第60話「あの名前」
土曜日の昼、17は誰にも何も言わなかった。
朝から動きがあった。桐島が榎本と最終確認を取った。水無瀬が学園周辺の管理局の動きを調べた。白瀬が施設の内部記録への最後のアクセスを試みた。朝霧が装備を確認した。
17は一人で屋上にいた。
夢の内容を反芻していた。
廊下。雪。隣にいた誰か。二文字の名前。
夢だったかもしれなかった。でも今まで見てきた夢と違った。今まで見てきた夢は廊下に誰かがいるだけだった。口が動いていても言葉が読めなかった。でも今朝の夢は読めた。
二文字。
その二文字を、17は今日何度も確認した。頭の中に残っていた。消えなかった。
消えないということが、今朝の夢が別のものだということを示しているかもしれなかった。
扉が開いた。
咲だった。
「師匠」と咲は言った。いつもの大声ではなかった。少し静かな声だった。
「何だ」と17は言った。
「今日の夜、動くんでしょ」と咲は言った。
17は少し止まった。「なぜ知っている」と17は言った。
「桐島先生の話が少し聞こえた」と咲は言った。「盗み聞きじゃなくて、廊下を通ったら聞こえちゃっただけだけど。」
「そうか」と17は言った。
「あたし、連れてってもらえる?」と咲は言った。
「無理だ」と17は言った。
「やっぱりそう言うと思った」と咲は言った。あっさりしていた。「じゃあ聞かない。ただ、師匠に言いたいことがあって来た。」
「何だ」と17は言った。
「帰ってきて」と咲は言った。「それだけ。今日も帰ってきて。」
「ああ」と17は言った。
「約束して」と咲は言った。小指を立てた。
17が自分から小指を出した。「約束だ」と17は言った。
咲が指を絡めた。それから少し笑った。「師匠が自分から指切りしてくれるようになった」と咲は言った。
「そうかもしれない」と17は言った。
「成長だ!!」と咲は言った。
「うるさい」と17は言った。
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昼過ぎ、柊が17を探した。
図書室だった。17がそこにいた。本を開いていたが読んでいなかった。
「一人だった」と柊は言った。
「ああ」と17は言った。
柊が隣に座った。本を持っていなかった。ただ来た。
「今日の夜、何かあるんだよね」と柊は言った。
17は柊を見た。「なぜ知っている」と17は言った。
「棘が反応した」と柊は言った。「さっき17の顔を見たとき。決意の光だった。昨日屋上で話してた頃と同じ光。」
「棘は正確だな」と17は言った。
「うん」と柊は言った。「連れていけないのはわかってる。だから何も言わない。ただ」柊は少し間を置いた。「今日こそ、約束してほしい。無事に帰ってきてって。昨日と同じ約束。」
「約束だ」と17は言った。
「ちゃんと言って」と柊は言った。「無事に帰ってくるって。」
17は柊を見た。「無事に帰ってくる」と17は言った。
柊が少し息を吐いた。「ありがとう」と柊は言った。
二人がしばらく並んでいた。図書室は静かだった。
「ねえ」と柊は言った。
「何だ」と17は言った。
「今日終わったら、全部話してくれる?」と柊は言った。「式系のこと、彙武のこと、今まで何があったか。全部じゃなくていい。でも少し話してほしい。」
「話す」と17は言った。
「本当に?」と柊は言った。
「本当に」と17は言った。「今日が終わったら。」
柊が今度は長く息を吐いた。「わかった」と柊は言った。「待ってる。」
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夕方、全員で最終確認をした。
桐島の小会議室に、17・白瀬・朝霧・桐島・水無瀬が集まった。
「今夜の動きを確認する」と桐島は言った。
「搬出口から入る」と17は言った。「俺と白瀬と朝霧の三人だ。遠野と奥津は外で待機してもらう。」
「遠野は了承しているか」と桐島は言った。
「している」と17は言った。「奥津の能力で内部の状況を外から読んでもらう。何かあったときの連絡役にもなる。」
「警備の能力者への対処は」と水無瀬は言った。
「籲で気配を消しながら動く」と17は言った。「できるだけ戦わずに進む。ただし戦う必要があれば戦う。笪で能力を封じながら進む。」
「三層の構造はまだわかっていない」と白瀬は言った。「二層で対象を確認できたとして、三層に移動している場合は追加の判断が必要になる。」
「その場で判断する」と17は言った。
「連れ出すのは今夜か」と朝霧は言った。
