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乙女ゲームの攻略対象らしい兄がヤンデレ化した結果。

作者: 浅井優

「ねえ、どうして僕から逃げるの?」


 だん、と痛々しい音が響く。

 壁に拳を叩きつけて音を出した張本人、ラウル・ベルベットは痛さなど感じていないのか。その顔にはにこやかな笑顔を浮かべたまま。

 壁とラウルの間に挟まれた女――ヴィクトリカ・ベルベットは、ふるりと一度身を震わせた。その原因は、ラウルとの距離感か。それとも。


「逃げてなんか、ないです。兄様こそ、どうして私を追い掛けるのですか」

「だってヴィーが、僕から逃げるから。ヴィーは僕のなのに」


 笑っているラウルとは対称的に、ヴィクトリカは眉間に皺を寄せる。それも、思いっきり。

 けれどラウルはそれすらも愛おしいのか、気にする様子はない。

 ヴィクトリカはそんなことないと口にしようとして、飲み込む。今の会話から分かるように、結局堂々巡りにしかならないことは、安易に予想出来たからだ。

 そもそもベルベット家の兄妹仲は頗る良かった。夜会に出れば、大人たちが微笑ましく眺め、見守るくらいに――同時にベルベット家の両親は、仲の良さに揃って頭を抱えていたが――

 年の差が大きいのも、仲が良い理由の一つかもしれない。

 存分に両親に愛されて、そしてなによりラウルが妹弟が欲しいと願ったが故に生まれたのがヴィクトリカであるからして。

 ラウルがヴィクトリカを愛してやまないのは、至極当然とも言えた。

 たくさんの愛情を惜しみなく注がれて、対照的な感情である"嫌い"というそれを向ける人間が、何処に居ようか。ヴィクトリカとて例には漏れず。

 何かと忙しい両親に代わり、常に側にいてくれたラウルがヴィクトリカは家族で一番好きだった。否、家族という枠組みを外れても、一番である。

 幼少期から犬が飼い主の後をついてまわるように、ラウルにべったり。少しラウルが構ってくれなければ、お揃いの翠の目にたっぷりと涙を浮かべた。

 困らせると分かっていて、我慢してもその有様。

 そして誰よりもヴィクトリカに甘いラウルは、そうなれば何もかもをほっぽり出してヴィクトリカの傍にいる。

 誰が如何見ても、可愛く言ったところでお互いがお互いに重度のブラコン・シスコンに他ならなかった。本人たちが認知してるか如何かは、全く別問題として。

 少なくともラウルは自覚があっただろう。それなりに人生経験を積んでいるのだから。

 ただ、それが違うと気が付いたのは徐々にヴィクトリカがラウルの傍から離れて行こうとした時。

 許さない、と。自分の傍から離れるなんて、絶対に認めないと、ラウルの心はひどく歪んだ。否、実はもっと前から歪んでいて、その時気が付いただけかもしれない。

 兎に角、ラウル・ベルベットは妹を愛していた。一人の女性として、如何しようもないくらいに。



 対するヴィクトリカは、それはもうお兄ちゃんっ子だった自覚はある。

 ヴィクトリカ自身もずっと傍にいてくれたお陰か、両親よりも兄であるラウルの方が好きだった。遠慮なく甘えられるのも、ラウルだからこそ。

 けれどそれはあくまで"兄妹"としてだ。その枠組みから一度として、外れた事はない。

 最初は兄も一緒だと思っていたのだが、如何やら違うらしいと気が付いたのは、はたして何時だったか。向けられる瞳の奥に、情欲の色が見え隠れしたのみつけた時だったのは確かだ。

