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第一話 『ドナドナみたいな?』

 この世界はファーランド大陸と呼ばれる実に大きな大陸とその周辺に浮かぶ中小の島で構成されている。

 およそ五十年前。長い間、統一された国家であったファーランドの政治は腐敗し国は乱れ、民は苦しんでいた。そこで起こったのが各地方の独立戦争である。この戦乱より誕生した数多くの国々がやがて大陸の覇権を争う『統一戦争』へと発展させていくのであった。

 そして、その十年後。大穀物地帯を持つグリーンヒルド地方を制したオズワルド一世――グリーンヒルドの建国王――は戦乱により一層苦しむ事になった民を憂い各国に停戦協定を呼び掛けるのである。その二年後、各国首脳による停戦協定調印式。これが後に戦乱で大陸の四分の一を制した『グリーンヒルドの一人勝ち』と呼ばれる歴史の一幕であった。

 つまり、この世は長く停戦状態が続いているとはいえ乱世なのである。

 かと、言って二人の男女が歩く街道は平和そのものであった。牧歌的な雰囲気の田園が地平線の先まで続き、時折、荷を積んだ馬車がすれ違うのだった。ここはヴィンドと呼ばれる国内の一地方である。つまりはルークが近い将来、治める事となる地であった。

 彼らは旅装とは縁遠い姿であった。男性は実に上等な衣裳を身に纏い、女性はそれに加えて銀色の胸当てとやはり同じ色の籠手をはめていたのだ。そして、どちらの腰にもぶら下がっている、やはり上等な鞘に収まる剣が実に物々しかった。

「実に詰らんぞ。やはり旅をした所で何かを得られるとは思えんな」

 二人が旅立って既に三ヶ月が過ぎようとしていた。その間、彼らにこれといった変化はなく平穏無事な有様だったのだ。

 街道を歩き、時折ある珍しいものを見聞し宿に泊まり、そしてまた街道を行く。こんな事を三か月も繰り返しているのだ。仏頂面のルークがいつにも増して不機嫌そうなのも無理もない話だ。

「残りの九ヶ月、どこかの宿屋を借り切って愛欲の日々でも過ごすか?」

 彼の傍らに控える様に歩く女性――アイナは答えない。彼とて彼女に答えを期待している訳ではない。単に愚痴のようなものだった。

「血沸き肉踊る大冒険! こんなものを少しでも期待していた俺が実に愚かであった……」

「……ルーク」

 芝居がかった仕草で天を仰ぐルークを制し、アイナが彼の前に立つと前方に指を向ける。

 前方より向かって来るのは外套を羽織った少女。そして、その後には数名の男。少女は年の頃十五と言ったところか、肩まで伸びた栗色の髪を乱しながら必死に走っているのである。フードで隠されているため顔はよく見えない。

「ふむ、仲良く追いかけっこしていると言う訳ではなさそうだな」

 特に感情を見せずにルークが腕組みをしてこう言った。

 明らかに少女は男たちに追われていた。追いつかれんと必死に走る少女。そして怒声を上げながらそれを追う男達。

「助けてください!」少女は二人の姿を見るとそう叫ぶ。

「いたいけな少女がむさい男共に追われる……か。哀れなものだ」

 そんな事を言ったくせにルークは道を譲るかのように横に退いてしまうのだ。

 そして二人を通り過ぎてなお逃げる少女。いや、振り返った。

「って、何で退くんですか!」

「いや、通行の邪魔だと思ってな」

 彼は表情を変えず顔をしてそれに答える。要は哀れな少女の行く末など彼にとってはどうでもよい事なのだ。

 しかし、やはり少女としては必死なのだ。彼の背に隠れる様にすると再び助けを請うのであった。

「お願いします。わたしを助けてください!」

 両の瞳一杯に涙を貯めながらそう懇願する少女。そして、少女に追いついた男達が立ち止り少女に何やら罵声を浴びせるのである。

 それをルークはだるそうな表情をして首の付け根を掻きながら交互に見比べた。

「追われる少女に、追うおっさん共か……。これは誰の目にも明白なわけだ。まあ、違っていても構わん。アイナ、やれ!」

 男たちは何かを言いかけていたが、まあ、そこは世の常と言う奴だ。

「ハッ!」

 ルークの指示によりアイナは男たちに走る。彼女の体捌きはそれは実にみごとでほんの数秒で男たちを叩きのめしてしまった。

「……ありがとうございます」

 アイナの動きに呆気にとられていた少女がハッとした表情を見せるとルークに礼を述べる。そして、そそくさとその場を後にしようとするのであるが、それは叶わなかった。何故なら肩に何か堅い物の感触を感じ、その感触に思わず背筋が凍りつくような感覚を覚えたからなのである。だから、それ以上動ける訳がなかったのだ。

