第57話「この力を使うのは初めてだ」
木曜日の午後だった。
五時間目の授業が終わって、放課後になった直後だった。
17が廊下を歩いていた。追跡の能力で学園全体を確認していた。いつも通りだった。全員がいた。異常はなかった。
なかった。
一度確認して、もう一度確認した。
来た。
学園の正門から、複数の気配が入ってきた。能力者だった。四人。全員の輪郭を解析しようとした。三人はすぐに読めた。Nullの気配だった。末端ではなかった。幹部クラスの出力だった。
一人が読めなかった。
正確には、読めるのに読み切れなかった。輪郭が変わり続けていた。能力が常に発動しているのか、解析が追いつかなかった。
17は立ち止まった。
桐島に連絡した。「Nullが四人、正門から入った。幹部クラスが複数いる。生徒を避難させろ。」
桐島の返答が来た。「わかった。水無瀬と動く。白瀬と朝霧には連絡したか。」
「する」と17は言った。
白瀬と朝霧に連絡した。「Nullが学園に入った。俺が対処する。二人は生徒の誘導を優先してくれ。」
白瀬から返答が来た。「わかった。ただし無理はするな。」
朝霧から返答が来た。「了解。咲を先に確保する。」
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17が正門の方向に向かった。
角を曲がった。
四人が校舎の中に入ってきていた。先頭にいる一人が17を見た。背が高かった。髪が白かった。年齢は三十代くらいだった。口元が笑っていた。
「計測不能か」と白髪の男は言った。「探しやすかった。お前だけ気配が全然違う。」
「Nullか」と17は言った。
「そうだ」と白髪の男は言った。「俺は雲雀。今日はお前に用があって来た。」
「用件は何だ」と17は言った。
「来い、ということだ」と雲雀は言った。「断られたときの対処が、鷹津とは違う。」
「断る」と17は言った。
「やっぱりそう言うか」と雲雀は言った。笑ったまま右手を上げた。
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廊下の床が浮いた。
正確には、重力が変わった。廊下の一角だけ、引力の方向が変わった。壁に向かって引っ張られる力が発生した。ロッカーが壁に引き寄せられた。大きな音がした。
17は廊下の中央に立ったまま動かなかった。足元に力をかけて踏みとどまった。
「面白い」と雲雀は言った。「普通なら壁に叩きつけられている。さすがだ。」
「式系・絔」17が虚空に向かってそっとつぶやいた。その瞬間、糸は雲雀に向けて走っていった。
糸が曲がった。
引力の歪みに引っ張られて、糸が真っ直ぐ走らなかった。弧を描いて、雲雀の手前で床に落ちた。
「効かない」と雲雀は言った。「引力が歪んだ空間では、お前の糸は狙い通りに走れない。」
17はもう一度使った。今度は歪みを計算した。弧の角度を読んで、補正した糸を走らせた。
雲雀が引力の方向を変えた。糸がまた曲がった。
「計算より速く変えられる」と雲雀は言った。「いたちごっこだ。」
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17がもう一度虚空に向かって囁いた「式系・蚜」領域知覚展開だった。雲雀の能力の発動範囲を把握しようとした。
蚜が展開された。でも歪んだ物理法則の中では、知覚の精度が落ちた。範囲の端がぼやけた。
「知覚系も精度が落ちる」と17は言った。
「そうだ」と雲雀は言った。「物理法則が歪んだ空間では、能力の多くが正常に機能しない。式系は特に弱い。空間の安定を前提にしているからな。」
雲雀の後ろの三人が動いた。廊下の左右から17を挟もうとした。
17が後退した。距離を取った。
雲雀が右手を動かした。廊下の天井が重くなった。引力が増幅された。17の体に圧がかかった。床に押しつけられる力だった。
17は足を踏ん張った。でも動きが重くなった。
「重力を増やすこともできる」と雲雀は言った。「お前が動けなくなるまで増やし続ける。」
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17は考えた。
