第58話「景色が、綺麗だな」
屋上への階段を上った。
左肩が痛かった。右腕も痛かった。どちらも浅かったが、出血が続いていた。上着が赤くなっていた。動くたびに痛みが走った。でも止まる理由にはならなかった。
追跡の能力でスナイパーの位置を確認した。
屋上の端にいた。腹這いになっていた。銃口は階段の扉に向いていた。17が出てくることを想定していた。扉を開けた瞬間に撃つつもりだった。
わかっていた。
17は階段の踊り場で止まった。扉まであと五段だった。
考えた。
扉を開けて出れば撃たれる。扉を開けずにいれば膠着する。かといって迂回する経路はなかった。屋上への出口はここだけだった。
別の方法が必要だった。
17は上着の内側を確認した。刃物が二本残っていた。さっきの戦闘で使った二本は、廊下に置いてきていた。回収している時間はなかった。
二本の刃物では、屋上の端まで届かない。距離がありすぎた。
ならば。
17は内側をもう一度確認した。
奥にあった。
細長い筒状の物体だった。常に携帯していたが、今まで一度も使ったことがなかった。伸ばすと長くなる設計だった。
銃ではなかった。でも銃に近い形になった。
「**遠**」
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物体の感触が変わった。
重さが変わった。手の中で、物体の軌跡が定まった感覚があった。超長距離、無音。その性質が付与された。
彙武のスナイパーライフルだった。
本物の銃ではなかった。でも彙武の詠唱によって、その性質を持った。能力で強化された射撃が可能になった。
17は扉の横に寄った。壁を背にした。扉を開けずに、扉の蝶番の隙間に指をかけた。
追跡の能力でスナイパーの位置を再確認した。屋上の端。腹這い。銃口が扉に向いていた。
17は扉を蹴った。
扉が勢いよく開いた。銃声がした。弾が扉の縁を掠めた。スナイパーが反射的に撃った。でも17は扉の横にいた。当たらなかった。
その一瞬で17が扉から屋上に出た。
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屋上は広かった。
夕方の空だった。夕日が落ちかけていた。空が橙と青の間だった。風があった。
スナイパーが銃口を17に向け直した。速かった。訓練された動きだった。
17が横に動いた。弾が来た。屋上の床を掠めた。
距離が遠かった。屋上の端と端くらいの距離があった。三十メートル以上。彙武の刃物では届かなかった。
スナイパーも同じことを知っていた。距離を保ったまま撃ち続ける戦略だった。
17が前に出た。
弾が来た。左足の脇に落ちた。
また前に出た。
弾が来た。今度は右腕の負傷部位の近くに当たった。擦り傷になった。
「止まれ」とスナイパーが言った。初めて声を出した。女の声だった。低かった。「これ以上近づくと急所を狙う。」
「名前は」と17は言った。
「関係ない」とスナイパーは言った。
「雲雀は制圧した」と17は言った。「お前一人になった。降参しないか。」
「しない」とスナイパーは言った。「任務を完了するまで動かない。」
「任務は俺を連行することか」と17は言った。
「そうだ」とスナイパーは言った。「連行できないなら、ここで終わらせる。」
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17は止まった。
追跡の能力でスナイパーの輪郭を読んだ。解析の能力が動いた。
スナイパーの能力がわかった。射撃強化系だった。弾丸に能力を付与して飛距離と貫通力を上げる。距離が離れるほど威力が増す系統だった。
つまり近づくほど威力が下がる。
でも近づく前に撃たれる。
目の解析と追跡を同時に使えば、弾の軌跡を予測できる可能性があった。でも両腕が負傷していた。回避に使える体の動きが制限されていた。
正面から近づくのは無理だった。
17は屋上の端に寄った。縁まで来た。下を見た。地面が遠かった。
スナイパーが銃口を向けた。「縁に立つな。落ちるぞ。」
「わかっている」と17は言った。
縁に立ったまま、空を見た。
夕日が落ちかけていた。空が橙だった。雲が少しあった。風が吹いていた。
17は彙武のスナイパーライフルを構えた。
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スナイパーが少し動いた。
「それで俺を狙うつもりか」とスナイパーは言った。「お前の彙武のことは情報として知っている。遠の詠唱で超長距離射撃ができる。でも今のお前は両腕が負傷している。狙いが安定しない。俺の方が有利だ。」
「そうだな」と17は言った。
「降参しろ」とスナイパーは言った。「それで終わりにしよう。」
「降参しない」と17は言った。
「なぜだ」とスナイパーは言った。
「さあ」と17は言った。
スナイパーが引き金に指をかけた。
17は縁に立ったまま、目を細めた。
追跡の能力を使った。スナイパーの位置を正確に捉えた。解析の能力を使った。スナイパーの構えの微細な動きを読んだ。次の弾がどこに向かうかを予測した。
両腕が痛かった。でも目は使えた。
目が使えれば十分だった。
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17は彙武のスナイパーライフルを構えたまま、静止した。
風が吹いた。
夕日が落ちていた。空の橙が深くなっていた。
スナイパーが撃った。
17は半歩だけ右に動いた。弾が左耳の横を通り過ぎた。
同時に17が撃った。
音がなかった。無音だった。遠の性質が付与された彙武の射撃だった。