「おい、娘。お前がこの男たちに襲われた理由なんぞまったく興味がない。が、その俺から掠めた袋の中身を見たら首を刎ねなくてはいけなくなるぞ?」

 ルークはやや芝居がかった仕草を交えながら大袈裟にこう宣告した。

 そう、彼女はルークの後ろに回った瞬間に彼の腰に下げられている袋を掠め盗ったのだ。

「どうやら悪者はこの娘のようであったな。許せ」

 チャリンチャリンという複数の金属音。そう言って男達に投げた袋の口からこぼれ出したのは数枚の金貨であった。

「そこに金貨が十枚程ある。謝罪の意味を含めて取引をしようではないか。その金でこの娘がお前達からスリ取った物とこの娘を俺に売れ」

 今度は男達が彼と袋を交互に見比べる番となった。この青年は金でスリの少女を引き渡せと要求してきたのだ。彼らはその事実に呆気にとられているのである。

「お前達が掏られたものは銀貨一枚ほどの価値もないものだろ? しかも、この娘を捕まえて官憲に差し出そうなんて正義感からの追いかけっこではあるまい。恐らくは捕まえてそれを口実に輪そうと下卑た考えだったのであろう」

「……なっ……」

 こう抗議のような声を上げたのは男たちではなかった。

 しかし、ルークは気にも留めず続けるのである。

「いや、何も俺はお前たちを諫めている訳ではないのだ。この乳臭い小娘を輪わすのと、その金で豪遊をし、娼館の美女と戯れるのとどちらがよいか、と尋ねているのだ」

 そうはっきり言われてしまうと後者を取るしかなくなる。金貨十枚と言えば大金である。恐らくは男達全員の一年の稼ぎの合計に匹敵する額だ。だから、ルークの言う通り邪な考えで少女を追ってきた彼らとしては素直に彼の提案に従うしかないのだった。



「……さて」

 男達の姿が完全に見えなくなるとルークは彼女の肩から剣を外し、少女に視線を向ける。その視線に観念したのか渋々とであるが彼に袋を差し出す彼女。

 その袋の中には何があったかと言えば、ルークの身分――つまり王族である証となる品が納められていた。

 この国の刑法では平民が貴族の持ち物を盗めば死罪とある。だから、ルークの言葉は彼の傲慢でも冗談でもなかった。

「……ありがと……」

「おい、誰が助けてやったと言った!」

「え?」

 その場所から立ち去ろうとする少女を鋭く呼び止めるルーク。その言葉にビクリと体を震わせる少女。そしてアイナは事前に打ち合わせでもしていたかの如く、少女に素早く首輪を取り付けるのであった。

「え? え? えー!」

「男共とのやり取りを聞いてなかったのか? もしや……。アイナ、寄れ」

 そう言ってアイナを呼びつけると耳元で何かゴニョゴニョとやるのだ。

「ルークはこう申しています。『このメス豚! お前はこの美しい俺様に買われたのだ。買われた奴隷豚がブヒブヒと何故主人である俺様から逃げようとするのか?』と」

「ちょっ、ちょっと!」

「ルーク、このメス豚は『ブヒブヒブヒヒー』と申しています」

「ふむ、通訳しろ」

「申し訳ありません。私は豚語を解しません」

「さ、さっき明らかに会話してたでしょ!」

「ルーク、どうやらこのメス豚は抗議をしているようです」

「うむ、そのようだな」

「あたしはメス豚じゃないわよ!」

 彼女の抗議に二人はわざとらしく揃って首をかしげる。少しして、アイナが手のひらをポンと叩くと話を再開する。

「失礼。どうやらメス犬のようでした。コンタクトを試みてみます」

「うむ、よきにはからえ」

「ワンワンワワワン」

 アイナが特に感情を込めずに挑発するような事を言うのだ。

「だ・か・ら! あたしはメス豚でもメス犬でもなくてフィーナって言う名前がちゃんとあるの! 人間なの!」

 だから、ついフィーナはむきになってこう叫んでしまった。いや、彼女にも解っているのだ。この二人にからかわれているって事ぐらいは……。

「実に詰らん奴だな。そこは『ワワワン』とでも返す処だろうに。これだから庶民は……」

「そんな事どうでもいいでしょ! それに何よ! この首輪は!」

 激昂して叫ぶフィーナの抗議に心底失望したような溜息を一つ吐くと、ルークはアイナに目配せをする。

「フィーナと言いましたね。要するにアナタは売られたのです。そしてルークがアナタを買ったのです。ですから、アナタは既にルークの物で首輪はその証なのです」

「あたしの意思は関係ないの?」

「当り前だ。男共の事はどうでもいい。運が悪い事によりにもよってお前は俺から物を盗んだのだ。本来ならその段階で死罪は決まっている。しかし、お前は運が良くもある。何とも罪深いお前は男共にした罪を俺によって許されたあげく、奴隷になるだけで更なる大罪も許されたのだからな」

 確かに自分はスリの小娘だ。スリの娘が相手に捕まった場合どうなるか位は解っているのだ。少女は幸いな事にまだその経験こそなかったが、その位は、それ位のリスクは十分承知しいていたのだ。