式系が通じない。蚜の精度が落ちる。重力が増して動きが制限される。残りの式系技を使っても、物理法則が歪んだ空間では同じことになる。Formula系は使いたくなかった。痕跡が残る。管理局の上層部に感知される。
では。
17は頭の中で別の選択肢を探した。
あった。
式系でもFormula系でもない。物理法則が歪んでいても、物体そのものに軌跡を与えることは別の話だ。歪んだ空間でも、物体は動く。引力が変わっても、刃は刃のままだ。
17は廊下の壁際に寄せてあったスポーツバッグに手をかけた。
誰かが体育の授業後に置き忘れたものだった。中にテニスラケットが入っていた。使えるものではなかった。でも棒状の物体だった。
違う。
17はバッグを置いた。
上着の内側に手を入れた。細い刃物が一本あった。常に携帯していた。人に見せたことはなかった。今まで使ったことも、ほとんどなかった。
「**斬**」
17が言葉を口にした。
刃物の感触が変わった。重さが変わった。手の中で、物体の軌跡が定まった感覚があった。精密な斬撃の性質が、刃に付与された。
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雲雀が少し止まった。
「今、何をした」と雲雀は言った。
17は答えなかった。
17が動いた。重力が増していたが、動けないほどではなかった。重い体で、それでも動いた。
三人のうち一人が先に来た。殴りかかってきた。17は半歩外にずれてそれを避けた。刃を横に走らせた。相手の腕に浅く入った。相手が呻いて後退した。
もう一人が横から来た。蹴りだった。17は受け流した。刃を返した。相手の膝に入った。倒れた。
重力がさらに増した。
17の動きが明確に落ちた。立っているだけで体力を使った。
三人目が来た。今度は体格がある人間だった。力任せに突っ込んできた。17は避けきれなかった。肩に当たった。後退した。
「重力下では速度も落ちる」と雲雀は言った。「お前の刃物も、引力を歪めれば軌跡を変えられる。」
雲雀が手を動かした。
17が刃を走らせた。刃の軌跡が引力に引っ張られて曲がった。
「式系と同じだ」と雲雀は言った。「物体の軌跡も、引力が歪めば変えられる。」
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17は少し止まった。
刃の軌跡も歪む。では。
17は上着の内側を確認した。刃物が二本目あった。予備だった。
「**乱**」
二刀になった。両手に刃を持った。連続、制圧。その性質が両方の刃に付与された。
引力が歪んでいた。一本の軌跡は歪む。でも二本を同時に、異なる角度で走らせれば、どちらかが必ず届く可能性があった。
17が動いた。
左の刃を先に走らせた。雲雀が引力で曲げた。その瞬間に右の刃を別の角度から入れた。
雲雀が後退した。右の刃が雲雀の腕を浅く掠めた。
「ほう」と雲雀は言った。笑っていたが、目が変わっていた。「面白い。引力の計算を二本同時に処理させる気か。」
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そのとき、廊下の端から声がした。
「師匠!!」
咲だった。
朝霧に確保されるはずだったが、逃げてきたらしかった。廊下の角から顔を出していた。
「来るな」と17は言った。
「わかってる!!でも見てた!!」と咲は言った。「師匠が刃物使ってる!!あれって、もしかして彙武!?」
「後で話す」と17は言った。
「えっ、じゃああれほんとに!?」と咲は言った。目が丸くなっていた。
そのとき別の方向から足音がした。
柊だった。
咲の反対側の廊下から走ってきた。避難しているはずだったが、音を聞いて来てしまったらしかった。
「17!!」と柊は叫んだ。それから廊下の状況を見た。雲雀たちを見た。17が両手に刃物を持っているのを見た。
固まった。
「柊、下がれ」と17は言った。
「で、でも」と柊は言った。「17が」
「下がれ」と17は繰り返した。