スナイパーが動いた。回避しようとした。
当たらなかった。
スナイパーが横に動いた分、彙武の弾が逸れた。
17は次を構えた。
スナイパーも次を構えた。
二発目の撃ち合いになった。
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スナイパーが撃った。
17が左に動いた。右腕に弾が掠めた。負傷部位の近くだった。痛みが増した。
17が撃った。
スナイパーが右に動いた。外れた。
三発目。
スナイパーが撃った。今度は速かった。
17の右肩に当たった。
17が後退した。縁から一歩離れた。膝をつきそうになった。踏みとどまった。
「次で終わりにする」とスナイパーは言った。「急所を狙う。」
17は右肩を押さえた。右腕が言うことをきかなくなっていた。
彙武のスナイパーライフルを左手だけで構えた。左肩が最初に負傷した場所だった。痛かった。でも構えた。
左手だけで狙いを定めるのは難しかった。体が安定しなかった。
スナイパーが銃口を向けた。
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17は目を使った。
追跡の能力でスナイパーの位置を捉えた。解析の能力でスナイパーの構えの微細な動きを読んだ。
スナイパーの指が引き金にかかった瞬間の筋肉の動きを読んだ。次の弾の軌跡を予測した。
右に来る。
左手で構えたまま、右に動く準備をした。
同時に、目に付与された別の能力が動いた。
看破。
嘘と本音を識別する能力だった。でも今、看破がスナイパーの体の動きを読んでいた。嘘の動きと本当の動きを識別していた。フェイントと実際の軌跡を分けて読んでいた。
スナイパーが撃った。
右に来ると思っていた。でも看破が別のことを言っていた。
左だった。
17は左に動いた。
弾が右の空を通り過ぎた。
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同時に17が撃った。
左手だけだった。体が安定していなかった。狙いが揺れた。
でも目が使えた。
目が使えれば十分だった。
彙武のスナイパーライフルから、無音の射撃が出た。
スナイパーが動いた。右に動こうとした。
間に合わなかった。
弾がスナイパーの右肩に当たった。
スナイパーが声を上げた。銃を取り落とした。膝をついた。
屋上が静かになった。
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17はしばらく動かなかった。
右肩を押さえたまま立っていた。左手に彙武のスナイパーライフルを持ったままだった。
スナイパーが膝をついていた。右肩を押さえていた。銃が屋上の床に転がっていた。
「終わりか」と17は言った。
スナイパーは答えなかった。でも動かなかった。
「降参か」と17は言った。
「……そうだ」とスナイパーは言った。絞り出すような声だった。
17は彙武のスナイパーライフルを下ろした。
詠唱が解けた。物体の感触が元に戻った。ただの細長い筒になった。
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風が吹いた。
夕日がさらに落ちていた。空が深い橙になっていた。雲の輪郭が光っていた。
17は空を見た。
屋上の縁まで来て、下を見た。
学園の校庭が見えた。建物が見えた。遠くに山が見えた。空が広かった。
両腕と左肩と右肩が痛かった。体が重かった。でも今は、それよりも空の方が目に入った。
「……景色が、綺麗だな」
17が言った。
声は小さかった。誰に言ったわけでもなかった。ただ出た言葉だった。
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屋上の扉が開いた。
白瀬だった。朝霧もいた。二人が屋上の状況を確認した。スナイパーが膝をついていた。17が縁に立っていた。
「終わったか」と白瀬は言った。
「ああ」と17は言った。
「怪我の状態は」と朝霧は言った。
「左肩、右腕、右肩の三か所だ」と17は言った。「浅い。」
「浅くない」と朝霧は言った。近づいてきた。17の状態を確認した。
「歩けるか」と白瀬は言った。
「歩ける」と17は言った。
白瀬がスナイパーに近づいた。手の甲を見た。Nullの印があった。「Nullだな」と白瀬は言った。
「そうだ」と17は言った。
「桐島に連絡する」と白瀬は言った。「管理局に引き渡す前に、俺たちで話を聞く。」
「頼む」と17は言った。
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朝霧が17の隣に来た。
「彙武を使ったな」と朝霧は言った。小声だった。
「使った」と17は言った。
「初めてか」と朝霧は言った。
「そうだ」と17は言った。
「どうだった」と朝霧は言った。
17は少し間を置いた。「悪くなかった」と17は言った。
朝霧が少し朝霧らしくない顔をした。安堵に近い何かだった。「そうか」と朝霧は言った。
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階段を下りた。
廊下に戻ると、咲が階段の前で待っていた。17の姿を見た瞬間に走ってきた。
「師匠!!」と咲は言った。「怪我は!?大丈夫!?」
「大丈夫だ」と17は言った。
「大丈夫じゃない!!三か所も負傷してる!!」と咲は言った。
「四か所だ」と17は言った。
「増えてる!!!」と咲は言った。
白瀬が少し笑った。朝霧が「うるさい」と言った。咲が「でも師匠が!!」と言った。
柊が咲の後ろから来た。17を見た。