しかし、この男は何なのだ。どこまでも偉そうに――そう、まるで自分を侮辱し弄ぶ事こそが目的かの如くに実に傲慢な態度で接してくる。

「それにキミさっきから偉そうにしてるけど何様なのよ!」

「俺か?」彼はニヤリと――恐ろしく邪悪な笑みを浮かべると続けたのだ。

「俺はこの国の王子であり、この地の将来の支配者でもある」



――ハァ……。自分は何て愚かな事をしてしまったのだろう。


 頭を垂れ、時折前を歩く二人を眺めつつもフィーナは道中何度もこう思うのだ。

自分の首には首輪があり、その首輪からは縄が伸びており、ルークと呼ばれた青年が上機嫌でそれを握っているのだ。

 この国には奴隷制度などない。しかし、今自分が置かれている状況はまさにそれだった。道中、彼女は何度か抗議をしたのだが彼はその一切を認めなかった。いや、認めないと言うよりは完全に無視である。

 それにしてもこの姿は実に恥ずかしい。まだ街道のうちはよかった。街中に入ってしまうとその感情が一気に加速してしまうのである。買い物途中の主婦や道を行く男達。当然の如くその全てが自分たちの姿を目にするとヒソヒソと何やら呟き合うのであるからして彼女は自らの顔が赤面するのを感じない訳にはいかないのであった。

 ルークは自らを王子だと名乗った。フィーナにはその言葉の真相を知る術などはない。だが、最低でも彼らの着る上等な衣裳と男共に無造作に投げて渡した金額から少なくともそれなりの身分である事だけは解ったのだ。

 嗚呼、なんと可哀想なフィーナ! 何たる不幸か!

そう彼女は自分が仕出かした事は全力で棚に上げて天を仰ぎ観るのであった。今夜、自分はこの傲慢な男に好いように弄ばれるのだ。十六年近くの間、守り通してきた純潔が今夜、好きでもない男に散らされてしまうのだ。

「おい、何故座っているのだ?」

 ルークがアイナに何やら指示を与え彼女を使いに出したのだ。そして、彼は街の中央にある広場のベンチに座った。だから、特にすることのない自分もそれに習っただけだと云うのに、彼が心底不思議そうな顔で自分にそう訊ねてきたのである。

「聞こえなかったのか? 何故、俺の許しもなく座っているのか、と聞いているのだ」

「だって、わたし別に『座るな』なんて言われてなかったし、それに歩き通しで疲れちゃったし。何か問題でもあるの?」

 まただ、彼が自分の事を何かとてつもなく下等なモノを見る様な眼で見てくるのだ。

 そして、ヤレヤレとため息一つ。

「実に愚かな奴だ。主人である俺の許しもなく座っていい筈もなかろう」

「こんな恰好で言うのもなんだけど……。わたしはキミの命令に従う義理はないわよ」

 そう、今もルークに手綱を握られている訳ではあるが、フィーナとしてはそこだけははっきりと言っておきたかったのだ。ここは人通りもある街中だ。彼とて流石に乱暴はしないだろう。それにもし乱暴をされたら大声を上げよう。その混乱に乗じて上手く逃げられるかもしれない。

「……ふむ。こういうものは本来、俺の役目ではないのだがな……」

 そう言い終わるや否やルークは強引に手綱を引いてフィーナの体を近づける。そして唖然とする彼女が何か行動を起こす前に、彼は力任せに首輪を掴み自らの顔に彼女の顔を引き寄せるのであった。

 ……く、苦しい……。

 フィーナが苦悶の表情を浮かべる。

しかし、ルークは構わない。むしろ、首輪を持つ手に力を込めるばかりだ。

「お前は俺が買った奴隷なのだ。まずはその事を理解しろ。奴隷とは主人の許しもなしに、ましては主人の隣になど座ったりしないものだ」

 言葉の乱暴さとは違いルークの口調は実に優しげであった。まるで幼子に諭すかの口調。もう一方の空いた手で優しく彼女の髪を撫でてやる。

「それにお前は勘違いしている。俺はお前を買って(・・・)やった(・・・)のであり、奴隷(・・)に(・)して(・・)やった(・・・)のだ。愚かなお前にこの言葉の意味が解るか? お前は小汚いスリの小娘なのだ。それを知った以上、俺にはお前を放置する訳にはいかない。それは何故か? 俺がグリーンヒルドの王子であり、直にここ――ヴィンドの公王となる男だからだ。故に俺は民草が安心して暮らせるようにしてやる義務があるのだ。故に犯罪を――例えそれが小娘のスリであったとしても見逃すわけにはいかない。――解るな?」

 そう言ってルークは彼女が倒れるように乱暴に首輪を掴んだ手を離すと立ち上がってフィーナを見降ろした。

 そして、フィーナは苦しそうにゲホゲホと数回咳をした後に彼の余りの仕打ちに対する抗議すらできず、ルークを見上げ頷くのである。

「それでも、もしお前が俺の奴隷になる事を拒否するなら、それはそれで構わん」

 彼女の首輪に結ばれる縄を解き、優しく彼女に手を差し伸べるルーク。フィーナはその手を取ると立ち上がる。

「しかし、拒否をするのであれば当然の如く俺はお前を衛兵に差し出さないといけなくなるな……」

「……わたしを見逃してくれないの?」

「お前は鳥頭か? 数秒前に言った事すら忘れてしまうとは……」

 優しかった彼の視線が急に見下した様な冷たいものに変わる。

「……まあ、よいか。そして牢屋に入ったお前は当然、死罪となるのだ」

「なんでスリぐらいで死刑なのよ!」

 フィーナの抗議はルークの耳には届かない。彼はフィーナの顎をしゃくりジッとその顔を見つめる。

「ふむ、よく見ればお前は中々の美形だな。ならばどうせ死罪だと看守たちはお前を嬲るだろう。死刑が行われるその日までお前は彼らの相手をする事となる。なんと哀れな事か!」