 ただ怖いとも、気持ち悪いとも、思わなかった。その程度の事でラウルを嫌いになることも、蔑むこともない。

 少し如何したものかな、と考えたくらいである。

 というのも、ベルベット家はこの国で歴史と伝統と由緒ある、公爵家だ。そしてラウルはその長男、つまりは次代公爵。

 結婚に際しては大方政略的なものが絡むだろうから、問題ない。間違ってもラウルが暴走して云々、と言うこともないだろう。流石にその辺りの分別は弁えてる、筈だ。

 ではヴィクトリカが何を心配しているのかというと――ヴィクトリカ自身の結婚について。

 国内情勢も落ち着き、隣国との関係も悪くない。そしてヴィクトリカが態々政略結婚する必要性も皆無。つまり、望めば恋愛結婚も出来るということ。

 割合現実主義なヴィクトリカとて、女に生まれたからには結婚に夢を見ていた。そうでなくとも、せめてヴィクトリカを愛してくれる人が良い、と。

 そこにきて兄であるラウルの異常な程までの過保護さ。憶測でしかないが、向けられる感情。

 仲が良く距離感が近過ぎたが故、もしかしたら一生このままかも、というのがヴィクトリカの頭の中を過ったのだ。それはそれでまあ、仕方がないと諦めている節がないでもないが。

 何にしても、お互いの為に少し距離感を保つべきだというのが、ヴィクトリカの見解であった。絶対的にラウルに応える事は、出来ないのだから。



 とはいえ、何のきっかけもなくヴィクトリカがラウルの傍を離れる事は出来なかった。

 先ず持ってラウルが許さない。そしてヴィクトリカとて、兄としてはラウルが好きだからというのが主な原因といえよう。

 だがヴィクトリカが思い悩む事はない。何時かそのうち、焦る様子もなくぼんやりと思いながら日々を過ごしていれば。その"何時か"は唐突に訪れた。


「ねえ、ちょっと」


 とある日の夜会だったか。相変わらずラウルはヴィクトリカのエスコートを自分以外がする事を許さず、ラウル自身も他の令嬢のエスコートをする気は皆無。

 故に必然として、年頃になったというのにその夜会に参加するに当たり、ヴィクトリカはラウルにエスコートされていた。 今日も今日とて例に洩れず。ラウルのエスコートで夜会の会場まで行き、始まる前に、主催者や何人かの参加者たちに挨拶をして回る。

 そうしてつつがなく始まった、夜会。オーケストラの伴奏が奏でられ始めれば、ぐっとラウルに手を引かれて、ヴィクトリカとラウルは広間の中央部分――つまるところダンスをする場に引きずり出されていた。

 一曲だけでは終わらず、何曲か二人でダンスを踊った後。ヴィクトリカが疲れたからと壁の花になれば、ラウルもそれに倣おうとする。

 だが然し、そんな事許される訳もなく。ラウル狙い――重度のシスコンを含んだとしても、容姿端麗、文武両道、極め付けに次期公爵家当主とくれば超優良物件だ。誰だって捕まえたいだろう――のご令嬢がわんさかとラウルを取り巻く。

 公衆の面前であるからして、笑顔でやんわりと断っていたものの、あれよあれよと気が付けば令嬢たちにヴィクトリカとは引き離され。ラウルは広間の中央付近まで誘導されていた。

