表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

60/111

第60話「あの名前」

 土曜日の昼、17は誰にも何も言わなかった。


 朝から動きがあった。桐島が榎本と最終確認を取った。水無瀬が学園周辺の管理局の動きを調べた。白瀬が施設の内部記録への最後のアクセスを試みた。朝霧が装備を確認した。


 17は一人で屋上にいた。


 夢の内容を反芻していた。


 廊下。雪。隣にいた誰か。二文字の名前。


 夢だったかもしれなかった。でも今まで見てきた夢と違った。今まで見てきた夢は廊下に誰かがいるだけだった。口が動いていても言葉が読めなかった。でも今朝の夢は読めた。


 二文字。


 その二文字を、17は今日何度も確認した。頭の中に残っていた。消えなかった。


 消えないということが、今朝の夢が別のものだということを示しているかもしれなかった。


 扉が開いた。


 咲だった。


「師匠」と咲は言った。いつもの大声ではなかった。少し静かな声だった。


「何だ」と17は言った。


「今日の夜、動くんでしょ」と咲は言った。


 17は少し止まった。「なぜ知っている」と17は言った。


「桐島先生の話が少し聞こえた」と咲は言った。「盗み聞きじゃなくて、廊下を通ったら聞こえちゃっただけだけど。」


「そうか」と17は言った。


「あたし、連れてってもらえる?」と咲は言った。


「無理だ」と17は言った。


「やっぱりそう言うと思った」と咲は言った。あっさりしていた。「じゃあ聞かない。ただ、師匠に言いたいことがあって来た。」


「何だ」と17は言った。


「帰ってきて」と咲は言った。「それだけ。今日も帰ってきて。」


「ああ」と17は言った。


「約束して」と咲は言った。小指を立てた。


 17が自分から小指を出した。「約束だ」と17は言った。


 咲が指を絡めた。それから少し笑った。「師匠が自分から指切りしてくれるようになった」と咲は言った。


「そうかもしれない」と17は言った。


「成長だ!!」と咲は言った。


「うるさい」と17は言った。


---


 昼過ぎ、柊が17を探した。


 図書室だった。17がそこにいた。本を開いていたが読んでいなかった。


「一人だった」と柊は言った。


「ああ」と17は言った。


 柊が隣に座った。本を持っていなかった。ただ来た。


「今日の夜、何かあるんだよね」と柊は言った。


 17は柊を見た。「なぜ知っている」と17は言った。


「棘が反応した」と柊は言った。「さっき17の顔を見たとき。決意の光だった。昨日屋上で話してた頃と同じ光。」


「棘は正確だな」と17は言った。


「うん」と柊は言った。「連れていけないのはわかってる。だから何も言わない。ただ」柊は少し間を置いた。「今日こそ、約束してほしい。無事に帰ってきてって。昨日と同じ約束。」