 要するに彼は選択肢など与えてくれないのだ。長々とした発言も要約してしまえば俺の言いなりになれという事である。

「さて、答えを聞かせてもらおうか?」

「……奴隷でいいです……」

「何だ? よく聞こえんぞ?」

「キミの奴隷でいいって言ってるの!」

 その言葉にルークは実に満足そうに頷くのであった。しかし、声が大きすぎたようだ。街を行く人々がその声で何事か、と一斉にこちらを見向く。それを感じてフィーナの顔がカァっとまるで湯気でも出さんかの如く真っ赤になった。

 穴があったら入りたいとは正にこの事だと彼女は思うのだった。



 ついに……この時が来てしまった。

 ルークはどうやらアイナに宿の手配をする様に指示をしていたようだった。あの後すぐに彼女が戻り、宿が取れたと報告したのだ。そして、彼女が今まで入った事のないとても豪華な宿へと誘われたのだ。豪華なロビーに入ると宿屋の主らしき人物が揉み手をしながら自分達を部屋まで案内をする。この時になって『ああ、この人たちは本当に高い身分の人なんだ』と今更ながらにフィーナは思うのであり、高い身分の人物特有の傲慢さを彼が持っている事に納得するのだった。

 案内された部屋に入るとまたフィーナは驚く事となる。貴族の部屋とはこの様になっているのか。だだっ広い部屋には上等なカーペットが敷かれていて、その中央には天蓋付きのやはり大きなベッド。暖炉の近くにはふかふかのソファー、そして部屋の隅にはカーテンで仕切られた――おそらくはバスルームがあった。

「ふむ、まるきりの馬鹿ではないようだな」

 ソファーにふんぞり返って座るルークが満足そうな表情でこう言った。

「あの……。あたしも座ってもよろしいですか?」

「ふん、本来なら王室不敬罪に当たるのだが、お前にとって幸運な事に俺は心が広い。平素のしゃべりでいいぞ」

「じゃ、じゃあ、わたしも座っていい?」

 今日は余りに非日常が過ぎた。フィーナとしては座りたいどころか、もう寝てしまいたいぐらいだった。しかし、ルークは何も答えない。無言でアイナを引き寄せ左手を腰に回し、右手を彼女の首に回すとキスをするのである。

 長い、長い接吻。それを茫然と眺めるフィーナ。更に体を被せる様にアイナを押し倒し、彼女の両手を握るとこれまた情熱的にキスをするのである。

 無視をされるのはまだいい。自分の求めを拒否されるのも許せる。

しかし、一体これは何なのだ!

「ちょ、ちょっと! 何なのよ!」

 まるで自分などこの場に居ないかの様な彼らの扱いは流石にフィーナを憤慨させるに十分だった。

 だからと言ってその憤慨が彼らに届くとは限らないようだ。

 時折こぼれ出るアイナの艶やかな吐息。返答があるまでの数分の間、キスシーンを見せつけられる事となる。

 いや、別に見なくても良かった訳ではあるのだが……。

「何だ? キスして欲しかったのか?」

「返事遅い上に、そんなわけないし!」

「ふむ、まあいい。アイナ、風呂に入るぞ」

 フィーナはまた唖然とする事となる。彼がそう言うとアイナは彼の服を脱がしだし、それが終わると自分の服を脱ぎだしたのだ。そして、二人ともスッポンポンになると風呂場に消えていった。

 また、無視された! こうは思うが抗議する気にはなれなかった。

 風呂場からピチャピチャとお湯の跳ねる音が聞こえてくる。風呂に入っているのだから当然の話なのだが、その音で我に返るとフィーナは顔を真っ赤にするのであった。

 なぜなら裸を見てしまったからだ。アイナの――女性の体は当然自分も女なのだから、かなり差があるとはいえ見慣れたものなのは事実だ。

 問題はルークである。彼は自分がいるのに何のためらいも恥じらいもなく裸を晒したのだ。股間からぶら下がっていたプラプラとしたモノを思い出し、また真っ赤になる。男のってああなのかと……。

 何と言うか……。現状に今一対応できてない事や風呂から聞こえてくるパシャパシャという音に思わず頭がクラクラするのをフィーナは感じてしまうのだ。

「おい、出たぞ」

 風呂から上がったらしくルークがフィーナにそう声をかけた。やはり、真っ裸で。

だからフィーナもこれといって見たい訳ではないのだが、どうしても、そのプラプラに視線がいってしまうし、それによって自分の顔が赤らむのを感じてしまう。

 一方、アイナは実に手慣れていた。彼女は仁王立ちのルークの濡れた体を実に丁寧に拭いている。彼女はどうやら自分とは違うらしい。これといって恥じらうこともなくプラプラも丁寧に拭いていくのだ。

「おい聞こえなかったのか? お前も風呂に入れと言っているのだ」

「ルーク、動かないでください」

 その言葉で我に返った。いや、頭は十分混乱したままなのだが……。その証拠にフィーナは服も脱がずにバシャンと風呂桶に飛び込むと頭まで浸かったのだ。そして、ブクブクと泡を立てる。今のフィーナは自分が何をやっているか解っていなかった。とにかく、頭の中がグルグルするのである。

 何故だろう? フィーナにはまったく理解ができなかった。何故、この二人は恥じらう事もなく裸体を晒せるのだろうか? それともこのシチュエーションに顔を真っ赤にする自分がおかしいのだろうか?

