虹色の日々
どんなに想い合っていても、二人で幸せになるのは難しい。誰よりも深く、強い絆で心が一つに繋がっている。そんな関係も素敵じゃないか。そう妄想して書きました。
天気予報では、今日は雨だったのに、まるで君の前途を祝福する様に空は爽やかに晴れ上がった。郊外のホテルの庭の一角にポツンとあるベンチに、僕は何をするでもなくぼんやりと座って空を見上げている。何をするでもなく…、ではなくて、本当は何をする気にもなれず、が正しいのかもしれない。
今日、君は新しい人生の一歩を歩き出す。僕の知らない、君が愛した人と一緒に。
かつて、僕が恭子…、君の姉さんと一緒に歩いた同じバージンロードを、今日、君が義父さんと腕を組んで歩く。
僕が、このホテルのチャペルで恭子と結婚式を挙げたのも8年前のやっぱり梅雨時分だった。あの時、君は茶色い髪で派手な化粧、姉の結婚式には少し肌を露出しすぎた服を着て来て、
お義母さんとお義父さんに叱られて、ふくれっ面でいたっけ。
その君が、もう24歳。恭子が僕の妻になってくれたのと同じ年になったんだね。
早いもので、恭子が突然の心臓発作で亡くなってもう4年になる。
淳平も今年で、もう一年生になった。母親の顔は覚えてないだろう。
でも、きっと淳平は母親がいないと言う事を、一度も寂しいと思った事はないと思う。
淳平の側には、いつも僕がいて、そして僕らの側には、恭子に良く似た君がいつもいてくれたから。
僕も小さい頃に母を亡くした。だから、淳平がどんなに寂しいかを思うと、父親としてただ、どんな時も側にいなきゃいけないと思った。
恭子の分も、淳平を愛して、幸せにしてやらなきゃ、とがむしゃらになった。
でも、まだ二歳の子供を男手一つで育てるのは、色々無理があって、仕事と家事と育児を全部一人でこなすのはとても大変で、愛している、なんていえる余裕すらすぐになくなっていった。何故、淳平は泣くのだろう、その泣いている理由一つ見つけられずに途方に暮れていた。
そんな時、君が僕らの側に来てくれた。
君は高校を中退したばかりで、あの頃、未来に何を夢見るでもなく、生きる目的も意味もなく、ただ、毎日を漠然と過ごしていたみたいで、
突然、自慢の娘だった恭子を亡くしてから、めっきり体が弱くなってしまったお義母さんの代わりに淳平の面倒を看てくれる様になって、なんとなく僕らが一緒に過ごす時間が増えて行った。
「料理なんて、した事ないよ」
恥ずかしそうにそう言って、最初に作ってくれた食事は、スクランブルエッグを乗せたトーストだった。恭子と同じ味のするスクランブルエッグに、僕は胸が一杯になった。
「淳平に、お姉ちゃんの事を忘れて欲しくない」
君はそう言って、恭子が残した料理の本を見て、一生懸命僕らに食事を作ってくれた。
まだ、17歳で遊びたい盛りだったのに、長く伸ばしていたキラキラした爪も切って、毎晩、淳平に本を読んでくれたね。
「お姉ちゃんは、私が赤ちゃんの時、ずっとそうしてくれてたの。だから、私もそうする」って言って。
僕と淳平は、君にどれだけ救われただろう。
不器用でも、一生懸命作ってくれる食事にどれだけ心も体も温めてもらっただろう。
でも、いつまでも、君に甘えてはいられないと思った。
「…何か夢があるなら、それに向かって進むべきだよ」
淳平が保育園に通い始めて一年経った時、僕はそう言って、君を家に帰した。
本当は、ずっと側にいて欲しかった。淳平の母親代わりじゃなく、恭子と言うかけがえのない人を亡くした悲しみを共有する相手としてではなく…。
一緒に過ごしてきた日々の中で、僕は君の笑顔に癒されて、もっと君の笑顔を見たいと思い始めていた。
それに気がついたのは、淳平が5歳になった誕生日だ。
三人で遊園地に行った帰り、酷い道路の渋滞で、車は全く動かない。
「…困ったね。二人とも、お腹空いただろ?」そう言って、運転席から振り返ったら、君は片腕に淳平を抱き、淳平は君の膝に頭を乗せて、二人ともスヤスヤと眠っていた。窮屈な車の中、街灯のうっすらと赤い光の色と、影の黒だけの、動かない風景。でも、僕は思った。
(…ずっと、こんな日が続けばいいのに)って。
僕の守りたいもの全てが今、ここにある。
気立てが優しくて素直で、親に従順だった恭子といつも比べられて、拗ねた子供の様だった君が、日々、恭子に似てくる。眠っている二人は親子そのものだ。
僕は、恭子の面影を君に重ねているのか、それとも、君と言う女性と、いつも陽の当たる場所にいたいと思っているのか、自分でも分からなくなった。
ただ一つ確かなのは、君の笑顔をもっと見たいと思っている事だ。
だから、余計にこれ以上は一緒にいられない。好きになっても愛しちゃいけない。
愛してしまえば、別れるのが辛くなる。
そう思った。だから、君と離れる事を選んだ。
家に戻ってから動物が好きだった君は、トリマーになる為に専門学校に通い始めた。
夢を叶える為に進む道の途中で、君は何かしら言い訳を作っては、何度も僕の前に現れた。「淳平に会いたくて」と言って笑っていたけど、君はいつも僕らの事を心配してくれていたんだろう?
