁッ」
前に足を刺されて気持ちが悪かった事を覚えていたのだろう、化け物はその影の槍を躱し、片腕で弾くが――しかし量が多い上に、鉄貨は化け物を囲むようにばら撒かれている。四方八方からやってくる穂先を捌き切れなくなった化け物の脇腹を削るように槍が通り、右足を貫いた影がそのまま床と縫い止めてしまう。
足に力を入れて影を引き千切ろうとする化け物。だが優莉はすぐさま短剣をもう片方の足へと放つ。
その刃が刺さった瞬間、刻印の象徴する通りの効果が化け物に現れる。
「――封紋静止印」
言葉と共に魔法陣が短剣を中心に展開。キィン、という甲高い音が場に響いた瞬間、化け物の足が固まった。
「が、アア!?」
困惑の声と焦る表情。上半身は動くのに、影に縫い付けられて動かせない右脚と、まるで金縛りにでもあったかのように己の意思が反映されない左脚。どちらも動かないのなら、それ即ち優莉の次の攻撃が躱せないという事だ。
悠然と近づく優莉は、薄暗い廊下で鈍く輝く血器長剣を振り上げる。
「とりあえず、その腕を貰います」
そして、刃を振り下ろし――。
その瞬間だった。
研究所全体に視界が揺らぐほどの揺れが走った。
「――……、菜月先輩と、魔女の魔法でしょうか」
激震の発生源を推測しつつ、優莉は一度下した剣を再び振り上げた。
――だが今度もまた、その刃が化け物の腕を斬り裂く事は無い。
「……ころ、して……」
化け物の口から、その言葉が零れ落ちた。
「――――」
それは、自我を失った化け物ではなく。
間違いなく、元の人格――シャルロッテの母、ミシア=エンフェイトのものだった。
「はや、く……わ、たしが、抑えら、れている、間に……お願い……ッ」
苦しそうに呻き、己の死を優莉に催促するミシア。
だが優莉はその願いを聞く訳にはいかない。酷な事だと思いつつも、優莉は冷めた声で問い掛ける。
「貴女の力で、どうにか制御出来ないんですか?」
それが出来れば、或いは菜月の力でどうにか出来るかもしれない――そう思った優莉だったが、しかし現実はそう上手くいくものではない。
「ご、めん、なさい……それは、難しい、わ。……だ、から」
「わたしに、殺せ、と?」
「……酷い、こと、だ、と思うわ……。でも、そう……するし、か……」
方法は無い――全てを悟ったような悲痛な笑顔を浮かべて、ミシアは言う。
その表情が酷く不快で、優莉は眉を顰めた。
しかしそんな表情の優莉に、ミシアは希望を託すように掠れた声で己が願いを口にする。
「……シャルを……お願い、します。私の……可愛い、娘……シャルロッテ、を……」
自分の娘を託す――会ったばかりの他人に頼むような内容ではない。だがミシアは、この少女になら任せられると知っていた。
それが優莉にとって酷く不快で――ぎりっ、と奥歯を強く噛み締めると、肩を震わせながら低い声で言った。
「……ふざけないでください」
「え……?」
始め、何を言われたのか分からなかったミシアが、訊き返す。
伝わらない思いにカッとなった優莉は、珍しくその激情を表へ出し、怒鳴った。
「ふざけないでください、と言っているんですッ! なに人任せにして自分だけ死のうとしてるんですか。努力してください、愛する人を守る努力を! 最後の最後まで足掻いて、守り切ってみせるという気持ちが貴女には無いんですかッ!!」
それは悲痛な叫び。
失った何かを求めるように、もう二度と手を取れない悔しさを嘆くように、目の前の女を何かと重ねて少女は叫ぶ。
「……でも、私は、もう……この姿じゃ……」
だがミシアは、諦めるしかないと口にした。
その姿が、声が、酷く不快で――。
「ふざけるなッ!!」
いつもの丁寧な口調が吹き飛ぶほどに、その激情は荒れ狂っていた。
殺気すら籠るその視線を、怯えたように身を竦める女に向け、血が滲むほど強く剣柄を握り締めながら、優莉は畳みかけるように怒鳴りつける。
「貴女が……貴女がやらないで、誰がシャルちゃんを守るの……っ! 守る事が出来るのに諦めるなんて事……わたしの前でしないでッ!!」
それはただの押しつけ。頭の冷静な部分では分かっていながらも、しかし言わずにはいられなかった。
その言葉に、ミシアは眩しそうに目を細め――だが、それでも。
「…………ごめん、なさい」
赤黒い涙をその深い蒼穹の瞳から流しながら、震える自らの腕で、胸を刺し穿った。
「――っ!!」
血飛沫が吹き出す。圧倒的な紅がぼたぼたドロドロと床を濡らし、そして心の臓を貫く腕が引き抜かれる事もなく、血の海へとその呪われた体を倒した。
バシャッ、と飛び散った血液が優莉のソックスを濡らす。侵されない白に赤黒い斑点が浮かび、消える事を許さぬかのように滲んだ。
「……何故」
――何故、守らない。守ろうとしない。
ぽつりと零したその声は、薄暗い廊下の闇に消える。
ふと、脳裏にある少年の顔が浮かんだ。
温かいその笑顔は――菜月によく似たその笑顔は、優莉の心を柔らかく溶かしていくようで――。
しかし、ぽかりと空いたその穴は、それだけでは埋まりそうにない。
「…………」
思考を閉じる。
考えるな。思い出すな。今は、彼がいるのだから。
「…………」
そう言い聞かせるように心の中で繰り返し、優莉はミシアの死体に魔術で火を放ってから、歩みを再開した。
今はただ、愛する彼のもとへ――。
次回も読んで頂けると有り難いです。




