第61話「枷」
車が走り続けている。
助手席から見える景色は、もう施設のある区画を抜けていた。街灯が等間隔で流れていく。それだけだ。
後部座席は静かだった。
白瀬も、朝霧も、何も言わない。女性も窓の外を見ている。奥津だけが、隣に座った女性の袖をかすかに握っていた。気づいているのかいないのか、女性はそれを払わなかった。
俺はずっと前を向いていた。
さっき聞いた。俺とお前の関係は何だ、と。
女性は答えた。一言で。
白瀬が息を止めた。朝霧が目を伏せた。奥津が、声にならない何かを飲み込んだ。
俺は今も、その一言を胃の底に沈めたまま、ハンドルを握っている。
整理がつかないわけじゃない。ただ、整理したくない部分がある。そういうことだ。
---
拠点に着いたのは深夜二時を回った頃だった。
桐島が出迎えた。俺たちの顔を一通り見て、女性に視線が止まった。何も言わなかったが、目が「報告は後でいい」と言っていた。有能なやつだ。
「風呂と、寝る場所。頼む」
「準備してある」
それだけだった。
女性を奥津に任せて、俺は洗面所に向かった。鏡の前に立って、水を出す。顔を洗う。もう一度洗う。
冷たい水が首筋を伝う。
施設Bの地下二層。暗い部屋。女性は立っていた。倒れてもいなかった。泣いてもいなかった。ただ俺の顔を見て、それから何かを確かめるみたいに目を細めた。
そして俺の名前を呼んだ。
——夢で聞いた二文字と、一致した。
水を止める。タオルで顔を拭く。
鏡の中の自分は、ひどい顔をしていた。疲れているというより、何かに気づいてしまった顔だ。
気づかなければよかったとは思わない。ただ、知らなかった頃には戻れない。
それだけだ。
---
翌朝。
桐島が珈琲を持ってきた。テーブルに置いて、向かいに座る。報告を待っている顔だ。
「施設Bは地下二層構造。収容者は確認できた範囲で彼女一人。搬出口からの侵入は成功した。帰路に追跡なし」
「女性の状態は」
「歩ける。能力も残っている。詳細はまだ聞いていない」
桐島が珈琲を一口飲んだ。
「灰島が動く」
俺は何も言わなかった。
「施設Bが割られた。しかも収容者を連れて出た。灰島が知らないわけがない。これまでみたいに静観はしない」
「わかってる」
「……お前が彼女を連れ出すと決めた理由、聞いてもいいか」
答えは決まっていた。
「そこにいたからだ」
桐島は何も言わなかった。聞き返しもしなかった。ただ少しだけ目を細めて、珈琲に視線を落とした。
こいつは賢い。それ以上の意味があるとわかっていて、踏み込まない。
俺はそれに感謝した。
---
昼前に、白瀬が部屋に来た。
「眠れた?」
「少し」
「嘘だ」白瀬が笑う。「目の下が死んでる」
俺は否定しなかった。
白瀬は壁に背を預けて、腕を組んだ。しばらく沈黙が続いた。こいつが黙っているのは珍しい。
「昨夜の一言」
白瀬が言った。
「俺には関係のないことだと思ってる。本当に」
「……」
「ただ」白瀬の声が、少しだけ変わった。「お前が一人で抱えるやつじゃない気がして」
俺はしばらく天井を見た。
「灰島が俺を研究所に置いていた理由」
「うん」
「枷が必要だったんだ。俺を縛るための」
白瀬が黙って聞いている。
「一度、逃がそうとした。失敗した。それから俺は……大人しくなった」
正確ではない。でも嘘でもない。
白瀬は長い間、何も言わなかった。窓の外を見ていた。それから静かに口を開いた。
「取り戻したな」
断言だった。慰めでも、確認でも、励ましでもない。ただ、事実として言った。
俺は答えなかった。
答えなかったが——何かが、少しだけ軽くなった気がした。
---
夕方、廊下で女性とすれ違った。
奥津が隣にいた。女性は俺を見た。俺も見た。
何も言わなかった。
でも女性が少し歩みを緩めて、通り過ぎる直前にぼそりと言った。
「……ちゃんと食べてる?」
俺は一瞬、返す言葉を探した。
「食べてる」
「そう」
それだけだった。
廊下の角を曲がっていく二人の背中を、俺はしばらく見ていた。
胃の底に沈めていたものが、少しだけ形を変えた気がした。
整理は、まだできていない。
でも——まあ、いい。
灰島の話は、これから嫌というほど出てくる。
今夜はそれだけ考えれば十分だ。