 夜会ではある意味恒例となりつつあるこれに、いい加減諦めればいいのに、とヴィクトリカは小さく溜息を一つ、吐き出す。

 漸く一息付ける、と思った矢先のその出来事。甲高い声に呼び掛けられる。が、それがヴィクトリカに向けてである保証がない――何故なら名を呼ばれなかったからだ――

 反応して違っても気まずいし、そもそも用があるなら挨拶をして、名を名乗り、それからというもの。こんな不躾な呼び掛けに応えてやる義理なんて微塵もない。

 だから、ヴィクトリカは見事なまでにスルーを決め込んだ。何も聞こえてませんよ、と言わんばかりに。

 然し呼び掛けた甲高い声の持ち主は、それが気に食わなかったようだ。このあたしが呼び掛けてあげたのに! とかなんとか、それなりの音量で叫ぶ声が耳に届く。

 なんて勘違い女、と内心で一度吐き捨てるように呟けば、なるべく関わり合いにならないようにと場所を移動しようとして――阻まれた。


「あんたよ、あんた! さっきからあたくしが呼んでるのに、どうして無視するのよ!」


 背を向けたのが仇となったか。数歩も歩かぬうちに、ぐっと肩を掴まれる。

 女の力であるから、さして痛くない。ただ余りの非常識さに、呆れ返って何も言えないけれど。

 面倒くさい、という内心を全力で押し込めてヴィクトリカはその顔に、見事なまでの笑みを貼り付けてみせた。


「まあ、申し訳ありません。私をお呼びしてるとは露ほども気が付かず。残念ながら、私はあなたのことを存じ上げませんの。何処かでお知り合いになりまして?」

「まさか! あんたと知り合うくらいなら舌でも噛み切って死んだ方がマシよ!」


 目を瞬かせる。それは余りにも過激な内容に、というよりも。今現時点で知り合ってるじゃないか。舌噛み切って死ぬのか、今此処で。という驚きからだろう。

 多分矛盾に何一つ気付いていないご令嬢は、ふんと鼻を鳴らしてヴィクトリカを睨めつけている。

 成る程、そういう人種かと思えばその視線に僅かとはいえ、ひんやりとしたものが混じるのは仕方ないといえよう。

 

「そうで御座いますか。ですが礼儀として、名乗らせて頂きますわね。私はベルベット公爵家が長女、ヴィクトリカ・ベルベットと申します。宜しければ、あなたのお名前をお伺いになっても宜しいでしょうか?」

「あんたの名前なんて嫌って程知ってるし、あんたに名乗る名前なんて持ち合わせてないわ」


 眉間に思い切り皺を寄せて、不機嫌そうに吐き捨てる。令嬢としてあるまじき行為に発言。その顔をしたいのはこっちの方だ、と内心ぼやきながらもヴィクトリカは笑顔を崩すことはなかった。

 夜会という場は、常に誰かしらに見られている。ヴィクトリカの一挙一動がベルベット家の評価に変わる、と言っても過言ではない。

 だから、腐っても目の前の令嬢のような態度をヴィクトリカが取ることは許されなかったし、するつもりなかった。自ら品位を落とす必要性を感じないから。


「……では、私をお呼び止め致しました理由は、何で御座いましょうか」

「ああ、それね。あんたラウル様の妹だからって近過ぎ。エスコートまでさせるなんて、何様のつもりよ。いい? ラウル様はあたくしのもの(攻略対象)なの。確かにあんたは私の敵(当て馬)だから、ある程度は許すわよ? その方が障害っぽくてラウル様とあたくしの恋が盛り上がるもの。でもね、ラウル様とあたくしの初めての出会いイベントを潰すなんて、許される事じゃないわ。(モブ)の癖に。これ以上しゃしゃり出てこられても困るから、あたくし直々に釘をうちにきたって訳。いい? 二度と邪魔しないで(フラグを折らないで)。次目障りな事したら、あんたの事消してやるんだから。この世界はあたくしのものなんだから、それくらい簡単な事覚えておきなさい」


 手に持っていた扇子をぴし、とヴィクトリカに向けて令嬢は言い放つ。大人しく聞いていたヴィクトリカの第一感想としては、こいつ頭大丈夫か、である。

 節々に知らない単語が飛び交い、かつ世界は自分のもの発言。例えばこれが、一桁の子供であったとしよう。であれば、まだ子供の戯言で済む。親の教育はどうなってるのだと、思うだろうが。

