転章二 魔眼の少女
今回も短めです。
まだ第零階層世界編は続きます。
では、第二章スタートです。
日の差さない、闇色に包まれた森の中を、少女は走っていた。
お気に入りの靴は慣れない地面を駆けた為に酷く痛み、純白だったワンピースは所々が引き千切れてボロボロだ。幼い彼女の脚は跳ねた泥に汚され、草木を掻き分けた腕は幾つもの切り傷を入れている。
まだ十歳にも達していない、幼い少女。その小さな体は傷だらけで、赤黒い不吉な瞳には抑えきれない涙が流れていた。
(なんで、どうして……おかあ、さま……っ)
言葉に出来ない悲しみを心の中で叫んで、少女はひたすら道無き道で足を動かす。
何故、どうして、――疑問だけが荒れ狂う胸中で、顔をぐちゃぐちゃに濡らしながら。
脳裏に浮かぶのは、最愛の母の最期の姿。
父の手で命を散らす運命にあった少女を逃がし、確実に殺す目的で放たれた魔法から身を呈して少女を守ってくれた、母。少女を守ったばかりに無慈悲にも殺されてしまった彼女の姿を思い出して、少女は涙が溢れるのを抑えられない。
『生きて、――。貴女の人生を、誰にも邪魔されない貴女だけの人生を、生きて』
母の最期の言葉が、幾度も幾度も頭の中で反響する。
その言葉に従って、少女は逃げた。生きる為に、その身に宿った――母が殺された原因でもあるその力を使って、少女は必死に逃げていた。
――と、どれだけ走ったか。
少女の短い足ではさしたる距離も進んでいないのかもしれないが、彼女の中では永劫にも等しい時を駆けた頃に、ふと彼女の耳に森の中を流れる風に乗って怒号が届いた。
「――は、見つかったか!?」
「いいえ、まだです! こっちにはいません!」
「早く見つけろ! まだ探してない場所があるだろ! まだあれは子供の体だ、そう遠くには行ってない筈だ!」
――追手だ。
彼らの怒鳴るような会話で気付いた少女は、痛む足を急かすように更に酷使する。
少女は普段運動など滅多にしない為、森の中を走るのは想像以上に負担がかかっていた。加えて、昨夜降った雨の影響で地面がぬかるんでおり、足を取られる度に転びそうになり、ただでさえ少ない少女の体力をガリガリ削っていた。
――体中が痛い。
それは森の中へ入る前からあったものだ。
実の父親に殺されかけた時、母が魔法から守ってくれた時の余波、そして――この森に至るまで、追手から魔法や武器で負わされた傷だ。
焼かれたように黒ずむ右頬を擦り、刺すような痛みに流す涙の量を増やしながらも、少女は足場の悪い森の中をひたすらに走る。
別に、どこか目的の場所がある訳ではない。
当てもなく、ただただ――生きる為に逃げていた。
「――きゃっ」
と、獣道に伸びていた太い木の根に足を取られ、少女の矮躯はバランスを失って前へ倒れてしまう。
走っていた時の勢いが余って地面を転がり、少女はそのままガツンと木の幹に体を打ち付けてしまった。
「ぐ、うぅ……うぇ」
背中を打った鈍痛が体中を駆け抜け、他の傷が連鎖するように痛みを増す。少女は必死に耐えるようにその場で小さく蹲り、堪え切れない嗚咽を漏らした。
――痛い。痛い痛い痛い。
体中の至る所が悲鳴を上げ、パニックに陥りかける意識を手放さないようにするのが精一杯だった。
頭が殴られたように痛み、足が削れたように痛み、手が刺されたように痛み、胸が潰されたように痛み、首が締め付けられたように痛み、腹が穿たれたように痛み、眼が焼かれたように痛む。
ただ、痛みだけが彼女を支配している。
ここまで発狂せずにいられたのは、最後に触れた母の温もりが残っていたからだろうか。――少女には、分からない。
だが今は痛みだけが現実で、赤く染まっていく視界も、血の味だけを感じる口内も、どこから流れてくるかも分からない死臭しか嗅ぎ取れない嗅覚も、全て痛みを強調する凶悪なスパイスと化していた。
そして五月蝿い耳鳴りだけが延々と鳴り響く両耳も他の感覚と同じく正常に機能を為さず、故に彼女は、近付いてくる者達の足音に気付く事が出来なかった。
「――――」
何かを言った男が、少女の林檎のような赤髪を乱暴に掴んで持ち上げる。
痛みと恐怖で抵抗出来ない少女の瞼を、男は空いている手で無理やり開いてきた。男の乱暴な動作に更に体中が痛みを発してきて、少女は抗えないままその血の瞳を男に晒す。
そしてやっと音を拾えるようになった少女の耳に、瞳の色を確認した男の低い声が届く。
「間違いない。こいつだ。変色した血の眼……魔眼だ」
――魔眼。
そう言われて、少女はぶるりと身を震わせる。
それは、そう言ったと同時に男の体から殺気が放出されたからと、――魔眼に対して少女自身も恐れの感情を抱いていたからだ。
