第一話
「ただいま」
入野裕平は、明かりの点いていないマンションに帰り、小声でボソッと呟いた。
返事を返す人はいない。
しーんと静まり返った居間の明かりを点けて通り抜け、自分の部屋に入る。
ベッドと勉強机が一式、漫画がぎっしりと詰まった本棚。
16歳の高校生とは思えないほど、日当たりも悪くシンプルな部屋だった。
学校の制服を脱いでハンガーにかける。
ブレザーの背中には乾いた泥で出来た靴底の跡が付いていて、雑巾でふき取らなければならない。
それは事故やふざけあって付けられたものではなかった。
故意に。クラスメイトが付けたものだ。
兄が帰ってくる前に綺麗にしなくてはと手を早める。
それでも――、いくら隠しても恐らく聡い兄=一弥の事だ。
裕平が学校でイジメを受けている事に薄々気付いてはいる。
それでも、あえて兄からイジメについて触れる事は無かった。
それどころか、祐平は、もう半年近くも一弥とまともな会話さえしていなかった。
二人の両親は、仕事の都合で今年から海外に住んでいる。
それ以外は、兄一人、弟一人だ。
自由で気軽そうでいいと羨ましがる人もいるけど、実際はそうでもない。
兄は、しっかり者で文武両道の優秀な人間。
その出来の良い兄貴と相対するかのように、裕平は消極的な性格で勉強もスポーツも得意ではなかった。
ダイニングキッチンに行くと、テーブルの上には、温めればいいだけのお弁当が置かれてあった。
一弥がバイトに行く前に、用意していってくれたものだ。
家の中は綺麗に片付けられ、本当に、どこから、どこまでも非の打ち所の無い兄貴である。
だが、一弥が裕平を可愛がってくれたのは小学校低学年までだった。
一弥は、優秀なだけに出来の悪い裕平を蔑んだ。
自分が簡単に出来る事に、裕平が出来ないという事に苛立ちを感じ、相手をしなくなったのだ。
裕平の消極的な性格も、兄の影響が大きい。
毎晩みてくれていた勉強を見なくなり、会話もしなくなり、次第に目も合わせなくなった。
それでも、こうやって、毎日の食事の世話や洗濯はしてくれている。
決して仲良くは無いが、まだ兄弟の絆は消えたわけではない。
だが祐平に取って一弥は、一番身近に住んでいる一番遠い存在だった。
ピーッピーッピーッ。
電子レンジから温まった弁当を取り出して、キッチンに置かれているテーブルでボソボソと食べる。
食べ終わった空の容器をゴミ袋に突っ込んで、自分の部屋以外の照明を消した。
「ふぅ・・・」
子供らしくない溜息を吐いて、勉強机の椅子に腰掛ける。
机の横にはタワー型パソコンが置かれていて、指を伸ばし電源を入れた。
目の前の大型モニターにOS起動のロゴマークが表示される。
手元にあるのは、キーボードとマウスとヘッドセットだ。
祐平がヘッドセットを頭に被り、マイクを口元に寄せる。
起動が完了して、OSの壁紙が表示された。
その中の一つのアイコンをダブルクリックする。
モニターに、大きく『ElectricWorld』という文字が浮かんだ。
背景は、廃墟のような画像だ。
乱立する高層ビルは崩れ、高速道路も崩壊している。
世界は、どことなく全体的に暗く、威勢の良い音楽が鳴り響いた。
そう――、『ElectricWorld』とは、オンラインゲームの一つである。
一年前に始まったサービスでEWと省略され、いまやネットワークゲーム業界の人気ランキング一位常連となったMMORPG(多人数同時参加型ロールプレイゲーム)だ。
裕平は、クローズドベータと呼ばれるテスト段階からEWに参加している。
それから毎日、このゲームをするのが日課であり唯一の楽しみだった。
EWにIDとパスワードを入力する作業は無い。
それがEW最大のウリであり、今までのネットワークゲームとの大きな違いだ。
その秘密は、特別製のヘッドセットにあった。
このヘッドセットは、装着者の脳波を感知し操作を行うEW専用のコントローラーなのである。
ログインサーバーは、この個人を特定する脳波を感知してキャラクターを起動させる。
このシステムは複数アカウントの保有を防ぎ、『業者』と呼ばれるゲームマネーをリアルマネーで販売する人たちを追い出した。
そして、ゲームの操作方法まで、革新的に変えたのである。