 然し、目の前の令嬢はヴィクトリカとさして変わらないだろう。化粧のせいか、それよりもう少しくらい上に見えなくもない。

 何より、此処は夜会だ。特に今回のそれは大規模なもの。ベルベット家のような公爵家から、はては名前を売り込みにくるような男爵家まで。上から下まで入り乱れている。

 特にこの夜会を開いたのが、社交界になくてはならないとまで呼ばれる、とある伯爵家。

 要するに、いい意味でも悪い意味でも直様噂になるということ。

 それを表さんばかりに、先程から紳士淑女からの好奇の目線。ひそひそと耳元で囁かれ、交わされる言葉。どれもがヴィクトリカは気になって仕方がなかった。

 勿論、ヴィクトリカは名門ベルベット公爵家に恥ぬ立ち振る舞いしかしていない。けれど、周囲には如何思われるかなんて分かったものではないのだ。

 せめてもう少し、目の前の令嬢が声のトーンを落としていてくれたら。と、恨まずにはいられない。

 様々な意味で、引き攣ってしまい上手く動かせない表情を隠す為に、口元を持っていた扇子で覆う。

 一先ず、何と言葉を返そうかと一瞬思考を巡らせた。が、それは如何やら必要なかったよう。

 分かったわね! と後押しすれば、令嬢は固まっているヴィクトリカなど気に求める事なく、さっさと立ち去っていった。


「……一体なんだったの」


 残されたのは、惚けているヴィクトリカただ一人。嵐のようなその人物に、思わずそんな言葉が零れたのはある意味仕方ないだろう。

 暫し呆然として。漸く我を取り戻せば、嗚呼なんときまずいことか。長いは無用だ。そして今、あの令嬢がいるだろう会場でラウルを探すのは出来れば避けたい。

 兄様ごめんなさい、と心の中で小さく謝罪を一つ翻せば、悠然とした様子は崩す事なく。家路を急いだ。



 夜会から数日。その間は何とも言えないもやもやを抱えていたものの、ふとした瞬間に浮かんだ名案。

――これを切欠に兄であるラウルとの距離を取れば良いのでは、と。

 別段ヴィクトリカはラウルの事を、嫌ってはいない。むしろ好きだ。大好きである。愛してるとさえ言えよう。

 ただ一つ、そこに伴うのは"家族として"という言葉。

 兄としてでなければ、という仮定は二人が"ヴィクトリカ・ベルベット"と"ラウル・ベルベット"ときね生まれた時点で、成り立たない。

 だからこそ、ヴィクトリカは手遅れとなる前に。本来あるべき、正しい距離感を保とうと決心したのである。


「兄様。今少し、お時間宜しいでしょうか?」

「嗚呼、構わないよ。ちょうど手があいたところだ」


 思い立ったら即行動。時間帯的に自室にいるだろうと当たりをつけて、赴く。

 数度ノックして、中から返事が聞こえてくるのを待ってから。ヴィクトリカはラウルの私室に足を踏み入れた。

 やわらかく、嬉しそうに笑うラウルに今からいう事を思えば、罪悪感が湧かぬわけではない。けれど、言わぬのならば何の為に訪れたのだという話。

 控えていた侍女にお茶の準備を言伝ているラウルを見ながら、一度深呼吸をしてヴィクトリカは決意を新たにした。


「それで? ヴィーは如何したのかな? 僕に何か聞きたい事でも?」

「……いいえ。兄様に御提案があって、参りました」

「提案? それは公爵家に関する事かな、それとも、領地経営?」

「その何方でもありません。――……兄様、少し、距離をおきませんか」


 他に良い言葉が思い浮かばなかったとはいえ。些か直球過ぎたのは否めない。

 事実突然の事に、ラウルは目を瞬かせてヴィクトリカを見ている。その視線は如何いうことか説明しろ、と訴えかけているようにも見えた。

 ただそれらは一瞬の出来事で、ラウルは直ぐに驚きの様子を引っ込めて、先程と変わらぬ優しい笑みを浮かべる。けれどその瞳に冷たさが隠されていなかったのは、意図的だろう。


「……それはまた、どうして?」

「兄様も、そろそろご結婚されるでしょう? 幾ら兄妹とはいえ、夜会にまでエスコートして頂くのは、申し訳ないと思いまして」


 すらすらと出てくるそれは、別段嘘ではない。結婚の話など聞いた事はないが、年齢的にはもうそろそろしてもおかしくはないはずだ。

 何方かといえば、同世代の貴族たちに比べてラウルは既に、遅い方に振り分けられている。次期公爵ということもあり、ある程度黙殺されてはいるが。後二、三年身を固めなければ、現公爵家当主である父親から、お小言の一つや二つ。贈られるに違いない。

