赤い点
赤い帽子を被った女性を乗せて、バスは冬の森を抜けた。
道に伸びたヒバの枝が、耐え切れずに雪の塊を道に落とす。その山をタイヤが踏み越える度、車内にはシートの軋む音やつり革がぶつかる音が響くが、中程の位置の席に座るその女性は、気にする様子もなく寝息を立てていた。
ディーゼル車独特の排ガスとクラッチの掠れる匂いを僅かに含んだ暖気が充満する車内に、停車駅のアナウンスが流れた。
目の前に迫ったトンネルを抜けると、三十世帯程が住む家屋が並ぶ小さな集落へと出る。彼女の目的は、そこに住む祖母に会うことだ。
暗がりに入って眼を覚ました彼女は、次第に差し込んでいく陽の光と、積雪からの乱反射に眼を細めた。徐々に視界が慣れてくると、見覚えのある木々の並びや遠くの山々、そして赤い屋根の家々が見える。
彼女は、少しだけ姿勢を正してポケットの中から小銭を取り出した。念のため、運転席上方に掲げられた料金表と照らし見て、過不足が無いか確かめ、再度握りしめる。
停留所の横で、バスは静かに停まった。
支払い口へまばらに小銭を落とし、ありがとうございますと言って降車する。運転手は、視線を動かすこと無く、マスクの下で、どうも、と呟きバスを動かした。
轍の上に排ガスの煙と煤が落ちる。彼女は、名残惜しい気持ちで点を見つめた。
これはいけないと、息を吐きだして空を見上げる。冷えた空気の中に、雲ひとつ無い青空が広がる。鼻から吸い込んだ冷気が肺に渡って行くと、耳の辺りがざわついた。マフラーを巻き直し帽子を耳まで引っ張ると、視線を前に戻して目的地へと足を向けた。
祖母の家へはバス停横の林道を抜けなければならない。林といっても中規模のもので、二十分も歩けば抜けることが出来るが、先程までの降雪で足跡は消えてしまったため、脇の木にくくられたピンクのナイロンテープを目印に進むことになる。
冬にこの地を訪れた者ならば、前時代めいた方法に辟易するのだろうが、彼女にとっては勝手知ったる我が庭だ。見る場所も歩く位置も全て慣れたもの。むしろ警戒するのは、新雪に足を取られてしまうことだ。同じ歳の女性と比べると身長が低いため、一度転ぶと起き上がるまでに四苦八苦してしまうだろう。
用心深く確実に、それでいて息を切らさないペースで一歩目を踏み出すと、雪に隠れた杉の小枝の弾けた音が響いた。どことなく恥ずかしさを覚えて周りを見渡す。勘付いたものはいないようだ。が、自分の様子が滑稽に思え、次第ににやけてしまった。肩の力が抜け、気分は明るく、彼女は歩いて行く。
ふと、木々を縫って届く風が赤く染まった頬を撫で、懐かしい記憶が蘇った。
祖母は、祖父と二人暮らしであった。祖父は孫が遊びに来ると、決まってよくトンネルの先に位置する保護区のヒバを見に散歩へ連れて行った。彼女は祖父の肩の上から見上げる木々が好きで、何度もせがんでは肩車をしてもらったものだった。
ある時、祖父が止めるのを聞かず道を逸れて入ったことがある。丁度この道の中間辺りの筈だ。
ちょっとした悪戯のつもりだったが、祖父はそれまで見たことが無いほどに激怒し、彼女を抱き抱えて連れ戻し、この道の印を越えてはいけない。この先には狼がいる、と怒鳴った。
後にも先にも彼女が怒鳴られたのはその時だけだったが、以来彼女は、目印から外れて進むことはなくなった。
今やその訓言も嘘であると知っている。
この村に狼が滅多に出ないことを知ったのは、祖父が亡くなってからだ。それは森林の形態が大きく変わってしまったことによる。
まだ祖父が生きていた頃、この村はヒバの木で生計を立てていた。
この地で育ったヒバは、加工が容易で細やかな木目を持つため家屋の柱材に重宝されていたが、それ故目に余る乱獲となった。世代の速度を考慮しない人の手は、分布をかつての十分の一まで減らした。行政機関に問題視されてから、やっとのことで保全に乗り出し、比較的成長速度の早い杉を植樹したが、全国各地で栽培できる杉にヒバほどの高需要は無かった。更に、大量の花粉でアレルギー性疾患者を増やしたため村を去る者も増え、結果として林業従事者のみならず、村全体の首を絞める結果となった。
実際の所、彼女はヒバが採れなくなってからの祖父しか知らない。
力が強く優しい人であったが、周囲の木々を見る度、眉間にしわを寄せて溜息を付いていた。祖母は、その様子を良く思っていなかったようで、度々、祖父に対して嫌味を口にしていたのを覚えている。祖父は怒ること無く、情けなさそうに笑うばかりであった。
祖父が亡くなって、祖母は一人になった。元々体が強い人ではなかったから、老化とともにゆるやかに衰弱しているようで、最近では外に出ていない。たまに村の人が気を遣い訪ねてくれているそうだが、連絡を受けてからは親類が持ち回りで見舞いに行く事になった。