「僕と淳平はもう大丈夫だから、ここに来る暇があるなら、しっかり勉強しなきゃ」
そんな風に、素っ気無く振舞ったりしたけど、結局僕はずるずると君に甘えていた。
僕らは恭子と淳平と言う二人の人間を間に挟んで、繋がっている。
僕ら二人は同じ物をかけがえなく思い、一番の悲しみも一番の喜びもいつも同じだった。世界中の誰よりも僕らは心が重なっていた。
でも、口付けをする訳でもない、抱き合う訳でもない。
それなのに、こんなに人を恋しく想う事があるなんて、知らなかった。
恭子を想い、慕いながらその面影を重ねる様に、君にも惹かれていく。
そんな自分が嫌で苦しくて堪らなかった。
そんな時、ふとしたキッカケで恭子の友達だった女性と知り合った。まだ独身だった彼女は、僕に好意を寄せてくれた。
君を忘れるには、今しかない。ズルイと思ったけれど、僕はそう思った。
そして、僕は自分にも、君にも、淳平にも、彼女にも…嘘を吐いた。
誰もが幸せになるなら、それしかない。
「結婚したい人がいるんだ」僕が君にそう言った時、君の目にみるみる涙が溜まった。
ああ、僕らの心はやっぱり一つだった、とその時初めて確信できた。
喜びと悲しみが同時に胸の中に込み上げてくる。
愛したい、と思うたった一人の存在として、僕らは想い合っている。
思いあがりでも、独り善がりでもなく、本気でそう思えた。君を幸せにする為、笑顔に満ちた人生でいて欲しいと願うから、僕が君を泣かせるのはこれが最初で最後だ。
「…お姉ちゃんの事、忘れるの?」透明で、綺麗な雫が君の頬を伝っていく。
「…違う。恭子の事は一生忘れない。でも、君が側にいたら、…」僕は言葉に詰まった。
君が側にいたら…?
いつまでも、君を手放せなくなるから。
恭子の事を忘れてしまいそうになるほど、君を愛してしまいそうだから。
そう言ってしまいそうな唇をギュっと噛み締める。
「…私が側にいたら、…何?」何かを強請るような瞳をした君がそう尋ねる。
「…僕は、愛されたいんだよ…。一生、誰かに愛されないまま終わるのは嫌なんだ」
なんて、下手な嘘なんだろう。なんて、女々しい言い方なんだろう。
そう思ったけれど、それが精一杯だった。
そして、何か言いたげに唇を震わせながら、ただ黙って涙を流す君の眼差しを見つめていて、僕も分かった。君は、僕の本当の気持ちを悟ってくれている。
君も僕を恭子の兄として、淳平の父親として、ではなく、一人の男として想ってくれていた。
「…誰にもお義兄さんを取られたくないの…。ずっと、お姉ちゃんの旦那様でいて欲しいから…」
そうすれば、いつまでも、私がお義兄さんに一番必要な人間でいられるから。
「…そう思って来たのは、私だったもん。…その私がお姉ちゃんから、お義兄さんを盗っちゃいけないよね」そう言って、君は目を伏せた。
最後の涙がガラスの粒の様に煌きながら、零れ落ちていく。
淳平が寝入って、誰もいないリビングで僕らは佇み、指さえ触れないで、向かい合っていた。
一歩、踏み出せば、どんな間抜けな言葉でも何か一言でも言えば、僕らの運命は変わっていたかも知れない。でも、僕らは僕らの為に、いろんな人が傷つくのが怖かった。
「…じゃあ、また」そう言って、君が閉じたドアは、もう決して開く事はない。
最後に、もう一度、僕だけに笑って欲しかったけれど、それは余りにも我侭過ぎる。
そして、君は君を愛してくれる人と出会い、今日、結婚式を挙げる。
僕も、来月には新しい妻を迎える事になっている。
僕は、恭子の夫として心から君を祝福したいと思う。
誰の目にもそう映るように、僕は今からまた皆に嘘を吐く。
別々の人を愛して、違う人生を歩んで行く事を僕らは選んだ。
きっと、これから先、僕らは必死に幸せになろうと足掻くだろう。それでも君の笑顔と優しさに包まれて過ごした日々を僕はきっといつまでも忘れない。
君の笑顔を見たいと思い始めた自分に気付くまでの日々は、僕にとってかけがえのない日々だった。
とても大切な、幸せな日々だった。どうか、君にとっても僕らと…いや、僕と過ごした日々がそうであって欲しい。そう願うのも、多分きっと、男の我侭なのだろうけれど。
「パパ!ママねえちゃんの式が始まるよ」
淳平の声が聞こえて、僕は胸いっぱいに雨上がりの涼やかな空気を吸い込んだ。
せめて、「幸せに」と言う気持ちだけは、この梅雨晴れの空の様に澄み切った気持ちで伝えたいから。
ふと、見上げた空にはうっすらと虹が掛かっている。
追いかけても、決して手に触れられない、切ないくらいに儚い虹が、まるで、僕らが過ごした日々の様に、美しいままで空に溶けて消えていく。
僕は、淳平に手を引かれながら、見送るようにその虹が消えた空を眺めていた。
最後まで読んで下さって、有難うございました。