 そうなる前に、是非公爵家にとってもラウルにとっても、良い相手を見つけて欲しい、というのがヴィクトリカの願いだった。


「結婚なんて、する予定は今のところない。ヴィーをエスコートするのは僕の意思。距離は適切。態々距離を置く必要はない。ずっとこのままでいいんだ。分かった?」


 だというのに、笑顔で、それはもうばっさりと。ものの見事にラウルは切り捨てた。いっそ清々しい程までに。

 話はこれで終わりだと言わんばかりに、タイミング良く運ばれてきたお茶にラウルは手を付けた。一口含んで喉を潤してから、ほら、とヴィクトリカにもお茶を進める。

 目の前に広げられたお菓子は、どうみてもヴィクトリカ好みだ。多分、懐柔する気なのだろう。

 ちょっと喧嘩した時などに、よく用いられる手立てにうっかり乗りかかりそうになったヴィクトリカであったが、ぐっと押しとどまった。

 今此処でラウルの思惑に乗せられたら。なし崩し的にこのままの関係を続けるしかなくなるだろうことが、容易に想像出来たから。

 ラウルの意に沿わない事においては、絶対的に二度目というものはない。一度きり。だから、此処が正念場だ。

 色とりどりの艶やかな美味しそうなお菓子たちに、心の中で別れを告げる。口に溜まった唾を飲み下して、ぐっと両手を握った。


「分かりません。私はずっとこのままで良い訳がない、と思います。だから、兄様がそれを分かって下さるまで定例のお茶会も、兄様とご飯をご一緒することも、お話する事も、封印します。では兄様、御機嫌よう」


 真っ直ぐにラウルを見つめて言い放てば、何かしら対応されてしまう前に、急ぎ足でヴィクトリカはラウルの私室を後にする。

 そうして、自室へと戻ってパタン、と扉を閉めれば扉を背に、ずるずると地面に座り込んでしまった。

 心臓がうるさいくらいに、ばくばくと音を立てている。

 生まれて初めての、反抗だった。


「これで、良かったのよね……?」


 小さく呟かれた言葉。確信が持てないが故の、確認の台詞だろう。

 迷うくらいならするな、と言われるかもしれい。だけれども、ヴィクトリカとて迷いがあったわけではなかったのだ。

 見てしまったから。ラウルの私室を出る際に。ちらりと視界に映った、若干傷付いたようなラウルの顔を。

 もしかしたらヴィクトリカがただただ、勘違いしていて先走ったのかも、と一瞬考えさせられた。けれど、もうしてしまったものは後に戻れない。

 兎も角有言実行する他ないのだと、ヴィクトリカは自分によくよく言い聞かせた。


 最初の一週間はラウルもおとなしかった故に、さした苦労はなく過ぎる。二週間目の半分までも、問題はなかったのだけれども。

 半ば絶縁宣言とも取れるそれを突きつけて、一週間半。ラウルは我慢の限界に到達したようだ。ヴィクトリカの侍女が怖いもの知らずで、主はヴィクトリカだけだと定めていなければ、あっという間にラウルの思うように事が運んでいただろう。

 あの手この手でヴィクトリカと接触を持とうとしたラウルであったが、三週間目に突入すると、姿を見せなくなった。

 とはいえ、決して諦めた訳ではないのを知っている。

 ちょうどタイミング良く、遠方の地へと視察へと出掛けざるを得なかったのだ。

 自分で蒔いた種とはいえ、久方振りのゆるやかな時間に、思わず顔も綻ぶというもの。

 今のうちと言わんばかりに、たっぷりと羽を伸ばす計画を立てる。何せ、一週間は戻ってこないという話だ。

 この間に書庫からは読みたい本をありったけ運び出し、厨房からは保存の効くモノを頂き。自室での籠城体制を整えつつ、それ以外の逃げ場所も確保しようと目論んでいたのだが。

 考えが甘かったことを、これでもかというほどに、思い知らされた。

 ラウルが旅立って四日目。あと少しだからと、気分転換に庭園に足を伸ばす。色とりどりの花に囲まれて、満足していた、時。

 視界にちらりと映った姿。それは今此処にいるはずのない、人物。


(兄様……? でもだって、まだ四日目よ、そんなことがあるわけが――)