「状況次第だ」と17は言った。「今夜は確認と接触が目標だ。連れ出せる状況なら連れ出す。できなければ今夜は引いて、改めて計画を立て直す。」
「無理はするな」と桐島は言った。
「わかった」と17は言った。
「本当にわかっているかが毎回心配だ」と桐島は言った。
「今回は本当にわかっている」と17は言った。
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夜十時、17たちは動いた。
遠野の車だった。南に向かった。田んぼの間の道を走った。星が出ていた。風がなかった。静かな夜だった。
前回と同じ場所に車を止めた。
遠野と奥津が車に残った。白瀬と朝霧と17が降りた。
「行ってくる」と17は言った。
「連絡を絶やすな」と遠野は言った。
「ああ」と17は言った。
奥津が17を見た。フードの中の目だった。「施設の中に入ったら、私の能力は届きにくくなる」と奥津は言った。「でも大きな変化があれば感知できる。何かあったら外に出ろ。」
「わかった」と17は言った。
「それと」と奥津は言った。少し間を置いた。「会えるといいな。」
17は奥津を見た。「ああ」と17は言った。
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三人で歩いた。
南東の方向に向かった。田んぼの端の盛り土まで来た。
「ここだ」と17は言った。
白瀬が盛り土を確認した。草をどかした。下に金属の蓋があった。古かったが、錆びていなかった。定期的に開けられているのかもしれなかった。
「開けられる」と白瀬は言った。
「開けろ」と17は言った。
白瀬が蓋を持ち上げた。音がした。小さい音だった。下に通路があった。暗かった。梯子があった。地下に続いていた。
17が先に入った。
梯子を下りた。左肩と右腕と右肩が痛んだ。でも下りられた。
白瀬が続いた。朝霧が最後に入った。蓋を閉めた。
暗くなった。
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通路は狭かった。
二人が並んで歩けないほどの幅だった。高さは普通の人間が屈まずに歩ける程度だった。コンクリートだった。古かったが崩れていなかった。
17が先頭を歩いた。
「**式系・籲**」
気配が薄くなった。自分の存在が霧のように散った感覚があった。完全に消えたわけではなかった。でも著しく薄くなった。
「**式系・蚜**」
領域知覚が展開された。周囲の空間を感知した。通路の先に何があるかを読んだ。
三人が歩いた。無言だった。足音を殺した。
五分ほど歩いた。
通路が終わった。
扉があった。金属の扉だった。鍵がかかっていなかった。緊急搬出口だった。内側から開けるための扉だったから、外側には鍵がなかった。
17が蚜で扉の向こうを確認した。
気配があった。一つ。廊下を歩いていた。能力者だった。でも今は遠かった。
「一人いる」と17は小声で言った。「今は遠い。十秒後に通り過ぎる。」
三人が止まった。
数えた。
十秒後、気配が通り過ぎた。遠ざかった。
「行く」と17は言った。
扉を開けた。
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施設の中だった。
廊下だった。
白い廊下だった。
17は少し止まった。
白い廊下だった。夢の中で見たものと同じだった。コンクリートの壁。蛍光灯。天井が低かった。窓がなかった。
窓がなかった。
夢の中では窓があった。ここではなかった。ここは地下だった。窓があるとしたら別の場所だった。
白瀬が17の背中を見た。止まっていることに気づいた。「大丈夫か」と白瀬は小声で言った。
「大丈夫だ」と17は言った。
三人が廊下を進んだ。
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一層は管理区画だった。
設計図の通りだった。廊下の左右に部屋があった。扉が閉まっていた。蚜で確認した。機械の気配があった。記録型の機器かもしれなかった。人の気配は少なかった。
階段を見つけた。二層への階段だった。
17が蚜で確認した。階段の下に気配があった。二人。能力者だった。
「二人いる」と17は小声で言った。「でも今は動いていない。座っているか寝ているか。」
「抜けられるか」と朝霧は小声で言った。
「籲で通る」と17は言った。
三人が階段を下りた。
