第9話「力の片鱗を見せようか」
火曜日の夜、柊は学園の図書室に残っていた。
返却期限の近い資料を読み終えるつもりだったが、気づけば外が暗くなっていた。時計を見ると午後八時を過ぎていた。門限まであと三十分。急いで荷物をまとめて図書室を出た。
廊下は静かだった。夜の学園は昼間と別の場所のように見える。非常灯だけが点いていて、足音が妙に響いた。
正門に向かう途中、近道をしようと中庭を横切った。
それが間違いだった。
最初に気づいたのは、足音が消えたことだった。
自分の足音が、ではない。後ろから一定の間隔でついてきていた足音が、ある瞬間から消えた。
柊が立ち止まった瞬間、背後から何かが被せられた。視界が消えた。声を出そうとした喉に、何かが触れた。能力を使った拘束だと瞬時にわかった。干渉系、おそらく知覚遮断と身体拘束の複合。
柊の意識がそこで途切れた。
気づいたときには、知らない場所にいた。
コンクリートの壁。窓がない。学園の外だと直感でわかった。においが違う。床が冷たかった。手首を何かで拘束されていた。能力を使おうとしたが、干渉されているのか上手く発動できなかった。
向かいに三人の人間が立っていた。
全員がフードを被っていて顔が見えない。体格はばらばらだった。一人は大柄で、一人は細身で、一人は柊とさほど変わらない体格だった。
大柄な一人が口を開いた。
「二宮柊。聖凰学園一年。父親は国家管理局上位能力者、二宮隆介」
声が低かった。感情が読み取れない声だった。
「何が目的ですか」と柊は言った。声が少し震えた。震えないようにしようとしたが、無理だった。
「お前に目的はない。お前は手段だ」
「何の」
「17番を引き出す」
柊は黙った。
「あいつはお前を助けに来る。それだけでいい」
柊は唇を噛んだ。来るな、と思った。でも来るだろうとも思った。なぜそう思うのか、自分でもわからなかった。
17が目を覚ましたのは午後八時四十分だった。
寮の自室。天井を見ていた。特に理由はなかった。ただ目が開いた。
数秒後、立ち上がった。
窓を開けた。夜風が入ってきた。学園の敷地を見渡した。中庭に、何かの痕跡があった。遠くて見えないが、感じた。干渉の残滓。誰かの能力が使われた跡。
17は上着を手に取った。
廃ビルだった。
学園から徒歩十五分の場所にある、取り壊し前の建物。17はその外壁の前に立って、中の気配を読んだ。四つ。柊と、三人。
三人の気配を順番に確認した。
一人目、強い。スコアA相当。
二人目、速い。おそらく速度特化。
三人目。
17は少しだけ間を置いた。
三人目の気配が、読めなかった。
輪郭がない。存在しているのはわかる。でも能力の種類も、強さの規模も、何も測れない。
17は扉を開けた。
三人が気づいたのは、17が部屋に入ってきた瞬間だった。
音がなかった。扉が開いた気配もなかった。気づいたときにはすでに部屋の中にいた。
大柄な一人が構えた。
「来たか」
「柊を返せ」と17は言った。
「返してほしければ大人しくしろ。お前に用があるのはこちらだ」
「断る」
大柄な男が踏み込んだ。スコアA相当の膂力と速度を乗せた突進だった。通常の生徒なら回避すら難しい。
17はその場から動かなかった。
男の拳が届く寸前、男の体が横に弾けた。何が起きたか誰にも見えなかった。男は壁に叩きつけられて、動かなくなった。
速度特化の二人目が動いた。残像を残す速度で17の背後を取ろうとした。
17は振り返らなかった。
速度特化の男が床に倒れた。膝をついて、立ち上がれなかった。足に力が入らないようだった。
二人が数秒で沈黙した。
残ったのは三人目だった。
細身の人物がフードを外した。
若かった。年齢は17と変わらないか、少し上。目が静かだった。朝霧に似た種類の静けさだったが、朝霧とは違う。朝霧の静けさは感情を抑えているものだ。この人物の静けさは、最初から感情がないような静けさだった。
「久しぶりだな、17」
17は答えなかった。
「覚えているか」
「覚えている」
柊は二人のやり取りを聞いていた。久しぶり。覚えているか。二人は知り合いだ。それも、最近ではなく、ずっと前からの。