 隠せない動揺。さっとその場で逃げれば、見つからなかったかもしれない。

 けれど、戸惑ってしまった事によって、ヴィクトリカはラウルに見つけられてしまったのである。


「やっと姿を見せてくれたね、ヴィー」


 にこやかに笑うラウルの後ろには、どれだけ好意的にみても、ブリザードが吹き荒れていた。

 ヴィクトリカは直感する。――逃げなければ、と。

 目の前に立つ人物は、ヴィクトリカが良く知るラウルであって、ラウルではない。だって、ヴィクトリカにとってラウルとは"とても優しい兄"なのだ。

 今まで一度として怒ったりしている姿を、見た事がない。まるで聖人君子か何かかと、思った事がある程に。だからそう、感じたのだろう。

 何にせよ、今は逃げるのが最善だ。普段優しい人程、怒れば怖いと聞くし、今捕まっては計画が台無しになる。

 何故視察行っているラウルが此処にいるのかなど、気になる事は多々あるし、はしたないとわかっていたけれど。

 ヴィクトリカは、踵を返して全力疾走した。

 どうしようもない程に、スカートとヒールが邪魔で仕方が無い。何故こんな格好でなければならないのか、と思わず疑問を抱く。

 それでもヴィクトリカは走り続けた。走り続けて、角を曲がろうとした時。

 手首を掴まれぐっと引かれて、壁に背中から押し付けられた。ある程度勢いは殺されていたが、壁は固い故に、痛いものは痛い。

 思わず眉間に皺が寄る。それはこの行為だけではなく、一連の動きを行った人物にも、向けられていた。



 そうして。冒頭に戻る。

 些か噛み合わない言動に気付く事がないのは、お互いがお互いの事で精一杯だからだろう。

 兎に角、三週間と四日に渡るヴィクトリカの努力は功を実らせるどころか、事態を悪化させたに、他ならなかった。


「ねえ、ヴィー。黙ってたら分からないよ。どうして僕から逃げるの? どうして僕を避ける? ヴィーと最後に交わしたあれだけは、不十分も良いところだ。おまけに、僕は全く納得してない」

「……ご不満に思っていらっしゃるだろうところ、申し訳ないのですが。本当にあれ以上でも以下でも、ありません。あえて付け加えるなら、これ以上兄様の婚期を遅らせないように、という細やかな妹の気遣いです」

「ふうん。伯爵家で開かれた夜会でつっかかられてたのは、無関係ってことで、いいの?」

「っ……兄様が、どうしてそれを。あの時、随分と離れたところにいらっしゃった、はずでは……」

「甘く見ちゃ駄目だよ、ヴィー。僕を誰だと思ってるの。ベルベットの次期当主だよ? だいたい何があったかは把握している。……ま、流石に詳しい内容までは、分からなかったけど。ただ、あのご令嬢がとんでもない人物(お馬鹿さん)だってことくらいは、ね?」


