第三話 異世界最初の遭遇者
少し場面が変わりますが続きです。
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緩やかな昼風が木々を揺らし、葉の間から落ちる木漏れ日が少女の肌を撫でる。世界を照らす三つの太陽は今日も変わらず暖かかったが、鬱蒼とした森の木々が陽光を遮り、僅かに漏れ出る以外に明かりはない。故にか、エミルフィア近郊域の南西部に位置するこの森――セルハマ大森林に立ち入る者はほとんどおらず、いても数分で森から出られるような外周部にしか立ち寄らない。
(……うう、しまったな……。奥に入りすぎちゃった……)
少女は髪色と同じ黄緑の眉を不安そうに顰めると、僅かに顔を上げ空を仰ぐ。だが当然、木々の葉に覆い隠されているため蒼穹を拝むことは叶わない。三つもあるはずの太陽は一つも目にかけられず、薄暗く足場も悪い獣道は今年で十二になったばかりの少女の体力と精神力をがりがりと削っていった。
さわさわと風に緑葉が踊る。それに伴って幻想的に揺らめく木漏れ日は、見る者によっては美しいと感じられるものだったが、不安に苛まれる少女にとってはまるで人魂のように遊ぶ陽光は恐怖を覚えるものだった。
少女の名は、シャルロッテ=エンフェイト。
ふわふわとした若草色の髪を編み込み、邪魔にならない程度として肩をくすぐるラインで整えている。不安げに垂れる眼に覗く瞳の色はシアン。同年代の少女と比べればやや幼いが整った顔立ちと身長が低いことも相まって、周囲の子供扱いは抜けていない。ただ本人の大人しい性格から目に入れても痛くないほど可愛いと家族から可愛がられて、これまでの十二年を生きてきた。そのためか、碌に外――それも街から外れた場所での振る舞いを知らず、少し木の実を取って帰ろうと思っただけなのに置くまで踏み込んでしまったのだ。
シャルロッテが森に入ってから既に五時間が経過している。早朝七時に出かけたため今は一二時頃だろう。
セルハマ大森林はエミルフィアと呼ばれる『前線都市』の近郊域南西部から、さらに南――アルバトリア王国領の手前まで広がっている。大森林の名に恥じぬ広大なここは、魔物の出現こそ滅多に無いが、時たまテリトリーを築く凶暴な動物がおり、冒険者でもないか弱い少女にとっては非常に危険な場所だった。
(ベ、ベリーベアがいたらどうしよう……。まだわたしの精霊術のレベルじゃ対処なんてできないし……食べられちゃうのかな)
不安に駆られたシャルロッテは更に危険な事態を想像してしまい、ぶるりと身震いし全身から産毛が立った。白の外套のフードを深く被り直し、普通の人間とは違った長い耳を左手で触りながら身を縮め込ませる。
シャルロッテは半妖精種だった。
父が人間で母が妖精種。二人は遥か東方のレンリ地方の国から冒険者としてエミルフィアまで来、そこでシャルロッテを産んだ。シャルロッテを出産して以来母は体が弱り冒険者家業を続けることはできなくなってしまったが、もともと稼いでいた分があるため贅沢しなければ父が稼ぐ分だけでも十分生活していけるだけの金はあった。手の空いた母はシャルロッテに自身の手で――学校などの施設は学費が高価なため貴族にしか通えないので――教養を施し、この世界で生きていくために当然として必要となってくる護身術として弓術、妖精種の血が混ざっている者にしか使えない精霊術を教えた。
お陰でシャルロッテは弓で兎を仕留める事が出来るようになり、精霊術はいっぱしの冒険者が使う魔法にも後れを取らないほどに成長していた。
ステータスウィンドウを覗けば、シャルロッテのような十代中盤の少女にとってはかなりの良値を目にかけることが出来る。しかし精霊術はともかく基礎体力値や基礎筋力値等はなりたての冒険者にも届かない。もしシャルロッテが冒険者を目指すのなら、最低でもあと二年ほどは修行が必要だろう。
「っ、」
両親のことを思い浮かべ、シャルロッテの目尻に涙が浮かぶ。