柊が止まった。でも下がらなかった。棘の能力が自然に動いた。雲雀の輪郭を読もうとした。光が見えた。弱点だった。でもどこかわからなかった。空間が歪んでいて、光の場所が定まらなかった。
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雲雀が重力をさらに上げた。
廊下全体が重くなった。咲が壁に手をついた。柊がよろめいた。
17の膝が少し曲がった。それでも倒れなかった。
「二人の女の子が見ている」と雲雀は言った。「早く終わらせた方がいい。」
三人目が体勢を立て直して来た。体格のある人間だった。重力の中でも速度が落ちていなかった。能力で自分の重力を調整しているのかもしれなかった。
17は左右の刃を使いながら後退した。三人目を相手にしながら、雲雀との距離を保った。
そのとき、廊下の窓ガラスが砕けた。
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音がした。
銃声ではなかった。でも窓ガラスが砕けた。外から何かが飛んできた。
17の左肩に当たった。
鋭かった。刃のような感触だった。能力による遠距離攻撃だった。17が左肩を押さえた。血が出ていた。深くはなかったが、確かに負傷した。
窓の外を見た。
屋上だった。
学園の屋上に、人影があった。遠かった。追跡の能力で捉えた。一人。ライフルを持っていた。能力を付与したスナイパーライフルだった。普通の弾丸ではなかった。能力で強化された射撃だった。
5人目だった。
「気づいたか」と雲雀は言った。笑っていた。「屋上に一人いる。俺たちが正面から来る間に、お前の退路を塞ぐ役割だ。」
「最初から五人だったのか」と17は言った。
「そうだ」と雲雀は言った。「四人だと思っていたか?」
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廊下の端で咲が「師匠!!」と叫んだ。
「大丈夫だ」と17は言った。左肩を押さえながら言った。
柊が固まったまま17を見ていた。目が揺れていた。棘の能力が動いていた。でも歪んだ空間の中では光の場所が定まらなかった。
「柊」と17は言った。
「何」と柊は言った。声が震えていた。
「お前の棘が見ているものを俺に教えてくれ」と17は言った。
「え」と柊は言った。
「雲雀の弱点の光がどの方向に見えるか、教えてくれ」と17は言った。「場所が定まらなくていい。方向だけでいい。」
柊は少し間を置いた。それから棘に集中した。雲雀を見た。光が揺れていた。でも揺れながらも、おおよその方向はあった。
「右側」と柊は言った。「右の、少し下の方向に光が揺れてる。」
「わかった」と17は言った。
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17が動いた。
重力の中で、それでも動いた。左肩が痛かったが左手の刃は握ったままだった。
右の刃を先に走らせた。雲雀が引力で曲げた。その瞬間に左の刃を右下の方向から入れた。
雲雀が動いた。でも今度は完全には避けきれなかった。左の刃が雲雀の右脇腹を浅く掠めた。
雲雀の重力操作が一瞬だけ乱れた。廊下の重さが普通に戻った。
その一瞬で17が動いた。三人目に向かった。重力が戻ったことで速度が出た。三人目の懐に入り込んだ。肘が入った。膝が入った。三人目が倒れた。
重力がまた歪んだ。
でも遅かった。
一人目は腕を負傷して後退していた。二人目は膝を負傷して倒れていた。三人目が今倒れた。残りは雲雀だけだった。
「三人を倒した」と雲雀は言った。笑っていたが、右脇腹を押さえていた。「負傷しながら。大したものだ。」
「降参するか」と17は言った。
「しない」と雲雀は言った。「ただ、俺が本気を出す前に、上から仕事をしてもらう。」
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屋上のスナイパーが動いた。
追跡の能力で捉えた。銃口の方向が変わった。17だけではなくなった。
咲の方向に向いていた。
「師匠!!」と咲が言った。
17が動いた。
咲の前に出た。
二発目が来た。今度は17の右腕に当たった。左肩に続いて右腕も負傷した。でも咲には当たらなかった。