 それに風呂に入れと云う事は要するにそういう事なのだろう。そして風呂に上がった後は夜伽をしろ、と強要されるに違いない。体だけは売らずに今まで生き抜いてきたと言うのに……。

 部屋からルークだかアイナだかの声が聞こえたが、彼女にはよく聞き取れなかった。今は、いや先ほどから顔が熱くて頭がボーっとするのだ。何やら息苦しいような気もする。だから、聞こえなくても無理はない。何故だかボーっとするでは済まないような気もした。段々とフィーナの視界がぼやけてきたからだ。



「お前は馬鹿なのか?」

 フィーナが目を覚ますとルークが呆れ顔でこう言った。

 自分はソファーに寝かされている様だ。毛布に包まれている感触もあった。要するに彼女は意識がぼやけている状態なのだ。

「風呂場で入水自殺をするのはまず不可能なのだぞ?」

 フィーナはハッとした。もちろん入水自殺が不可能である、と言う事実に気がついたからではない。そもそも、自分は自殺などしたつもりは更々なかったのだ。そんな事はどうでもよかった。彼女にとって今重要なのは裸のまま毛布に包まれている事なのだ。

「わ、わ、わ、わ、わたし何で裸なの?」

「ハア……。宗教上の理由かもしれんので理由は尋ねんが、お前は服を着たまま入浴したのだぞ? そのまま気絶したのだ。ずぶ濡れのまま寝かす訳にもいくまい」

 心底呆れ顔のルークがこう告げた。ちなみに二人は今バスローブを着ているようだった。

「そういう事じゃなくて」自分の発言が繋がっていない事などは百も承知であったのだがフィーナは続けた。「わたしの服を誰が脱がせたかって意味よ!」

「……ふむ。要するにお前は俺がお前の服を脱がした挙句、いたずらをしたのではないかと疑っているわけだな?」

 ルークの言葉にただフィーナは頷くだけだった。

「まぁ、お前は俺の奴隷なのだから俺がお前に対して、気を失っている事をいいことに体をいじくり倒した揚句、犯そうとも何ら問題はない訳だが……」

「なっ!」

「その点は安心しろ。そういった作業は俺の仕事ではない。つまりはアイナがやったのだ。それに……ハンッ! 俺がお前の貧相な体如きに欲情するとでも思ったか!」

 恐らく彼の言葉に嘘はないだろう。そう言えば、と思いだした事がある。以前、貴族は着替えなどを自分でやらずに使用人に全てやらせるのだと聞いた事があった。

それならルークがアイナにさせていた事は実に納得のいく行為であり、見られる事を恥じらいもしなかったのも頷けるのである。

 それにしても、なんという言い様だろう。はっきり言って顔には結構自身があった。体は……悪くはない。うむ、悪くはないはずだ。しかし、そう反論してもアイナを指さして『これぐらいになってから生意気を言え』などとルークに悪態をつかれる事は間違いないだろう。そう思いフィーナはその言葉をグッと堪えるのである。

「さて、アイナ! そろそろ寝るぞ」

「はい、ルーク」

 そう言って二人はベッドに入っていく。それを見て『あれ?』とフィーナは思うのだ。ルークは自分の名を呼ばなかったのだ。これはおかしいのだ。自分を穢さないのであれば奴隷にした意味など無いのではないか? 

「あの……あたしは?」

「ん? お前は本来なら床で寝ろ、と言いたい処だが折角あるのだ。そこで寝ればいい。まさか生意気にもベッドで寝たいなどほざくのでは無かろうな?」

「いえ、ここでいいです。いや、ここで寝たいです!」

「フンッ、ならいい」

 どうやら今日の所は助かったようだ。こう思いフィーナはホッと胸を撫で下ろすのであった。すっぽんぽんなのが気になる処ではあったが荷物は昼間、男達から逃げる時に失ってしまったので着替えなど持っていなかったのだ。着ていた服は明日まで乾かないだろう。だから気にしてもしょうがないのである。

 それにソファーとはいえ流石は高級ホテルだ。自分が普段寝泊まりするような安宿のベッドなんかより遥かに柔らかく寝心地が良かったし、何よりタダで泊まれるのだ。それに文句を言うのは余りに贅沢と云うものである。

 フィーナは乙女の危機が去った事を悟ると妙に気が楽になるのを感じた。

どうやらルークは自分の体目当てではなかったようだ。口は悪いがその行動は意外と紳士的なような気もする。だから、彼の奴隷とは言ってもそんなに酷い事はされないだろう。ならば、使用人程度に考えておけばよいのだ。タダで飯と宿にありつけるのだ。そう思えば今の状況もさほど悪くはない気がする。そう、世間の荒波を体一つで渡ってきた彼女は実にポジティブな思考の持ち主なのだ。だから今日はこのまま寝てしまおう。

「……ンッ……。……アッ……」

 そう思って目を閉じた訳だがベッドの方からアイナの悩ましい吐息とゴソゴソと衣擦れの様な音。それらがフィーナを寝かせてくれない。時折ペチャペチャという音がしてくるのだが何の音だろう?