引っ込み思案気味なシャルロッテに友達はなく、こうして森まで来るのも一人だった。
いつも両親が寄り添ってくれていた。だがそれでは駄目だと思い立ち、ここ最近からシャルロッテは一人で森などに出かけ、木の実を採ったりや小動物を狩ったりと少しでも自立できるように行動し始めていた。
しかし、それでもすぐ外に出られる外周部近くで遊んでいるようなもので、こうして奥まで来るようなことは一度も無い。今、シャルロッテが奥まで踏み込んでしまっていたのは、不思議な虹色の羽を持った蝶を好奇心に負けて追ってきてしまったからだ。そして蝶を見失ってから自分が見慣れない奥地まで入り込んでしまっていた事に気づき、冷静さを欠いたまま森を無闇に歩き回って今に至る。
と、そこで不意に少女の腹がきゅううと悲鳴を上げた。
(……お腹空いてきちゃったな)
時刻は既にお昼時。いつもなら家に帰って温かい昼ご飯を家族円満で囲んでいるか、母が持たせてくれた弁当を食べるかしている時間だ。だが今日は昼には戻る予定だったため弁当は持っていない。
幸い精霊術で水分補給が出来るので一日二日は持つだろうが、十二の少女が広大な森で遭難――しかも凶暴な動物が出る可能性のある場所――して無事生きて帰る事は、この世界では難しかった。
シャルロッテは歩き疲れた足を止め、右腕にかけている木の籠に目を向けた。
籠の中には、森に入ってからシャルロッテが集めた木の実や食用の草類、安全なキノコなどが入っている。本当は家に帰って全て母に渡すつもりだったが、少し食べてしまっても問題ないだろう。それに、ここで行き倒れてしまっては元も子もない。
シャルロッテは中から少し大きめの黄色い果物を取り出すと、精霊術で生成した水で汚れを洗い流して一口齧った。瑞々しく甘い味が口内に広がり、少しの酸味を含んだ果汁が喉を潤す。
もしこの果実を菜月や憂莉が口にしたのなら、間違いなく「林檎」と答えただろう。
この黄色の果実――リゴンは、林檎に近い味を持ち、また皮の色は違うが果肉の色は似たような薄黄色だ。この世界では平民にも貴族にも多く愛されている果物で、密林や樹海、少し乾燥した平原でも実を付けるような万能な植物だ。故に世界中に広まっているのだ。金を払って食べていけないような貧民でも近くに実が成っていて何とか食い繋げていけるような栄養分もあり、健康にも良い成分が多く含まれている。
反面、熟したものでなければ実は青く酸味が強くて食べられないのだが、それはそれで果汁を香味料として使えるのである。用途としては、菜月達が居た世界でいうレモンやバジルのようなものだ。
(……甘いなぁ)
シャルロッテが口にしたこのリゴンは良く熟していたようで、空腹だった少女はあっという間に丸々一個食べきってしまう。もう一つ食べようか迷い、籠を覗いた――その時。
「――ガァァァァア!!」
周囲の木々をビリビリと揺らす雄叫びが上がった。
「ひっ」
シャルロッテはビクッと矮小な体を震わせ、その拍子に籠を落としてしまう。だがそれを拾おうという気持ちは、雄叫びの上げたものを目に捉えたことで霧散してしまった。
シャルロッテの背丈の倍以上はある巨体。全身は浅黒い体毛で覆われ、体を支える二足は樹の幹のように太く筋肉質だ。厳つい爪を生やした前足は小さな少女など軽く握り潰してしまう程の怪力を持っていることが一目見ただけで分かる。
餌釣り大熊。頭からまるでチョウチンアンコウのようにナッツをぶら下げた姿が特徴的な大熊だ。名前は可愛いのだが、自身のテリトリーに侵入した者は容赦なく攻撃するという凶暴性を持っている。チョウチンアンコウと同じように頭からぶら下げたナッツで獲物をおびき寄せ、釣り上げる姿からその名がついたのだ。ちなみにこれは余談なのだが、ルアーナッチュが頭からぶら下げているナッツは、この世界ではナッチュという。
(駄目、駄目駄目ッ! に、逃げ、逃げなきゃ……っ!)