 知られていないと思っていた――ラウルの耳に入っても、ヴィクトリカはちっとも痛くも痒くもないのだけれど――のは間違いだったか。

 謙遜している風にも見えるが、最後の一言で全てを知っているのではないかと感じさせられる。ラウルにとって、詳しい内容とは一言一句と同義なのでは、と。

 初めて敵に回したくないと思った。そして同時に、敵う訳がないと。

 ヴィクトリカだって公爵家の名前に恥ぬよう、厳しく色々と叩き込まれている。他家のご令嬢は当然の事、下手な家の次期当主よりも上である事は間違いないだろう。

 けれどそれは、あくまでも"格下"を対象とした場合のみ。

 ラウルは、別格だった。天と地程の差。

 それは素質も関係しているのかもしれないが、然し足元にすら及ばないのは、まごうことない事実であった。

 この三週間と四日は、ラウルは手を抜いていたのだろう。間違いなく。


「それで? 関係ないんだよね?」

「……ええ、はい。関係ありません。切欠には、なりましたけれど」

「関係あるっていうんだよ、そういうの。まあどっちでもいいんだけどね。あの調子なら、僕が手を下すまでもなく自滅しそうだし」


 風と走ったせいで乱れたヴィクトリカの髪を、恐ろしいまでに優しい手つきで、整えていく。

 なんて事ない調子で呟かれたそれは、ある意味恐ろしかった。名前すら知らないあのご令嬢に、一種の同情心さえ湧いてしまう程。


「兄様、あの……」


 とはいえ、そんなのは一瞬だけ。何よりも大切なのは我が身だ。最も危機的状況にあるのは、今現在のヴィクトリカなのだから。

 壁とラウルに挟まれた現状を打破すべく、恐る恐るラウルに声を掛ける。必然、身長差のせいで上目遣いになったのは仕方ない。


「なに? 嗚呼、退けっていう願いは聞けないよ。だって退いたら、ヴィーは逃げるでしょう? 折角捕まえたのに。僕に一つとしてメリットがない」


 如何やら、見透かしていたようだ。細やかなお願いはあっさりと切り捨てられ、それどころかぐっと距離を縮められる。

 思わず近いと叫びそうになるが、ぐっと堪えた。そうするのは、はしたない。それにきっと、ラウルはそんな事ないと言いながら、もっと距離を縮めに掛かる気がしたから。

 残念さを滲ませる事もなく、ヴィクトリカは次手を考える。ぐるぐると頭を巡らせて。


「では、兄様。私の事は放って置いてくださいませ。そして、お仕事を優先して下さい」

「仕事……? 視察の事かな。それなら、もうとっくに終わらせてきたよ。元々ちょっと長めに取ってたんだ。ヴィーを連れて行って、一緒に観光でもしようかと思って」


 さらりと告げられたそれに、思わず眩暈がする。

 当然のように同行に組み込まれていたのは、まだ許せた。けれど、一緒に観光とは兄妹でする事ではないだろう。そういうのは、婚約者でも作ってしてくれと、叫びたい――その婚約者がいないからと、反論されるのは目に見えていたが――

 頭を抱えながら、ああでもないこうでもない、と反論の言葉を探す。けれど、見つかる訳がなかった。

 昔からヴィクトリカは、ラウルとの口喧嘩で勝った試しがない。何時も何時も、最終的には上手く丸め込まれているのである。

 その事を思い出して、つぅ、と背筋に何かが伝うのがはっきり分かった。

――これは、一番避けたかったパターンではないか、と。

 最悪の想像。どうしようもなく嫌な予感しかしない。

 引きつり掛けた頬を何とか無表情に押し留めていたが、然しその努力を知ってか知らずか。ヴィクトリカの予想通りにラウルは爆弾を投下する。


「ねえ、ヴィクトリカ」

「……はい、なんでしょうか、ラウルお兄様」


 普段はヴィー、と愛称で呼ぶ。けれども時折、こうして名を呼ぶのだ。それは畏まった話をするときの合図。公式非公式は、問わない。

 話の種類は様々だが、決まってヴィクトリカからしてみれな"宜しくない"お話なのだ。そして、それに対して意見を申す事も言葉を挟む事も許されない。言わば"告げられるだけ'なのである。

 口内に溜まった唾を飲み込む。覚悟などしたくはない。けれど何を言われても良いように。身構えた。


「僕はね、ヴィクトリカ。君が傍にいないのが耐えられない。君を手に入れる為だったら、何だってするつもりだ。――嗚呼、とはいえ、公爵家当主の座は貰うけどね。当たり前だけど。その方がより、ヴィクトリカを幸せにしてあげられるからさ。だから何だって、っていうのは……例えば、君を他所の家の養子にして、僕が娶ったり、なんてね」

「お兄様、それは――」

「何も問題はないよ、"法律上は"。ちょっと道徳的にアレだから、周りは総反対するだろうけど。黙らせるだけの実力はつけた」


 余りの発想に眩暈がする。身構えなんて、意味を成さなかった。衝撃が強過ぎて、一瞬息をすることすら、忘れる程。

 情報処理が追い付かなくて、目を白黒させているヴィクトリカなど知らぬと言わんばかりに――ラウルは、ヴィクトリカの息の根を止める、一言を。


「だから、ね? ヴィクトリカ。安心して、僕に嫁いてきてくれたら良いんだよ。僕のかわいいヴィクトリカ、ヴィー。……逃がしはしない」


 一段と低くなった声。瞳の奥には隠し切れない情欲の炎。まるで獰猛な肉食獣のような、ギラついた視線。

 何れもが言葉の通り、ヴィクトリカが逃げる事を許しはしなかった。

 例えば、他国に逃げたとしても、海を渡った先の未開地に行ったとして。ラウルは必ず、捕まえにやってくるだろう。そうヴィクトリカに確信させる。

 だからヴィクトリカは――諦めた。何もせずに、諦めたのだ。抗うだけ無駄だと知っていたから。

 完全に逃げ道を潰えさしたのが、間違いなく自分である事もヴィクトリカは正しく認識していたのもあるだろう。

 ふかく、ふかく、溜息を吐き出して。それからヴィクトリカは、そっと遠い空へと思いを馳せた。

壁ドン、ヤンデレを書きたかっただけの勢い。乙女ゲーム要素が薄いのはご愛嬌、ということで収めて頂ければ幸いです。若干どうしてこうなった感。

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