――信じられない!


 どうやら二人はヤッているらしい。自分がこの場に居るにも関わらずだ。アイナの声から何が行われているか位フィーナにも理解できるのである。

彼女自身はまだ経験がなかったが、それが解らない程世間知らずではなかった。

 だからと言うか、やはり彼女は再び赤面してしまう。さっきまでの思考とは裏腹に急に居心地が悪くなるのを感じて頭から毛布を被る。文句を言う訳にもいかなかった。もし、それが切っ掛けで自分も加わるように命令されてしまったら藪蛇と言うものである。だから少しでもその音が聞こえなくなる様に毛布を被ったのであった。

 時折起こるアイナの切ない吐息。

何故だろう? 聞きたくないもの程、よく聞こえてしまうのは? 

何故だろう? 自分が惨めに感じてしまうのは?

そして、どれくらいの時間が経ったのだろう? 耳を両手で塞ぎ目を必死に閉じていると言うのにフィーナは眠れやしないのである。そして、アイナが上げた大きな声。その声を最後に音が聞こえなくなるのだ。どうやら終わったらしい。

何故だろう? 軽く涙が浮かんでいるのは? フィーナは自らの意識がなくなるまで、惨めな気分になった理由を考えていたのだ。



「おいしい! これ、おいしいね!」

 運ばれてきた朝食にがっつきながらフィーナは喜びの声を上げた。

焼きたてで、まだ香ばしい匂いをさせている柔らかいパン。トロトロになるまで煮込まれている様々な具入りのスープに様々な野菜の乗せられたサラダ。彼女にとってパンと言えば噛み切るのに何度も咀嚼をしなくてはらない堅いものであり、スープと言えば薄い塩味に野菜のクズが申し訳程度に具となっているものであったのだ。

 これではまるで晩餐ではないか! 昨日の夕食は外の屋台で済ませてしまったのが彼女にはすこぶる悔やまれた。まあ、それは今夜に期待をしておこう。

「お前は犬か?」

 上機嫌で朝食を食べるフィーナに対してルークは逆に不機嫌そうであった。不機嫌そうとは正確ではなかった。正確には顔を引きつらせていたのだ。ルークとアイナは食器類を実に上手に上品に使い料理を口に運んでいた。対してフィーナはフォーク一本で皿を手に持ち料理にがっついているのである。細かい事はあまり気にしないルークとは言え、やはり彼は育ちが良いので彼女の不作法に嫌悪感を示してしまうのだ。

「うん、こんな美味しいもの毎日食べさせてくれるなら犬でもいい気がしてきた」

「……ふむ」

 ルークが露骨に嫌悪感を示しているのは実の処、フィーナは感じ取っていたのだ。しかし、彼女としてはテーブルマナーのテの字すら知らずに育ったのだ。不作法なのは仕方のない事であったし料理とは自分の好きなように食べ、楽しむものだと考えているのであった。だから、料理を味わう事に夢中で彼の視線など今はどうでもよい事なのだ。

「アイナ! ここにしばらく滞在するぞ。手続きを取れ」

「ルーク、かしこまりました」

「え? あたしとしては面が割れちゃったから、この街から早く立ち去りたいんだけど?」

「お前の都合など知った事か!」

 フォークを握りながら抗議したフィーナにイラッとした表情を見せてルークを強い口調でそう断言した。

「いいか? 俺は作法などに五月蠅い方ではない。だが、お前のそれは話にならん。見せられているこっちの料理がまずくなると言うものだ」

「えー! でも…」

「でも、じゃない! それにお前の犬食いを誰かに見られてみろ。主人である俺が笑われるのだ。奴隷の躾もできない甲斐性なしだとな! 実際の処、お前がどう思われようと知った事ではない。だが、何よりも俺にはそれに我慢がならんのだ。故にこの数日間で食事における最低限のマナーと云うものを叩きこむ。反論は一切認めん。――以上だ!」

 一方的にそう宣言するとルークは不機嫌そうな顔をして部屋から出ていってしまう。

そしてアイナが残される。彼女はいつの間にか教鞭を手にして自らの掌にそれをピシピシとさせていた。フィーナは思わず顔が引きつるのを感じてしまうのだ。何故ならアイナの表情が冷たく、それでいて、どこか嬉しそうなものであったからだ。



 それからの数日というものはフィーナにとって正に試練の日々であった。

「何度言ったら解るのです、フィーナ? フォークとナイフを使って細かく切ってから口に運ぶのです」

「イタッ」

 アイナは容赦がなかった。彼女が教えた事をその通りにできないと遠慮なく手にした教鞭で手首を打つのだ。その度に瞳に恍惚としたものを浮かべていくアイナ。

もう何回打たれたかフィーナは覚えていなかった。手首が軽く腫れていた。もちろんアイナは本気で鞭を振るっているのではない。もし本気であれば今頃は手首が折れていただろう。だからと言って痛いものは痛いのである。