恐怖に頭の中が真っ白になり、必死に逃げようという思いだけが表に出る。だが脅え震える体は言うことを聞かない。
「グゥルルルル……」
低く喉を振動させて唸るルアーナッチュ。不気味に赤く光る眼がいたいけな少女を威嚇し、震え上がらせてしまう。
逃げなきゃいけない――だが、動けない。
今までシャルロッテは、これほどの恐怖を身に感じたことは一度しかなかった。
しかしその時は傍に母がいた。心強い父もいた。
――でも、今は一人だ。
「グアアッ!」
全身を蝕む恐怖に動けないシャルロッテに、好機とばかりにルアーナッチュは牙を剥く。強靭な後ろ足をバネに地を蹴り、その巨体からは予想できないほどの俊敏さで駆けた。
迫り来る死。水分を取ったばかりの口内はすでにカラカラに乾き、脚はガクガクと震え、棒のように動かない。
(たす、助けて、かあ様っ、とう様っ!)
必死に目を瞑り、縋るように、祈るように心の中で叫ぶシャルロッテ。
そして、次の瞬間にはシャルロッテの身体はルアーナッチュの鉤爪によって引き裂かれ――
「【炎球法式】」
「――グギャアッ!?」
「……………………え?」
いくら待っても、シャルロッテの体には傷一つ付けられることはなかった。
代わりに耳に届いたのは、魔法の名を呼ぶ声と、今まさにシャルロッテの体を引き裂こうとしていたはずのルアーナッチュの悲鳴。そして――
「うお、すごっ! 魔法かっけぇな!」
――そんな、歓喜を上げる少年の声だった。
何が起きたのか分からず、閉じていた瞼を開いたシャルロッテの目に映ったのは、見慣れぬ服装をした茶髪の少年と、同じく見慣れぬ服装をしたツインテールの少女の姿だった。
先程まで目の前に迫って来ていたはずのルアーナッチュはどこへ行ったのだろう。真っ先にそう思ったシャルロッテは視線をさ迷わせると、右側の離れた木に衝突しプスプスと体毛を焦げさせたまま項垂れる熊の姿が目に入った。
間違いなく、先のルアーナッチュである。
チャームポイント(?)の提灯ナッチュは割れ、だらしなく開かれた口からは黒々とした血液とその他熱せられて異臭を放つ体液が漏れ出ている。最も煙が上がる腹部は、硬く守っていた体毛が焼き払われ顕わになった皮膚が爛れていた。
その様子をシャルロッテと同じく眺めていた少年が、少し不満そうに呟く。
「うーむ……でもやっぱ火力が強過ぎるな」
「でもまだ初めてですし、上出来だと思いますよ?」
少年の横に寄り添うように並ぶ少女がそう返した。それに少年は「まあ、そうだな」と苦笑しながら頷く。――だがそれは、シャルロッテには理解できない言語で話されていた。
それから少年は、突然の出来事に硬直してしまったシャルロッテに目を向けると、ややぎこちない笑みを浮かべながら口を開いた。
「えっと、言葉は通じる……よな? 大丈夫だったか? あ、俺は通りすがりの旅の者的なやつだから、決して怪しい者ではなくてだな……」
少年から発せられたのは、先程ツインテールの少女と会話していた時の聞きなれぬ言語などではなく、ここ、シュルフィード地方での共通言語として使われているシュルア語だった。
こくこくとシャルロッテが脅え気味に頷くと、少年は安堵の息を吐き、次いで頭を掻きながら続ける。
「よし。聞いたこともない言語なのに理解できて話せるって結構違和感があるんだが……まぁいいや」
「確かにそうですね。言語形態としてはフランス語に近いでしょうか。書きの方はまだ文字を見ていないので分かりませんが」
「……お前フランス語もできるのか」
「一応、最低でも六ヶ国語は読み書きできるようになっておけ、と家に言われていたので」
「すげぇな。六ヶ国語とかどっかのゲーマー兄のようだ。つか、そういやお前の家って名門一条家だったか。大変だなー」