「約束だ」と17は言った。


「ちゃんと言って」と柊は言った。「無事に帰ってくるって。」


 17は柊を見た。「無事に帰ってくる」と17は言った。


 柊が少し息を吐いた。「ありがとう」と柊は言った。


 二人がしばらく並んでいた。図書室は静かだった。


「ねえ」と柊は言った。


「何だ」と17は言った。


「今日終わったら、全部話してくれる?」と柊は言った。「式系のこと、彙武(きかいぶ)のこと、今まで何があったか。全部じゃなくていい。でも少し話してほしい。」


「話す」と17は言った。


「本当に?」と柊は言った。


「本当に」と17は言った。「今日が終わったら。」


 柊が今度は長く息を吐いた。「わかった」と柊は言った。「待ってる。」


---


 夕方、全員で最終確認をした。


 桐島の小会議室に、17・白瀬・朝霧・桐島・水無瀬が集まった。


「今夜の動きを確認する」と桐島は言った。


「搬出口から入る」と17は言った。「俺と白瀬と朝霧の三人だ。遠野と奥津は外で待機してもらう。」


「遠野は了承しているか」と桐島は言った。


「している」と17は言った。「奥津の能力で内部の状況を外から読んでもらう。何かあったときの連絡役にもなる。」


「警備の能力者への対処は」と水無瀬は言った。


(おぼろ)で気配を消しながら動く」と17は言った。「できるだけ戦わずに進む。ただし戦う必要があれば戦う。(とざし)で能力を封じながら進む。」


「三層の構造はまだわかっていない」と白瀬は言った。「二層で対象を確認できたとして、三層に移動している場合は追加の判断が必要になる。」


「その場で判断する」と17は言った。


「連れ出すのは今夜か」と朝霧は言った。


「状況次第だ」と17は言った。「今夜は確認と接触が目標だ。連れ出せる状況なら連れ出す。できなければ今夜は引いて、改めて計画を立て直す。」


「無理はするな」と桐島は言った。


「わかった」と17は言った。


「本当にわかっているかが毎回心配だ」と桐島は言った。


「今回は本当にわかっている」と17は言った。


---


 夜十時、17たちは動いた。


 遠野の車だった。南に向かった。田んぼの間の道を走った。星が出ていた。風がなかった。静かな夜だった。


 前回と同じ場所に車を止めた。


 遠野と奥津が車に残った。白瀬と朝霧と17が降りた。


「行ってくる」と17は言った。


「連絡を絶やすな」と遠野は言った。


「ああ」と17は言った。


 奥津が17を見た。フードの中の目だった。「施設の中に入ったら、私の能力は届きにくくなる」と奥津は言った。「でも大きな変化があれば感知できる。何かあったら外に出ろ。」