思い出されていく記憶に溜息が交じる。
いけないとは思いながらも、祖父と祖母を対比してしまうのだ。
祖母は、悪い人ではない。近所づきあいや村の祭事に出席したりして、嫁いですぐから家庭の苦労を一手に受けた。職業一筋の祖父は、彼女の働きあって世間体良く生きられたと言える。
しかし、外面を整える事に人一倍気を遣った彼女は、身内に対し言葉を選ばない。頑固実直な性格も相まって、双方向の会話はほぼ成り立たないと言って良い。
どうしようかと考えている内、彼女は目的地の二階建てに着いた。
玄関の周囲は、訪ねた村人によって雪掻きされていたらしく、進んできた道ほど雪は積もっていなかったが、足取りは変わらなかった。
彼女は、立てかけられた小さい箒を手に取ると脚にまとわりついた雪を払い、扉を叩いて名乗った。返事が聞こえるかは分からないので、お邪魔しますと叫ぶように声に出し、屋根の雪を落とさないようにゆっくりと扉を開けた。
思い出と現実の混濁した温もりが冷えた頬を包んでいく。小さく息をして扉を閉めようと取っ手に手をかけたところで、祖母の笑い声が聞こえてきた。そして、相槌に続いて軽快な話し声。玄関には祖母の靴以外は見当たらないので、独り言ではなく、誰かと電話をしているようだった。
本当、夫には苦労したよ、としゃがれた声が響く。
耳にかかっていた帽子の裾を跳ね上げた。
気にしなければ良かったのだが、近寄りがたさを感じていた彼女は、しばらく聞き耳を立ててしまった。そして、その信じられない内容に絶望し、踵を返して外に出た。玄関の戸を開け、林へと駆ける。
祖母の言葉が繰り返される。帽子を強く引いて耳を隠したが、こびり付いたこだまは、一層深く刺さって繰り返した。
祖母は、夫が死んでくれて良かったよ、と言って笑っていた。
職をなくし、家に居るようになった夫への愛情は日に日に薄れ、食事も適当に作りおきしては、自分は街に遊びに出ていた。たまに友人を家に呼ぶと祖父を締め出し、そのまま家に入れないこともあったのだった。
つらつらと、まるで他人事を話すように続いた軽快な言葉は、次第に愚痴へと変わる。
仕事をなくした後は林業組合からの失業保険をあてにし、それも無くなる頃に年金給付に切り替わったが、低額なことが不満であった。それもこれも夫の働きが不十分であり、支え続けた妻に対してあまりに薄情な行いだと、毎晩のように責め立てた(本人はこれを説教だと言い表した)。
彼が亡くなってからは年金に加え、保険金が入っている為、独り身には十分なほどに生活費を得ている。だからこれを、当然だと言ってのけた。
それから、また笑った。
雪の下の石に足を取られて、彼女は前のめりに転んだ。その際に噛んだ唇から、僅かに血が滴り落ちる。
起き上がる気力も無くし、伏せたまま声を殺して泣いた。赤い点の隣に落ちる涙が雪を溶かしてゆく。悲しくて、悔しくてたまらない。憤りだけが胸に広がっている。
何度目かの深呼吸で、顔を上げた。
風の音もなく、静かに雪が舞いだしていた。
身を起こして、近くの切り株に腰掛けた。頭の中を整理したかったが、座るとまたいらだちがこみ上げてきて、被っていた帽子を掴んで雪の上に投げつけた。
手で顔を覆って、考えを巡らせる。
祖母の印象も、この村の印象も、全て変わってしまった。祖父は殺されたのだと思った。
木を思い、孫を想い、職の中に行きた一人の男の人生を、あの人は容易くなじって笑い飛ばした。こんなものは、彼女の思う夫婦の姿ではない、家族の姿ではない。
すぐ側にいた人さえ彼を認めてあげなかったなら、彼の居場所はどこにもなかったではないか。
何を思ってもどうにもならないが、どうにもならない事がさらに悔しくて、たまらずに上げた声が、雪に消えていく。
すると、どこからか獣の遠吠えが聞こえた。
耳に届いた遠吠えが、不思議と心を開けさせてゆく。
彼女は、何かに気付いたように立ち上がって、自分の座っていた切り株の雪を払う。
苔がむし、黒ずんではいるが、確かにそれはヒバの株だった。そして、よく見れば、苔が獣の足跡の形に抉れている。
彼女の中に確信が生まれた。
まだ生きている。
数が少なくても、孤独に耐えて強く生きるものがいる。
切り株に背を向け、冷たくなった涙の後を拭った。
平然として祖母に会おう。そして、用事を手短に済ませたら、帰る時には扉を開けていくのだ。
そう考えながら、半分ほど埋まった赤い帽子を拾い上げ、雪を払って被り直した。
鉄槌を下すものは、きっと来る。
自分の足跡を確認しながら、彼女は来た道を戻っていく。
獣の鳴き声が、また響いた。