17が先頭だった。籲で気配を極限まで薄くした。白瀬と朝霧の気配は籲では消せなかった。でも二人も動きを最小にして進んだ。
廊下の端に、二人の警備が見えた。椅子に座っていた。一人は俯いていた。眠っているかもしれなかった。もう一人は別の方向を向いていた。
三人が警備の視界の外を通った。
気づかれなかった。
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二層だった。
居住区画だった。廊下の左右に扉が並んでいた。一層より扉の数が多かった。
17が蚜を使った。
気配を読んだ。
いた。
廊下の奥の部屋に、一つの気配があった。
能力者だった。計測不能の気配だった。
17は少し止まった。
計測不能の気配が、地下の奥から感じられた。それがずっと外に向かって何かを出し続けていた。北東の方向に。学園の方向に。
今、その気配のすぐ近くにいた。
「いる」と17は白瀬に小声で言った。「奥の部屋だ。」
「警備は」と白瀬は言った。
「この層には今のところ一人だ」と17は言った。「奥の部屋の前に立っている。」
「一人か」と朝霧は言った。
「ただし、能力者だ」と17は言った。「解析した。知覚強化系だ。気配を感じやすい系統だ。籲で完全に通り過ぎるのは難しいかもしれない。」
「どうする」と白瀬は言った。
「俺が引きつける」と17は言った。「白瀬と朝霧は別の経路で奥の部屋に近づいてくれ。」
「お前一人で」と白瀬は言った。
「俺一人で十分だ」と17は言った。「傷があっても、一人を相手にするくらいはできる。」
「わかった」と白瀬は言った。渋そうだったが頷いた。
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17が廊下を進んだ。
籲で気配を薄くしながら、あえて少しだけ気配を残した。知覚強化系の警備に気づかせるために。
警備が動いた。こちらに来た。
「誰だ」と警備は言った。
17が出た。「俺だ」と17は言った。
警備が驚いた顔をした。「お前は」と警備は言った。「どこから入った。」
「搬出口から」と17は言った。
警備が能力を使おうとした。17が先に動いた。傷が痛んだ。でも動いた。警備の懐に入り込んで、関節を取った。倒した。
「**式系・笪**」
警備の能力が封じられた。警備が動かなくなった。
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白瀬と朝霧が来た。
「制圧したか」と白瀬は言った。
「ああ」と17は言った。「奥の部屋だ。」
三人が奥に向かった。
扉があった。普通の扉だった。鍵がかかっていた。
17が鍵を確認した。電子錠ではなかった。物理的な鍵だった。倒した警備のポケットを確認した。鍵があった。
鍵を差し込んだ。
回した。
扉が開いた。
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部屋の中だった。
小さい部屋だった。ベッドが一つ。机が一つ。窓がなかった。
映像で見た部屋だった。三か月前の映像の中の部屋だった。
椅子に座っている人間がいた。
机に向かっていた。こちらに背を向けていた。
扉が開いた音に気づいたのか、顔を上げた。振り返った。
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17は動かなかった。
顔が見えた。
映像の中の顔だった。見覚えがあると思っていた顔だった。
女性だった。二十代前後だった。髪が長かった。目が静かだった。
その目が17を見た。
しばらく、二人が動かなかった。
女性の目に何かが浮かんだ。驚きではなかった。安堵でもなかった。もっと別の何かだった。言葉にならない何かだった。
女性が口を開いた。
声が出た。
ほとんど囁くような声だった。でも確かに聞こえた。
17の名前を呼んだ。
本名を呼んだ。
夢の中で聞いた二文字だった。
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17は動かなかった。
記憶はなかった。
でもその声を聞いた瞬間に、何かが動いた。記憶ではなかった。感覚だった。聞き覚えのある声だった。その声が17の名前を知っていた。
17は一歩前に出た。
「お前が」と17は言った。「ずっと外に向かって届けようとしていたのか。」
女性が頷いた。
「俺に向かって」と17は言った。
また頷いた。
「届いていた」と17は言った。「夢だったかもしれないが、届いていた。」