「わかった」と17は言った。


「それと」と奥津は言った。少し間を置いた。「会えるといいな。」


 17は奥津を見た。「ああ」と17は言った。


---


 三人で歩いた。


 南東の方向に向かった。田んぼの端の盛り土まで来た。


「ここだ」と17は言った。


 白瀬が盛り土を確認した。草をどかした。下に金属の蓋があった。古かったが、錆びていなかった。定期的に開けられているのかもしれなかった。


「開けられる」と白瀬は言った。


「開けろ」と17は言った。


 白瀬が蓋を持ち上げた。音がした。小さい音だった。下に通路があった。暗かった。梯子があった。地下に続いていた。


 17が先に入った。


 梯子を下りた。左肩と右腕と右肩が痛んだ。でも下りられた。


 白瀬が続いた。朝霧が最後に入った。蓋を閉めた。


 暗くなった。


---


 通路は狭かった。


 二人が並んで歩けないほどの幅だった。高さは普通の人間が屈まずに歩ける程度だった。コンクリートだった。古かったが崩れていなかった。


 17が先頭を歩いた。


「**式系・籲**」


 気配が薄くなった。自分の存在が霧のように散った感覚があった。完全に消えたわけではなかった。でも著しく薄くなった。


「**式系・(かがみ)**」


 領域知覚が展開された。周囲の空間を感知した。通路の先に何があるかを読んだ。


 三人が歩いた。無言だった。足音を殺した。


 五分ほど歩いた。


 通路が終わった。


 扉があった。金属の扉だった。鍵がかかっていなかった。緊急搬出口だった。内側から開けるための扉だったから、外側には鍵がなかった。


 17が蚜で扉の向こうを確認した。


 気配があった。一つ。廊下を歩いていた。能力者だった。でも今は遠かった。


「一人いる」と17は小声で言った。「今は遠い。十秒後に通り過ぎる。」


 三人が止まった。


 数えた。


 十秒後、気配が通り過ぎた。遠ざかった。


「行く」と17は言った。


 扉を開けた。


---


 施設の中だった。


 廊下だった。


 白い廊下だった。


 17は少し止まった。


 白い廊下だった。夢の中で見たものと同じだった。コンクリートの壁。蛍光灯。天井が低かった。窓がなかった。


 窓がなかった。


 夢の中では窓があった。ここではなかった。ここは地下だった。窓があるとしたら別の場所だった。


 白瀬が17の背中を見た。止まっていることに気づいた。「大丈夫か」と白瀬は小声で言った。


「大丈夫だ」と17は言った。


 三人が廊下を進んだ。


---


 一層は管理区画だった。


 設計図の通りだった。廊下の左右に部屋があった。扉が閉まっていた。蚜で確認した。機械の気配があった。記録型の機器かもしれなかった。人の気配は少なかった。


 階段を見つけた。二層への階段だった。


 17が蚜で確認した。階段の下に気配があった。二人。能力者だった。


「二人いる」と17は小声で言った。「でも今は動いていない。座っているか寝ているか。」


「抜けられるか」と朝霧は小声で言った。


「籲で通る」と17は言った。


 三人が階段を下りた。


 17が先頭だった。籲で気配を極限まで薄くした。白瀬と朝霧の気配は籲では消せなかった。でも二人も動きを最小にして進んだ。


 廊下の端に、二人の警備が見えた。椅子に座っていた。一人は俯いていた。眠っているかもしれなかった。もう一人は別の方向を向いていた。


 三人が警備の視界の外を通った。


 気づかれなかった。


---


 二層だった。


 居住区画だった。廊下の左右に扉が並んでいた。一層より扉の数が多かった。


 17が蚜を使った。


 気配を読んだ。


 いた。


 廊下の奥の部屋に、一つの気配があった。


 能力者だった。計測不能の気配だった。


 17は少し止まった。


 計測不能の気配が、地下の奥から感じられた。それがずっと外に向かって何かを出し続けていた。北東の方向に。学園の方向に。


 今、その気配のすぐ近くにいた。


「いる」と17は白瀬に小声で言った。「奥の部屋だ。」


「警備は」と白瀬は言った。


「この層には今のところ一人だ」と17は言った。「奥の部屋の前に立っている。」


「一人か」と朝霧は言った。


「ただし、能力者だ」と17は言った。「解析した。知覚強化系だ。気配を感じやすい系統だ。籲で完全に通り過ぎるのは難しいかもしれない。」


「どうする」と白瀬は言った。


「俺が引きつける」と17は言った。「白瀬と朝霧は別の経路で奥の部屋に近づいてくれ。」


「お前一人で」と白瀬は言った。


「俺一人で十分だ」と17は言った。「傷があっても、一人を相手にするくらいはできる。」


「わかった」と白瀬は言った。渋そうだったが頷いた。


---


 17が廊下を進んだ。


 籲で気配を薄くしながら、あえて少しだけ気配を残した。知覚強化系の警備に気づかせるために。


 警備が動いた。こちらに来た。


「誰だ」と警備は言った。


 17が出た。「俺だ」と17は言った。


 警備が驚いた顔をした。「お前は」と警備は言った。「どこから入った。」


「搬出口から」と17は言った。


 警備が能力を使おうとした。17が先に動いた。傷が痛んだ。でも動いた。警備の懐に入り込んで、関節を取った。倒した。


「**式系・笪**」


 警備の能力が封じられた。警備が動かなくなった。


---


 白瀬と朝霧が来た。


「制圧したか」と白瀬は言った。


「ああ」と17は言った。「奥の部屋だ。」


 三人が奥に向かった。


 扉があった。普通の扉だった。鍵がかかっていた。


 17が鍵を確認した。電子錠ではなかった。物理的な鍵だった。倒した警備のポケットを確認した。鍵があった。


 鍵を差し込んだ。


 回した。


 扉が開いた。


---


 部屋の中だった。


 小さい部屋だった。ベッドが一つ。机が一つ。窓がなかった。