「……だって、そんなに小さく切ったら味がよく解らないじゃない」

「よく噛まずに飲み込むから味が解らないのです。ちゃんと味わえば例え欠片であっても味は解ります」

 もう、何度目かの全く同じやりとりだった。フィーナのどのような抗議もアイナは一切受け入れてくれない。

 そして、全く意味は違うのだが二人同時にため息を着く。

皿に乗った薄く焼いた生地、水の入ったスープ皿。それらを実際の食事に見立ててのレッスン。上手くできないと食事にあり付けなかった。一昨日はそのせいで何も口にできず、グーグーとなるお腹の音で碌に眠れなかったぐらいだ。

「それにさ、テーブルマナーってそんなに大事なものなの?」

「当り前だ」

 フィーナの問いに答えたのはソファーにふんぞり返ってその様子を眺めていたルークであった。彼は顎を上げてこちらを見下したような表情で続けた。

「お前はルール――つまりは法と言うものが何故存在するか理解していないのか? 人間とは社会を作り集団で生活する生き物だ。フンッ、スリのお前に解りやすく例えてやろう。」

 その皮肉たっぷりの彼の言葉に思わずムッとするが事実なので言い返せないフィーナ。

「例えばパン屋のパンを盗んでも罰せられないとする。その場合、お前はパンを買うか?」

「買わないに決まってるでしょ。だって、罰せられないんだから」

「そうだな。恐らくは同じ質問をした少なくとも半数はお前と同じように答えるだろう。その結果どうなると思う? パン屋というものが成立しなくなるのだ。 嗚呼、困った。我々はどこでパンを買えばよいのだろう」

 ルークは大袈裟な身振りを交えて芝居がかった言い方で続けた。

「ならば家でパンを焼こう。否、あくまでも今のは一例に過ぎない。物を盗んでも罰せられないのであればそもそもその原料はどう入手するのだ? それも自作するか? それすらも盗られてしまうというのに!」

 明らかにルークの論は飛躍しすぎていた。フィーナはそう感じているのだった。そもそもこれは礼儀作法の話であったはずだ。

「小汚いスリのお前には解らないかもしれないが、そうなると経済が成立しなくなる。だから物を盗んではいけないと言うルールがあり、ルールを破れば何らかの罰が与えられるという決まりがあるのだ。

……大きな例えをしてしまったな。しかし、お前はたかがテーブルマナーだと思っているのかもしれないが、やはり、事の大小は別として結局は同じ事なのだよ。それを破れば『卑しい奴だ』と謗りを受ける事となる。これが罰に当たる行為な訳だな」

「でもさ、相手にそう思われてもわたしは困らないわよ?」

「実に愚かな小娘だ! 世の中がお前の様な卑しい人間だらけになってみろ。それこそ誰が法を守るというのだ? 法を犯せば罰を受ける、だから法を犯さない。一般的にはこのような考えでいいだろう。しかしだ、法を守る人間が少数派となってしまえばその法自体に価値がなくなってしまうではないか。その結果はどうなる? 治安が乱れ民は不安に慄き、社会そのものの崩壊へと繋がるのだ。民に法を守らすためには明文化されていないルール――つまりはマナーやモラルといったものが必要となるのだよ。小は大を兼ねると言う奴だ。それを民草に与えてやるのが権力者――つまりは俺の義務な訳だ。よって、お前は俺に恥を掻かせない為にマナーを覚えなくてはいけないのだ」

 結局、偉そうな事を長々と述べた癖に言いたい事は最後の一行に納まっている訳だがフィーナを混乱させるには十分だった様だ。

「……キミの言っている事は難しくてよく解らないよ」

「フンッ、まあいい。そういうものが必要なのだ、と言う事さえ解ればよい」

 フィーナは彼の言葉に黙って頷く。

「でもさ、わたしだって好きでスリやってる訳じゃないのよ?」

 フォークを咥えながら能天気そうな顔で彼女がそう呟く。

「わたしってさ、捨て子なのよ。だからね、生きていくためには仕方がなかったの」

「……そうか、辛かったんだな。俺が悪かった……」

 ルークはそう言って彼女の頭を優しく撫でてやる。彼のその態度に機嫌を良くしたのかフィーナはニコリとした笑顔を見せる。が、それも苦悶の表情へと変わるのだ。

「と、でも言うと思ったか?」彼はガシリと彼女の頭を掴み強引に顔を近づけると、「『自分は孤児で親の庇護を受けられないから盗みに手を出した』だと? 甘ったれるな! お前はスリとなる前にどうやって生きてきたのだ?」

「……孤児院にいたわ。でも、いられるのは十五になるまでだったのよ!」

 そう答えて強引に頭を振ってルークの手から逃れるとキッと彼を睨みつける。

「フンッ、十五歳と言えば十分働けるではないか。なぜ、まっとうに働こうとは思わなかったんだ?」質問口調なのにルークはフィーナの答えを待たなかった。彼女が言いよどんでいたからではない。恐らくは質問をしているつもりなど彼にはなかったのだろう。