「師匠!!」と咲は叫んだ。
「大丈夫だ」と17は言った。右腕を押さえながら言った。押さえながらも右手の刃は離さなかった。
「やめて!!」と咲は言った。雲雀に向かって言った。「師匠を狙うのをやめて!!」
「お前が下がれば狙わない」と雲雀は言った。
「咲」と17は言った。
「でも師匠が!!」と咲は言った。
「下がれ」と17は言った。「お前はここにいなくていい。」
「いる!!」と咲は言った。「師匠を置いて行けない!!」
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柊が動いた。
棘と凪を同時に使った。歪んだ空間の中でも、二つを同時に使えば少し精度が上がった。凪で全体状況を把握した。棘で雲雀の弱点の光を追った。
「17」と柊は言った。
「何だ」と17は言った。
「雲雀の右側の光が、さっきより少しはっきりしてきた」と柊は言った。「重力の操作が、右手から発生している気がする。右手が弱点かもしれない。」
「右手か」と17は言った。
「たぶん」と柊は言った。「確かじゃない。でも。」
「十分だ」と17は言った。
17が雲雀に向かった。
左肩と右腕が負傷していた。両方の刃を持ったまま、それでも動いた。
雲雀が重力を最大まで上げた。廊下が極端に重くなった。
17の動きが落ちた。でも止まらなかった。一歩、一歩。重力の中を進んだ。
「なぜ動ける」と雲雀は言った。笑っていなかった。
「動けるから動く」と17は言った。
右の刃を雲雀の右手に向けて走らせた。雲雀が引力で曲げようとした。でも右手に意識が向いた瞬間、重力操作が僅かに乱れた。廊下が少し軽くなった。
左の刃が雲雀の右手首を捉えた。
雲雀が声を上げた。右手の動きが止まった。
重力が元に戻った。廊下が普通になった。
「**式系・笪**」
雲雀の能力が封じられた。
雲雀が膝をついた。右手首を押さえていた。
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廊下が静かになった。
四人が全員制圧されていた。
咲が17に走ってきた。「師匠!!大丈夫!?血が!!」と咲は言った。
「大丈夫だ」と17は言った。左肩と右腕から血が出ていた。「浅い。」
「浅くない!!」と咲は言った。
柊も来た。17の状態を見た。顔が青くなっていた。「ひどい」と柊は言った。小さい声だった。
「大丈夫だ」と17は繰り返した。「ただ」
17は窓の外を見た。屋上に、まだスナイパーがいた。追跡の能力で確認した。まだ銃口を向けていた。雲雀が制圧されたことで動きが変わっていた。今度は17だけを狙っていた。
「屋上のスナイパーがまだいる」と17は言った。
「どうするの!?」と咲は言った。
「俺が行く」と17は言った。
「負傷してるのに!!」と咲は言った。
「行く」と17は言った。それだけ言った。
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17が屋上への階段に向かった。
咲が後ろからついてきた。「師匠!!あたしも」と咲は言った。
「来るな」と17は言った。
「でも!!」と咲は言った。
「今回は本当に来るな」と17は言った。振り返らずに言った。「お前が来ると、お前も狙われる。スナイパーとの戦いに人質がいると不利になる。」
咲が止まった。
「わかった」と咲は言った。小さい声だった。「でも師匠、絶対勝って。絶対帰ってきて。」
「ああ」と17は言った。
柊が咲の隣に来た。17の背中を見ていた。17が階段を上り始めた。
「彙武って何」と柊は小声で咲に言った。
「師匠の能力の一つ」と咲は言った。「詳しくはあたしも知らない。でも今日初めて使ったやつだと思う。」
「知ってたの?」と柊は言った。
「少しだけ」と咲は言った。「師匠が一度だけ話してくれたことがあった。ただ使うような相手が出てきたことがなかったって言ってた。」
柊は階段の上を見た。17の足音が聞こえなくなっていた。
「怖い」と柊は言った。
「あたしも」と咲は言った。「でも師匠は帰ってくる。絶対。」