女性の目が少し揺れた。
「名前を聞いていいか」と17は言った。
女性が口を開いた。
答えた。
白瀬と朝霧が後ろで聞いていた。二人が顔を見合わせた。
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白瀬が17の隣に来た。小声で言った。「17、その人は」と白瀬は言った。
「わかっている」と17は言った。
「本当にわかっているか」と白瀬は言った。
「わかっている」と17は言った。もう一度言った。
朝霧が扉の外を確認した。「時間がない」と朝霧は言った。「別の警備が気づく前に動く必要がある。」
「連れ出せるか」と17は女性に向かって言った。「今夜、ここから出られるか。」
女性が17を見た。しばらく17の顔を見た。何かを確かめるように見た。
それから頷いた。
「行こう」と17は言った。
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三人と女性で、廊下を戻った。
倒した警備はまだ動いていなかった。笪の効果が続いていた。
階段を上った。一層に戻った。
蚜で確認した。一層の警備が一人、こちらに向かって来ていた。
「一人来る」と17は言った。
「どこから」と朝霧は言った。
「右の廊下だ」と17は言った。「三十秒で来る。」
「搬出口まで走れるか」と白瀬は言った。
「走る」と17は言った。
全員が走った。
廊下を走った。搬出口の扉が見えた。
警備が角を曲がってきた。こちらを見た。「止まれ」と警備は言った。
17が振り返らずに「**式系・絔**」を使った。後ろ向きに糸を走らせた。警備の足に絡んだ。警備が転んだ。
扉を開けた。
通路に入った。
四人が通路を走った。梯子を上った。蓋を開けた。
外に出た。
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夜の田んぼだった。
星が出ていた。風がなかった。静かだった。
四人が外に出た。蓋を閉めた。
全員が立ち止まった。息を整えた。
17は女性を見た。女性は外の空気を吸っていた。目を閉じていた。風がなくても、外の空気が違うのかもしれなかった。
五年ぶりではなかった。
女性は施設Bにずっといた。奥津が出てから今まで、ずっとここにいた。
外の空気を吸っていた。
17はその様子をしばらく見た。
遠野の車が近づいてきた。外で待機していた遠野が、奥津の能力で状況を把握して動いてきたのかもしれなかった。
車が止まった。遠野が降りてきた。
奥津も降りてきた。
奥津が女性を見た。
女性が奥津を見た。
二人がしばらく、お互いを見た。
奥津がフードを下ろした。
女性が少し動いた。奥津の顔を確認するように見た。それから何かを言った。声が小さすぎて17には聞こえなかった。
奥津が頷いた。
---
車に乗った。
全員が乗った。学園に向かって走り始めた。
車内が静かだった。
17は女性の隣に座っていた。女性は窓の外を見ていた。夜の田んぼが流れていた。街灯の光が断続的に入ってきた。
女性がそれをずっと見ていた。
外を見ていた。
17はその横顔を少し見た。
見覚えがあった。
記憶ではなかった。でも見覚えがあった。夢の中で、廊下の窓から雪を見ていた。隣にいた誰か。その雰囲気が、今の横顔と重なった。
「名前を教えてくれたな」と17は言った。小声だった。
「教えた」と女性は言った。窓の外を見たまま言った。
「俺の名前を知っていた」と17は言った。
「知っていた」と女性は言った。「ずっと知っていた。忘れたことがなかった。」
「俺は忘れていた」と17は言った。「消された。」
「知っている」と女性は言った。「灰島がやった。」
「なぜそれを知っている」と17は言った。
「見ていたから」と女性は言った。
窓の外の景色が変わった。田んぼが終わって、住宅地に入った。街灯が増えた。
「もう一つ聞いていいか」と17は言った。
「聞いて」と女性は言った。
「俺とお前の関係は何だ」と17は言った。
女性が窓の外から視線を外した。17を見た。
静かな目だった。
それから言った。
一言だった。
白瀬が前の座席で少し動いた。朝霧が目を伏せた。遠野が前を向いたまま何も言わなかった。霧谷が手帳を持ったまま静止した。奥津が窓の外を見た。
17は動かなかった。
記憶がなかった。でもその一言を聞いたとき、何かが胸の中で動いた。
大きく動いた。
記憶ではなかった。でも確かに動いた。