 映像で見た部屋だった。三か月前の映像の中の部屋だった。


 椅子に座っている人間がいた。


 机に向かっていた。こちらに背を向けていた。


 扉が開いた音に気づいたのか、顔を上げた。振り返った。


---


 17は動かなかった。


 顔が見えた。


 映像の中の顔だった。見覚えがあると思っていた顔だった。


 女性だった。二十代前後だった。髪が長かった。目が静かだった。


 その目が17を見た。


 しばらく、二人が動かなかった。


 女性の目に何かが浮かんだ。驚きではなかった。安堵でもなかった。もっと別の何かだった。言葉にならない何かだった。


 女性が口を開いた。


 声が出た。


 ほとんど囁くような声だった。でも確かに聞こえた。


 17の名前を呼んだ。


 本名を呼んだ。


 夢の中で聞いた二文字だった。


---


 17は動かなかった。


 記憶はなかった。


 でもその声を聞いた瞬間に、何かが動いた。記憶ではなかった。感覚だった。聞き覚えのある声だった。その声が17の名前を知っていた。


 17は一歩前に出た。


「お前が」と17は言った。「ずっと外に向かって届けようとしていたのか。」


 女性が頷いた。


「俺に向かって」と17は言った。


 また頷いた。


「届いていた」と17は言った。「夢だったかもしれないが、届いていた。」


 女性の目が少し揺れた。


「名前を聞いていいか」と17は言った。


 女性が口を開いた。


 答えた。


 白瀬と朝霧が後ろで聞いていた。二人が顔を見合わせた。


---


 白瀬が17の隣に来た。小声で言った。「17、その人は」と白瀬は言った。


「わかっている」と17は言った。


「本当にわかっているか」と白瀬は言った。


「わかっている」と17は言った。もう一度言った。


 朝霧が扉の外を確認した。「時間がない」と朝霧は言った。「別の警備が気づく前に動く必要がある。」


「連れ出せるか」と17は女性に向かって言った。「今夜、ここから出られるか。」


 女性が17を見た。しばらく17の顔を見た。何かを確かめるように見た。


 それから頷いた。


「行こう」と17は言った。


---


 三人と女性で、廊下を戻った。


 倒した警備はまだ動いていなかった。笪の効果が続いていた。


 階段を上った。一層に戻った。


 蚜で確認した。一層の警備が一人、こちらに向かって来ていた。


「一人来る」と17は言った。


「どこから」と朝霧は言った。


「右の廊下だ」と17は言った。「三十秒で来る。」


「搬出口まで走れるか」と白瀬は言った。


「走る」と17は言った。


 全員が走った。


 廊下を走った。搬出口の扉が見えた。


 警備が角を曲がってきた。こちらを見た。「止まれ」と警備は言った。


 17が振り返らずに「**式系・(くびき)**」を使った。後ろ向きに糸を走らせた。警備の足に絡んだ。警備が転んだ。


 扉を開けた。


 通路に入った。


 四人が通路を走った。梯子を上った。蓋を開けた。


 外に出た。


---


 夜の田んぼだった。


 星が出ていた。風がなかった。静かだった。


 四人が外に出た。蓋を閉めた。


 全員が立ち止まった。息を整えた。


 17は女性を見た。女性は外の空気を吸っていた。目を閉じていた。風がなくても、外の空気が違うのかもしれなかった。


 五年ぶりではなかった。


 女性は施設Bにずっといた。奥津が出てから今まで、ずっとここにいた。


 外の空気を吸っていた。


 17はその様子をしばらく見た。


 遠野の車が近づいてきた。外で待機していた遠野が、奥津の能力で状況を把握して動いてきたのかもしれなかった。


 車が止まった。遠野が降りてきた。


 奥津も降りてきた。


 奥津が女性を見た。


 女性が奥津を見た。


 二人がしばらく、お互いを見た。


 奥津がフードを下ろした。


 女性が少し動いた。奥津の顔を確認するように見た。それから何かを言った。声が小さすぎて17には聞こえなかった。


 奥津が頷いた。


---


 車に乗った。


 全員が乗った。学園に向かって走り始めた。


 車内が静かだった。


 17は女性の隣に座っていた。女性は窓の外を見ていた。夜の田んぼが流れていた。街灯の光が断続的に入ってきた。


 女性がそれをずっと見ていた。


 外を見ていた。


 17はその横顔を少し見た。


 見覚えがあった。


 記憶ではなかった。でも見覚えがあった。夢の中で、廊下の窓から雪を見ていた。隣にいた誰か。その雰囲気が、今の横顔と重なった。


「名前を教えてくれたな」と17は言った。小声だった。


「教えた」と女性は言った。窓の外を見たまま言った。


「俺の名前を知っていた」と17は言った。


「知っていた」と女性は言った。「ずっと知っていた。忘れたことがなかった。」


「俺は忘れていた」と17は言った。「消された。」


「知っている」と女性は言った。「灰島がやった。」


「なぜそれを知っている」と17は言った。


「見ていたから」と女性は言った。


 窓の外の景色が変わった。田んぼが終わって、住宅地に入った。街灯が増えた。


「もう一つ聞いていいか」と17は言った。


「聞いて」と女性は言った。


「俺とお前の関係は何だ」と17は言った。


 女性が窓の外から視線を外した。17を見た。


 静かな目だった。


 それから言った。


 一言だった。


 白瀬が前の座席で少し動いた。朝霧が目を伏せた。遠野が前を向いたまま何も言わなかった。霧谷が手帳を持ったまま静止した。奥津が窓の外を見た。


 17は動かなかった。


 記憶がなかった。でもその一言を聞いたとき、何かが胸の中で動いた。


 大きく動いた。


 記憶ではなかった。でも確かに動いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