第四十話 姉妹
〝終焉教〟の襲撃開始直前。
高水準の魔法技術によって白亜に輝く城の廊下を、人目を避けるようにこそこそと動く影があった。
「ふふっ、誰も気づいてないわよね」
サイドテールに結んだ林檎色の髪に、くりくりとした金色の眼が輝く少女だ。今年で十五になる彼女の顔立ちは少し幼さを残しながらも美しく、物陰に隠れながら移動していても隠し切れないオーラのようなものが感じられた。
それも当然か、彼女はこの国の皇女なのだから。
リリアーナ=アルク=ルインリッヒ=セルデセン。
魔法大国セルデセン帝国の第二皇女その人である。
「よしっ! 今のうちに……」
視認できる範囲に誰もいない事を確認すると、リリアーナは身を隠していた壁から離れて窓枠に足を掛け、一息に近くの茂みへと跳び込んだ。皇女ならざる行動であるが、これが彼女の日常なので、それを知る者が見ていれば「またですか姫様……」と呆れの溜息を零した事だろう。
がさがさと音を立てて葉を掻き分け、ドレスに土が付くのも気にせず歩を進める。このドレスを洗うのが彼女自身ではない為に苦労を知らず、更に洗う侍女達が文句を言う訳にもいかないのが、この皇女ならざる行動を控えない原因の一つのだが。
やがてリリアーナが今まで何度も通った事によって周りより幾らか踏み固められた茂みを抜けると、ぶわっと風が吹き抜けるようにして視界が開けた。
そして一面に広がるのは、幻想郷に迷い込んだ者に妖精が見せるような美しい花畑だ。まるで白と黒しかなかったモノクロの世界に虹の絵の具を塗り始めたが如き変化は、いつもリリアーナを驚かせる。
香る七色の花々に、風に揺れる木々の音が心地良い。城で稽古やら勉強やらで退屈していた少女の心を爽やかに洗い流してくれるような気がした。
「ん~! やっぱりここは気持ち良いわっ!」
ぐっと背伸びをして深く爽やかな空気を吸い込み、全身で麗らかな陽光を浴びる。この瞬間が彼女にとって至福であり、日頃のストレスを吹き飛ばす為の行動であった。
やがてじっくりと幻想郷を堪能していたリリアーナだったが、ふと一面の花畑に現れた異色と目が合った。
「あら……?」
手触りのよさそうな茶色の毛並み、小柄だがしなやかな体躯、そして上機嫌なのかゆらゆらと揺れる尻尾。引き込まれるような夜空の瞳がリリアーナを真っ直ぐに見つめ、それはにゃーっと一鳴きすると可愛らしい仕草で寄ってきた。
「まぁ……猫ちゃんね。ふふふ、おいでおいで~♪」
リリアーナが手招きすると、猫は嬉しそうににゃーっと鳴き、少女の胸に飛び込んできた。素早い跳躍に少し驚きながらもしっかりと抱きとめてやり、リリアーナは猫の背中を優しく撫で始める。
「わぁ……貴方の毛、とても滑らかなのね」
てっきり花畑に迷い込んだ野良猫かと思っていたのだが、この滑らかさは手入れを欠かさずに行わなければ手に入れる事は出来ないので、飼い猫なのだろう。首輪は付いていないので、外してしまったのだろうか。
しかし帝国の城の中庭に忍び込むとは、この猫も中々の実力者である。唯一人工の魔法結界が常時展開されているこの城は文字通り鼠一匹入れないほどの警備なので、いかに猫といえど侵入は困難だ。ならば正門から入った貴族が連れ込んだか、もしくは抜け道があるのか。後者は問題だが、前者ならば今頃飼い主の貴族やその従者が必死で探している事だろう。
「ふふふ、気持ち良いわ。ねぇ貴方、名前はなんて言うの?」
相手は猫なので勿論答えが返ってくる訳もないのだが、リリアーナはにこにこと心底楽しそうな笑みを浮かべ、茶色毛の猫と戯れていた。
と、すっかりリリアーナの玩具にされていた猫だったが、すっと少女の腕からすり抜けて肩の上に登ると、赤い髪を結う髪飾りを尻尾で触り始める。
「この髪飾りが気になるのかしら?」
リリアーナは右に垂れる赤髪を纏めていた髪飾りを軽く撫でる。彼女の高貴な身分を象徴するように蒼穹の輝きを放つ大きな宝石が指先に触れ、そこに込められていた熱が少しだけ脈打つように膨張したような気がした。
リリアーナは右手で髪飾りを、反対の手で猫の背中を撫でながら微笑む。
「これはね、お父様がくださった宝石を嵌め込んだ髪飾りなのよ。奇麗でしょう? なんでも、代々皇女が身に付けて、守っているものだそうよ。本当はお姉様が持つ筈だったのだけれど、旅に出てしまったからわたくしが預かっているの」
不思議と尽きる事のない熱を持ったこの宝石は、拳半分ほどの大きさでその全体が深い蒼色に淡く輝いており、リリアーナの美しさを幻想的に高めていた。値段に表せないこれは、熟練した魔道士が見ればさぞ驚いた事だろう。いったいどれほどの魔力を秘めているのか、と。