「お前が孤児だからどこも雇ってくれなかったか? お前が女だからか? いや、違うな。もし、お前が真っ当に生きようと思ってそれができなかったと言うのであれば――それはお前が無能だからだ!」

「わたしは自由に生きたかったのよ!」

 フィーナは思わず口から出てしまった言葉に思わずハッとしてしまう。これではまたルークの反論を許してしまうではないか! しかし、この場合、仕方がなかったのだ。どこまでも上から視線の彼が憎たらしくて仕方がなかったのだ。

「クックック……。お笑いだな」

 それに対しルークはとても可笑しいとは思えない冷たい表情を見せるとフィーナの頭を乱暴に叩くようにして放してからソファーにふんぞり返って続ける。

「お前は『自由に生きたい』と、言った。では、そもそも自由とは何だ?」

「うっ……」

 今度はルークは彼女の返答を待った。しかし、フィーナは言葉に詰まってしまい何も答えられずにいた。そんな様子を見て彼はヤレヤレとため息一つ吐いた後、今度は優しげな表情で会話を再開させた。

「自由とは、好き勝手になんでもしてよい、と言う意味ではない。与えられたルール――つまりは法に抵触しない範囲でなら行動を制限されない、と言う意味だ。処がお前はどうした? 自由に生きたいから人様の物を盗んで生きるだと? それは自由ではなく単に無法と言うのだ!」

 そもそも何が発端だったか? フィーナは考える。確かテーブルマナーの話だったと思うのだが何故、法の話になっているのだろう? 

 やがて、彼女は理解してしまったのだ。自分を言い負かせたルークの見下すようなそれでいて満足そうな光をたたえる瞳を見て。   

 そう、ルークにとって会話の内容などどうでもいい事であって、単に自分をイジメたいだけなのだと……。

「まあ、よい。アイナ、支度をしろ! 出かけるぞ」

「はい、ルーク」

 やがて、何も言い返せなくなったフィーナをいじるのに飽きたのかルークがそう言って部屋を出て行ってしまう。

(まったく! 何なのよ、アイツは!)

 その場に残された哀れなフィーナは一気に悔しさが噴き出して涙目になりながらひとしきり暴れた後に、むなしくなって膝を抱えてソファーに座った。

(あれ? 今、わたし一人きりって事は逃げられるのかな?)

 冷静になった後、彼女はこんな事を思いつくのだ。そして、辺りをキョロキョロと見回してみる。扉にカギを掛けられた形跡はない。いや、もしカギを掛けられていたとしてもあの扉は内側から外せるタイプだ。

 だから、それは問題にならない。そして、何らかの方法で扉が開かなくなっても窓がある。ここは二階だ。着地する時に足を痛める危険はあるが窓から脱出する事も可能だ。

(あたしって確かアイツらに捕らえられてるんだよね? もしかして、今って逃げる絶好の機会じゃないの? いや、性格の悪いアイツの事だからきっと逃げられないような細工がしてあって、逃げられないあたしを嘲け笑ってるのよ……)

 こんな事を考えながらフィーナは、そーっと扉を開けてみる。流石、上等な宿だ。扉は音も立てずに開いた。そこから顔だけを出してキョロキョロしてみる。通路はやはり上等な赤カーペットが敷かれていて高級感を醸し出していたが誰も見当たらない。

(じゃあ、窓の方かな?)

 恐る恐る窓を開けてみる。やはり、これも素直に開いてしまうのだ。念のためそこから下を見てみたがこれと言って逃亡の妨げとなるものは見当たらなかった。

(もしかして、ルークっておマヌケさん?)

 まさに絶好の機会であった。

 フィーナは今度は堂々と扉から部屋の外を出た。そして、上機嫌でフカフカの赤カーペットの感触を楽しみながら一階へと降りる。

 怪しまれてはいけないと彼女は胸を張りフロントを通過した。そして、宿の外へ出る。開放的な気分の中で浴びる日の光は実に心地よく、また実に呆気ない脱出劇であった。

「アイム・フリー・ナウ!」

 思わずバンザイをしてフィーナはこう叫ぶ。通行人が怪訝そうな顔で自分を見ていたが構うものか。だって、自分は今、自由なんだから。

 自分が数日間、軟禁されていた宿屋の方を振り返りその場を去ろうとした時、フィーナは突然、事の真相に気が付いてしまったのだ。

そして、彼女は部屋へと戻る。出た時の上機嫌をよそに肩を震わせながら……。

(ふざけんじゃないわよ! あの野郎、帰ったら絶対にとっちめてやるんだから……)

 怒りの収まらないフィーナは乱暴にクッションをベッドに投げつける。

 そう、彼女は気が付いてしまったのだ。ルークたちにとって自分の存在など、どうでもいいって事に。つまりは彼にとって自分が逃げ出す事など問題のない事なのだ。

 だからと言って、逃げてしまった方が自分にとって好都合なのは事実だ。だけど、そうしなかったのは想像してしまったからだ。『やはりな』と、にやけるルークの顔を……。

 それが憎たらしくって、憎たらしくって……。

「ルークのばかぁあ!」

 彼女の声がむなしく部屋の中に響いた


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