何も言わなかった。
ただ17を見た。目が少し赤かった。泣いていたのかもしれなかった。泣いていたとしても、今は泣いていなかった。
「帰ってきた」と柊は言った。小さい声だった。
「ああ」と17は言った。
「約束、守ってくれた」と柊は言った。
「そうだ」と17は言った。
柊が少し息を吐いた。安心した音だった。それだけだった。それ以上は何も言わなかった。
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桐島と水無瀬が来た。
「全員制圧したか」と桐島は言った。
「五人全員だ」と17は言った。
「お前が全員一人でやったのか」と桐島は言った。
「廊下の四人は俺が、屋上のスナイパーは俺と白瀬と朝霧で」と17は言った。
「俺たちは来ただけだ」と白瀬は言った。「屋上の件は全部17がやった。」
桐島が17の状態を見た。四か所の負傷を見た。「医務室に行け」と桐島は言った。
「後で行く」と17は言った。
「今行け」と桐島は言った。
「スナイパーから話を聞く必要がある」と17は言った。
「俺たちが聞く」と桐島は言った。「お前は医務室だ。それが条件だ。」
17は少し間を置いた。「わかった」と17は言った。
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医務室に向かった。
咲がついてきた。柊もついてきた。
「二人とも来なくていい」と17は言った。
「来る」と咲は言った。
「来る」と柊は言った。
二人が同時に言った。声が重なった。二人が顔を見合わせた。
「声揃った」と咲は言った。
「揃ったね」と柊は言った。
17は答えなかった。医務室に向かって歩き続けた。二人がついてきた。
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医務室で傷の処置をした。
養護教諭が「どうしたんですか」と言った。17が「転んだ」と言った。養護教諭が「四か所も?」と言った。17が「そうだ」と言った。養護教諭が「嘘っぽいですね」と言った。17が「そうかもしれない」と言った。
咲が「師匠の嘘は下手」と小声で柊に言った。柊が「うん」と小声で返した。
処置が終わった。
養護教諭が出ていった。三人が医務室に残った。
17がベッドの端に腰かけていた。咲が横に立っていた。柊が椅子に座っていた。
「ねえ師匠」と咲は言った。
「何だ」と17は言った。
「さっきの、彙武だよね」と咲は言った。「刃物に詠唱してたやつ。」
「そうだ」と17は言った。
「やっぱり!!」と咲は言った。「師匠が一度だけ話してくれてたから、もしかしてって思ってた!!本当に使ったんだ!!」
「使った」と17は言った。
柊が少し手を上げた。「あたしは全然知らなかった」と柊は言った。「刃物を取り出したとき、何が起きてるのか全然わからなかった。」
「説明が必要か」と17は言った。
「説明してほしい」と柊は言った。「でも今じゃなくていい。今は休んで。」
「そうだよ!!師匠、休んで!!」と咲は言った。
「休む必要はない」と17は言った。
「ある!!!」と咲は言った。
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柊が少し間を置いてから口を開いた。
「ねえ、17」と柊は言った。
「何だ」と17は言った。
「屋上で何か言ってた気がした」と柊は言った。「遠かったから聞こえなかったけど。何か言ってた?」
17は少し間を置いた。
「さあ」と17は言った。
「また言った」と柊は言った。少し笑った。
「教えてよ!!あたしも聞きたい!!」と咲は言った。
「さあ」と17は言った。
「絶対何か言ってた!!」と咲は言った。
17は答えなかった。
でも窓の外を少し見た。夜になっていた。空が暗かった。夕日は落ちきっていた。
屋上から見た景色が、まだ目に残っていた。橙の空。遠くの山。風。
綺麗だった。
それだけだった。
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夜、桐島から報告が来た。
スナイパーから話を聞いたという内容だった。
「スナイパーはNullの中堅能力者だ」と桐島は言った。「雲雀に直接雇われていた。Nullの幹部が学園を直接標的にしたのは今回が初めてだ。それだけお前への警戒が上がっている。」
「雲雀の指示か」と17は言った。
「そうだ」と桐島は言った。「ただ、雲雀を動かした人間がいる可能性がある。Nullの上位幹部か、あるいは別の誰かかもしれない。」
「伊吹か」と17は言った。
「わからない」と桐島は言った。「ただ、今回の件でNullが学園を直接標的にできるとわかった。次も来る可能性がある。」
「備えが必要だ」と17は言った。
「そうだ」と桐島は言った。「白瀬と朝霧と相談する。」
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報告が終わって、17は一人になった。
窓の外を見た。夜の学園が静かだった。
今日、彙武を初めて使った。刃物に詠唱した。二刀で戦った。スナイパーとの超遠距離勝負に勝った。
悪くなかった。
式系が通じない相手がいる。物理法則を歪める相手がいる。そういう相手に対して、彙武は使えた。
追跡の能力で学園全体を確認した。全員がいた。咲が今夜は自分の部屋にいた。柊の部屋の明かりが点いていた。
全員がいた。
17は傷を押さえた。四か所だった。痛かった。でも動けた。
明日も動ける。
それで十分だった。
窓の外の空は暗かった。でも17の目に、まだ橙の景色が残っていた。