いつも髪飾りにしている宝石がこの世に一つきりの霊玉だという事など知らないリリアーナは、上機嫌で猫に自慢している。猫がその話を分かっているのかは謎だが、どこか興味深そうに尻尾を揺らしていた。
と、そんな心安らぐ時間を過ごしていた時だった。
――オオンッッッ!! と。
リアード全体が、まるで強大な力でも解放されたかのように震えた。
「……え、何かしら――」
と、その言葉をリリアーナが言い切る前に、彼女の目の前で雷が落ちた。
「きゃっ」
ズドォォォオンッ!! と鼓膜を叩き潰すほどの轟音が花畑を揺らす。七色の花弁が宙を舞い、焼き切れた草木が土埃とともに舞い上がった。衝撃波の嵐が大地を削りながら円状に一気に広がり、範囲内に居たリリアーナはなす術もなく呑み込まれてしまう。
荒削りの礫がドレスを引き千切り、尖った木の枝が少女の柔肌を食い破る。
悲鳴は上がらない。というか口を開けたら、その瞬間に口内までズタズタにされそうだった。勿論目など開けていられずに必死に瞑り、少しでも体を守れるよう宙を舞いながら縮こまる。
どのくらい空中に居たのか、やがて方向感覚も曖昧なままリリアーナは地面に捨てるように放り出された。初めに背中を草原に打ち付けてから、殺し切れない勢いのままゴロゴロと花畑を転がる。
ものの天地が次々に逆転する感覚に吐き気がするが、それ以上に辛かったのは木の幹に体をぶつけた時だった。お陰でこれ以上ボールのように転がらなくて済んだものの、骨が軋むような音が聞こえた時はあまりの苦痛に悲鳴を上げてしまった。
「姫様っ!」
おかしくなった鼓膜の影響で水中に潜って聞くような鈍いその声は、この帝国に仕える騎士のものだった。恐らく中庭に落ちた雷とリリアーナの悲鳴を聞きつけて駆け付けたのだろう。聞いてから駆け付けたにしては早すぎる気もするので、もしかしたらリリアーナが花畑を見に行こうとした時からずっと護衛として付いてきていたのかもしれない。
リリアーナのもとに走り寄ってきた騎士は五人いた。そのうち二人が体の端々から血を流しながら蹲るリリアーナを介抱し、残り三人がリリアーナを中心にして立ち、腰に差していた剣を抜いて周囲を威圧するように見渡していた。
「大丈夫ですか姫様!? すぐに【治癒法式】を掛けます!」
リリアーナの傷の具合を見ていた騎士がそう声をかけ、もう一人の騎士に【治癒法式】を使うように言う。言われた騎士はすぐに指示通り【治癒法式】の魔法を使ってリリアーナの傷を回復させていく。
治癒魔法は基本的に、被魔法者の体力を使って生命力を活性化させて傷を塞ぎ、治していくのだ。数が多ければ多いほど遅くなるし、深ければ深いほどそれだけ治癒が困難になる。幸いにも数は多いが擦り傷や切り傷程度だった為に、リリアーナの傷はかなり速いスピードで治り始めている。それでも一瞬では治らないが、第一位階の【治癒法式】だから仕方のない事だろう。
リリアーナの傷を治療する間にも、状況は進行していった。それも、悪い方向に。
「はぁぁぁああっ!」
大柄の騎士は叫ぶ事で闘争心を高め、気合の籠った一撃を目の前の敵に向かって振るった。それは彼と同等の体格の者ならば武器で受けただけで吹き飛んでいただろう。しかしその一撃は見事に防がれてしまい、更にお返しとばかりに振るわれた斬撃は大柄の騎士を二、三歩後退させるほどの威力を持っていた。
それは敵にとって好機であり、威力を上乗せするように重心移動を加えながら大きく踏み込むと、三度四度と流れるような連撃を繰り出していく。その攻撃を捌くだけで大柄の騎士は手一杯になってしまい、一向に反撃の機会が見いだせない。
他の二人の騎士も同じ状態だった。だが敵の方も余裕がある訳ではない。なにせこの騎士達は帝国の要である城を守る精鋭達なのだから。
しかしそれでも、不利なのは騎士達だ。何故ならこの場に居る騎士と敵は同数ではなく、敵の方が多いのだから。必然的に騎士達は二対一、三対一の戦いに持ち込まれ、不本意にもだんだんとリリアーナの行動範囲を狭めるように後退していってしまう。
「皇女だ! 皇女は攫え! 大司教様の命令だ!」
五分か十分か、この人数差にしてはかなりの時間を稼いだが、敵のリーダーらしき人物がリリアーナを見つけて声を張り上げた。名指しされたリリアーナはびくっと体を震わせ、彼女を守るように騎士達が体を動かす。
「逃げますよ、姫様。掴まってください」
「は、はい」
そう言って差し出された騎士の手をなんとか掴み、立ち上がる。治療が中途半端だった為に治り切っていない傷から痛みが走るが、しかし顔を歪めながらもなんとかそれを我慢して、騎士の先導のもとに走り出した。