細身の人物が右手をゆっくりと持ち上げた。
空気が変わった。柊には何が変わったのかわからなかったが、変わったとわかった。部屋全体の密度が上がったような、息をするたびに肺が重くなるような感覚だった。
「お前の力を見せてみろ。本物を」
「必要がない」と17は言った。
「そうか」細身の人物は微かに笑った。感情のない笑い方だった。「では俺が先に動く」
攻撃は見えなかった。
柊には何も見えなかった。ただ部屋全体の空気が一瞬だけ凝固したような感覚があって、壁にひびが入る音がした。床が揺れた。
17が後退した。
一歩だけ。たった一歩。でも柊がこれまで見てきた中で、17が初めて動いた瞬間だった。
細身の人物が右手を引いた。
「やはり効くか」
「少しだけな」と17は言った。
「少しだけ、か」細身の人物は17を見た。「それは敬意を表するべき言葉だ。俺の攻撃に少しでも効かれた人間は、今まで一人もいなかった」
17は答えなかった。
細身の人物がまた構えた。今度は両手を使った。先ほどより明らかに規模が大きかった。部屋の温度が下がった。壁に新しいひびが入った。柊の耳が痛くなった。
「今度は本気で行く」
17は目を閉じた。
一秒だけ。
目を開けたとき、右手を静かに前に向けた。指先が細身の人物に向いた。
声が出た。静かな声だった。感情がなく、ただ言葉として出てきた。
「Formula:0」
柊の視界が完全に消えた。
光ではなかった。暗転でもなかった。視界そのものが、一瞬だけ存在しなくなった。
次の瞬間、視界が戻った。
部屋は静かだった。
壁のひびはそのままだった。床の亀裂もそのままだった。でも細身の人物がいた場所だけが、違った。
何もなかった。
人がいた場所に、何もなかった。倒れているわけでも、消えたわけでも、逃げたわけでもない。ただ、そこだけが空白だった。床に微かな焦げ跡のようなものがあった。それだけだった。
柊は息ができなかった。
何が起きたのか、言語化できなかった。見たのに、見ていないのと同じだった。
17は右手を下げた。
振り返らなかった。倒れている二人を一瞥した。二人は気を失っていた。死んではいない。それだけを確認して、柊の方に歩いた。
「立てるか」と17は言った。
「立てる」と柊は言った。
実際には足が震えていた。17が腕を掴んだ。支えるというより、倒れる前に止めるような掴み方だった。
柊は17の顔を見た。
暗くて表情が読み取れなかった。
「今のは」と柊は言った。
17は答えなかった。
「さっき、何か言った。聞こえたけど、何を」
「何も言っていない」
「言った。確かに聞こえた」
「気のせいだ」
柊は部屋を見回した。壁のひび。床の亀裂。そして細身の人物がいた場所の、何もない空白。
「あそこにいた人は」
「いなかっただろ」
「いた」
「見ていたのか」
柊は黙った。見ていた。でも何も見えなかった。視界が消えて、戻ったらいなかった。それだけだ。
「帰るぞ」と17は言った。
柊は頷いた。
翌朝、学園に情報が伝わった。
聖凰学園の生徒が学園外で能力者集団に拘束されたが、何らかの原因で拘束者が無力化され、生徒は自力で帰還した。現場のビルには能力行使の痕跡が残っており、規模から見てスコアS相当以上の能力者が介入したとみられる。接触した能力者三名のうち一名の行方が不明。
神崎がホームルームでその概要を話した。詳細は伏せられていたが、被害者が柊だということはすぐに広まった。
生徒たちが騒ぎ始めた。
「S相当って誰がやったの」
「外部の能力者じゃないか」
「一名行方不明って、死んでるってこと?」
白瀬は静かにその会話を聞いていた。朝霧は窓の外を見ていた。
誰も17を見なかった。
17は窓際の席で、いつも通り外を見ていた。
柊だけが、横目でその横顔を見た。
確証はなかった。何も見えていなかった。視界が消えて、戻ったらすべてが終わっていた。聞こえた言葉も、17は否定した。
でも柊には一つだけわかることがあった。
あの場所に来たのは、17だけでよかった。
そしてあの空白だけが、どうしても頭から消えなかった。