それに反応したのか、少女を持ち上げる男とは別の男が少女の顔を覗き込みながら口を開いた。
「はぁ、こいつがですか。こんなに怯えて……まだ子供じゃないですか」
そう言った男の顔には憐れみに似た感情が浮かんでいたが、彼は少女を助けようとはしない。
――それは当然だ。何しろ彼は、少女を殺しにきた追手なのだから。
二人は急所だけを金属で守る動き易い格好だが、帯剣する両刃のロングソードに刻まれた紋章から、彼らが国に所属する騎士だと分かる。
彼らの顔を見ているだけで少女は恐ろしくなって、涙でぐちゃぐちゃの顔を更に歪めると、体中に走る痛みを一瞬だけ忘れて暴れ、何とか男の手から逃れようとする。
だが男の力が緩まる事はなく、少女の非力な腕では、到底抜け出す事は叶わない。
「……おい。暴れんな、魔女が」
「ど、どうします? 眠らせますか?」
少女の必死の抵抗に顔を顰めながら低い声で言った男に、もう一人の男が背筋が冷たくなるのを感じながら提案した。
――魔女、と。そう言った男から、先ほどとは比べ物にもならないほどの殺気が溢れ出てきたからである。
それは現役の騎士で以ってしても怖気づいてしまうほどのもので、少女はすっかり体を硬直させてしまう。――そして、動きを止めた為か、再びぶり返してきた痛みが全身を襲って、ぽろぽろと涙が零れる。
その少女の痛ましい姿を見ての男の提案だったが、しかし殺気を収めないまま男は当然の事のようにそれを蹴った。そこには憤怒の感情はあれど、少女に対する情けの心は欠片も存在しない。
「はあ? ふざけてんのかお前は。魔女は殺せ――それが命令だろうが」
「――っ、はっ! 失礼しましたっ」
じろりと睨まれ、提案した男はすぐに自分の意見を引っ込めてしまう。上官には基本的に逆らえないものだが、今この男に楯突こうものなら少女もろとも自分も『裏切り者』として殺されてしまうと、その強烈な殺気から感じたからである。
そして男が意見を引っ込めた事で、邪魔するものが何もなくなったと判断した上官の男は、髪を掴んで持ち上げている少女を更に引っ張り上げ、
「――死ね、魔女が」
その一言と共に、もう片方の手で抜いた長剣の刃を、ぴたりと少女の首筋に当てた。
――男が少しでも長剣を動かせば、その刃は少女の細い首に通る血管を易々と斬り裂いてしまうだろう。
死が。
明確な死が迫り、少女は――
「やぁっ!」
喉を酷使して発せられた、小さな悲鳴。それは、自身に迫る死に対する恐怖から生まれた当然のものだった。疑いようも無く、それは少女の最期の言葉となるだろう。
だが――少女の強い思念に反応して、その赤黒い相貌が妖しい光を放った。
思わず男は少女と眼を合わせてしまい――そして。
「な――」
と、何か言おうとして、しかし男はそこで力を失ったようにだらりと腕を下げてしまった。
少女の首筋に当てられていた長剣が音を立てて地面に落ちる。
その音で気付いた少女は、握力の無くなった手から抜け出し、一刻も早くこの場から離れる為に走り出す。
――本来、強い力を持つ大人の男に持ち上げられてしまっては、貧弱な少女には抜け出す術は無い。傷を負わせて怯ませる事が出来るような武器も無ければ、腕力など全く敵わない幼い少女など、到底大人の男の力に抗う事など出来ないのだ。
だが――しかし、彼女には魔眼があった。
魔法とは違う、生まれ付きこの星界から与えられた技能が――。
「ちょっ、待て!」
一瞬、何があったのか理解出来なかったもう一人の男が、慌てて少女に手を伸ばした。先程の男より筋肉がやや少なそうに感じたが、少女との力量の差は歴然としている。掴まれたら終わりという事は、分かり切った事だった。
しかし少女はそれを何とか躱して、振り向きざまに魔眼の力を発動させる。
「――あ、ぐ」
この男も少女の血の瞳と視線が合うと、先程の男と同じように、ぐったりと身体から一切の力を失って倒れた。
――『死呼びの魔眼』。それが、少女の持つ必殺のスキル。
眼を合わせれば、それが生物である限り絶対の死をもたらすという、正に悪魔の能力。
体中を襲う、穿ち灼き潰し切り刻む凄絶な痛みに必死に耐えながら、少女はまた森を進み始めた。
全ては、生きる為に。
全ては、母の最期の言葉の通り、自分だけの人生を生きる為に。
――自分を殺しかけ、そして母を殺した国に、復讐の念を抱きながら。
「待って……なさい。いつか……必ず、私が――滅ぼすんだから」
幼き復讐者は、その血の瞳を妖しく揺らしながら、森の中でひたすら歩を進めた。
変色した毒々しい赤紫の髪が、森の闇に溶けてゆく。
次回も読んで頂けると有り難いです。