茂みを掻き分け、土埃が飛んできたのか少し汚れてしまった白亜の廊下へと足を踏み入れようとして――しかし。
「逃がさねぇよ。――行け、偽幻獣!」
足止めの騎士を突破して追いついた敵の誰かが、そう叫んだ瞬間。
地を轟かす異形の咆哮が、城を震わせた。
「グゴォォォォォォオオオオオオオオオオオ――ッッッ!!」
「きゃ――っ」
びりびりと衝撃が地面を伝わり、足を取られたリリアーナが地に手をついてしまう。
――その上を、『何か』が通った。
「がぐっ」
ぶちっと水分を多分に含んだものが潰れるような音が前方から聞こえ、リリアーナは痛む手足で何とか体を持ち上げながら顔を向ける。
――そこに居たのは。
「バケ、モノ……?」
視認者に本能的な恐怖を抱かせるほど凶悪な捻じ曲がる漆黒の角を頭部に付け、夜闇を閉じ込めたような蝙蝠の翼と蛇をそのまま臀部から生やしたような尻尾を持つソレ。およそ自然に生まれたとは思えないソレは魔物と呼ぶにはあまりに禍々しく、人と呼ぶには絶対的に魂が穢れすぎていた。
化け物と呼ぶに相応しいその異形の生物を、敵は偽幻獣と呼んだ。
麒麟やユニコーンなどの伝説上の生物の一種で、魔物の上位存在とも獣人種の高位種族ともされる幻獣。その成り損ないといったところか。
その偽幻獣は調子を確かめるように足を何度か鳴らすと、ゆっくりと顔をリリアーナに向ける。
リリアーナは動けなかった。その視線を、偽幻獣の足元で固定されたままで。
「そん、な……」
彼女の視線の先には――真っ赤に染まった煙を上げる、血溜まりがあった。
その傍にはひしゃげた鉄の塊と、引き千切れた腕と、あらぬ方向に曲がる脚と、血と混ざって何かどろどろとした液体を流し続ける頭と、潰れ損ねてはみ出したぶよぶよの臓物と――。
「う、うぇ、げぇ……うぐ、おぇぇ」
耐え切れない吐き気が込み上がってきて、その場にまた手をついて嘔吐してしまう。
気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い――ッ。
焦げた肉のような臭いと噎せ返るような血臭に混じって、ツンとする酸の臭いが少女の鼻を突く。
死んでいた。抵抗する間もない、即死だったのだろう。何があったのか分からないといったような表情を浮かべる生首を残して、その男は死んでいたのだから。
先ほどまでリリアーナの手を引いてくれていた騎士だった。幸運にもリリアーナは転んで頭を下げていたから偽幻獣の攻撃を躱す事が出来たが、しかしこの騎士は立っていたから偽幻獣に蹴られ、踏み潰されてしまったのだ。
「うおおおい、危ねぇじゃねぇかよ!? 皇女様殺しちゃ駄目なんだからな!? くそっ! やっぱ失敗作じゃ駄目って事かよ! ああもう、大司教様が今作ってる特別な奴だったらきちんと命令を聞く筈なのにぃッ!!」
敵もきちんと制御し切れていないようで、彼は頭を抱えながら焦った様子で偽幻獣に怒鳴りつけていた。
だがそのヒステリックに叫ぶ彼の声を聞く気がないのか、それとも理解する脳がないのか、偽幻獣はその手をゆっくりと振り上げる。
長く鋭い爪が、陽光を反射してきらりと光った。
そこらの数打ちの剣よりも、下手をすれば切れ味上昇効果の魔法付与が掛かった魔道具よりも切れ味の高いその爪は、リリアーナの肉体をまるでとろとろのチーズにナイフを入れるが如く易々と引き裂いてしまうだろう。そう思えるほどに、その刃のような爪がリリアーナには恐ろしく見えた。
ひゅおぉ、と今この場には似合わない気の抜けたような風が吹き抜けた。
いつの間にかあの茶色い毛を持つ猫はいなくなってしまっていた。土埃と一緒に吹き飛ばされた時に、リリアーナと別の方向に飛ばされてしまったのだろうか。何にせよ、無事だと良いなと思う事くらいしかリリアーナには出来なかった。
(あぁ……死んじゃう……)
人は死の間際、走馬灯を見るという。
偽幻獣の爪という凶刃を前にしたリリアーナの脳裏に浮かんだのは、父や母、兄達、そして姉の姿だった。
城内を駆け回って遊んだ事も、共に魔法の練習をした事も、木剣を握って稽古してみた事も、蘇ってはすぐに光の粒となって消えてしまう。淡い思い出が止めどなく溢れ出しては流れ過ぎ、零れ落ちるように霧散していくなかで、少女は大事なものを抱きしめるように心の中でそっと呟いた。
(お父様、お母様、上お兄様、下お兄様、お姉様……わたくしの人生は、ここで終わってしまうそうです……)
最期に温もりを求めるように、リリアーナの手が赤髪を結う髪飾りに触れようとした。
――だがいつの間にか宝石の嵌め込まれた髪飾りは無くなっていて、長く艶やかな林檎色の髪が風に靡くだけだった。
(もうっ……最期くらい、幸せに触れさせてくれてもいいじゃない!)