少年は本当に感心したような様子で少女を褒めているが、少女の眼は終始据わっていた。それも、シャルロッテをじっと睨みつけているようである。
シャルロッテはルアーナッチュの脅威が去って落ち着いてきていた体を再びがくがくと震わせ、脅えた子猫のような目つきで少女と少年を見上げる。身長一三五センチほどしかないシャルロッテにとっては少年はずっと高く、少女の方も十センチ以上の差があるため、見上げることしかできないのだ。
シャルロッテの脅えた様子に茶髪の少年が気付くと、慌てて少女の脳天にチョップを喰らわせた。すると少女は恍惚とした表情を浮かべる。その様に少年が一歩引き、少女がすぐさま距離を詰めた。少女は頬を上気させているが、反対に少年の方は表情が引き攣り視線が少女の顔ではなく手――そしてそこに握られている銀刃の短剣に向けられていた。
揺れ動く木漏れ日を刃が反射してぎらりと輝くと、少年が顔を青褪めさせながら必死に叫ぶ。だがその言葉はまたシャルロッテの知らない言語に戻っており、焦っていることは表情と声の調子から分かったが内容は理解できない。
「やめろよ、絶対にやめろよ!? 最初に遭遇した異世界民はこれから生きていくのにおいて重要なんだからな!? 間違っても殺そうとすんなよ!?」
「やめろやめろはやれのサイン、ですか?」
「違うっ! どこの芸人だよお前は!?」
叫んで、それから茶髪の少年は大きく溜息をついた。
おいてけぼりにされたシャルロッテは困惑したまま二人を眺めていたが、やがて少年が少女の肩を掴んで押さえこんだまま口を開く。
「えーっと、とりあえず俺は東雲菜月。……いや、こっちだとナツキ=シノノメとかか? まあとにかく、名前が菜月で苗字が東雲だ。とりあえず君に危害を加えるつもりはないから安心してくれ。……で、」
少年――菜月は一度そこで言葉を切ると、次いでツインテールの少女に眼を向けた。少女は短剣を握る右手を後ろに隠したまま殺意の籠った視線でシャルロッテを刺すと、酷く不機嫌そうな調子で言う。
「……苗字が一条で、名前が憂莉。菜月先輩の愛の奴隷です」
「初対面の人に何言ってんのお前!?」
「事実です。現在そうでなくともこれからなります♪」
「ます♪ じゃねえよ!? ああもうお前のせいで話進まねぇじゃん!」
「ならこんな餓鬼なんて助けず、わたしと二人で街まで行けばよかったじゃないですか! 先輩はやっぱりハーレム狙ってるんですか? 狙ってるんですか? 狙ってるんですよね? ふふ、ふふふふふ。先輩にはわたしだけで十分ですだから他の女なんていらないわたしだけわたしだけあは、あはははははは」
「ひっ。ちょ、おま、別にハーレムとか狙ってるわけじゃねえから!? 確かに健全な男子としては懐く当然の夢かもしれないけど! でもとりあえず情報は必要なんだから、ここは抑えてくれよ!?」
と、菜月が少女――憂莉を宥めようと必死に言うが、憂莉は隠していた短剣を取り出し今にもシャルロッテの首を掻っ切る気だ。シャルロッテは逃げるように一歩引く。だがこのツインテールの少女は少なくとも先程のルアーナッチュの数十、数百倍は強いということが体の僅かな動きや魔力の流れから伝わって来るため、数歩逃げたところで意味はないだろう。それに今は必要以上に殺気立っている。ここで無闇に行動を起こせば、シャルロッテの首は易々と飛ばされてしまうだろう。
恐怖に震えるシャルロッテ。刃物をちらつかせ殺る気満々の憂莉。そして、やっぱりこうなったかと内心思いながらも必死に状況の悪化を防ごうとする菜月。
なぜこのような状況になったのか。
菜月はここまでに至る経緯を思い出しながら、深く溜息をついたのだった。
異世界最初の遭遇者は半妖精種……。
割りとありがちですかね。
次回も読んで頂けると有り難いです。