そんな文句を心の中で呟いて。
迫る凶刃を前に、リリアーナは瞼を閉じた。
これで終わり。
豆腐を切るよりも簡単にリリアーナの肉体は引き裂かれ、その貴き鮮血の花を白亜の城に咲かせるだろう。
最後の最後で誰か助けに来てくれないかと、夢物語のような出来事を、リリアーナは密かに願いながら。
その意識を、永遠に闇に沈ませ――。
――ゴォォォォォォォォオオオオンッッッ!! と。
今日何度目かも分からない轟音が城を揺らした。
「なに、が……?」
この台詞ももう何回も言っている気もするが、しかしリリアーナにそんな些細な事を気にする余裕は無い。
鼓膜を乱暴に叩き体をも震えさせた轟音に驚き目を開けたリリアーナは、目の前の惨状に数十秒間思考を停止させてしまった。
何故なら先ほどまで確かにリリアーナを殺す為に手を振り上げていた筈の偽幻獣が、吹き飛ばされて城の壁にめり込んでいたからだ。
その呪いのような紋様が浮かび上がる体はぷすぷすと高電圧に灼かれたように焦げて煙を上げ、直撃したのか頭は消し飛ばされていた。あれほど恐ろしかった爪は両手共にボロボロで、軽く突いただけで崩れてしまいそうなほどである。
何が何だか分からない。助かったのだろうが、誰が助けてくれたのか――。
と、リリアーナの思考を吹き飛ばすように、後ろから悲鳴と轟音が響く。
悲鳴は偽幻獣が一瞬でやられた事に驚愕して行動も思考も停止していた敵のもの。轟音はそいつを激しく吹き飛ばした音だろう。しかし空中に漏れた魔力の残滓から、一発目と二発目では魔法に籠められていた魔力量がかなり違い、二発目の方がかなり威力を抑えられていた事が分かる。なので、恐らく敵は死んではいないだろう。治療もなしに行動出来るほど軽傷でもないだろうが。
生き残った安堵よりも、助けられた嬉しさよりも、まず困惑が心を支配するリリアーナに、ふと声が掛かった。
「助けに来た、リリィ」
懐かしい声。震えるほど心を満たすその声に、リリアーナは自分でも気づかないうちに涙を流した。
第二皇女であるリリアーナを「リリィ」という愛称で呼ぶ者は、この世にたった一人しかいない。
リリアーナはぼろぼろと涙を零しながら、声の主へと振り返る。
そこに居たのは、リリアーナと同じ林檎のような赤い髪と『天霊樹』の葉の如く黄金に輝く瞳を持つ少女と、彼女の少し後ろに下がって驚き目を見開く茶髪に漆黒の相貌を持つ少年。
その姿を目に捉えた瞬間、抑え切れなくなった衝動から、リリアーナは赤髪の少女に向かって走り出し――。
「――お姉様!!」
最愛の姉である赤髪の少女――エミアリス=ウェン=ウィーゼルハイト=セルデセンの胸の中に、勢い良く飛び込んだのだった。
やっとエミアリスのこの設定が出せた事にホクホクしている月詠です。
そしてなんと三回連続で主人公以外の視線という。最後だけちらっと出ただけで、それ以外どの話も菜月と優莉の出番は皆無でしたね。
大丈夫です。次回は菜月視点に戻ります。
次回も読んで頂けると有り難いです。




