第37話「こういう日を大切に」
翌朝、咲が一番に起きた。
起きた理由は特になかった。目が覚めたから起きた。それだけだった。部屋の窓を開けると海の音がまだ聞こえた。昨日と同じ音だったが、朝の空気の中で聞くと少し違って聞こえた。咲はそれを少しだけ聞いてから、廊下に出た。
廊下に17がいた。
「師匠!!」と咲は言った。小声で言おうとしたが、いつもの音量になった。
「うるさい」と17は言った。
「ごめん!!」と咲は言った。同じ音量だった。
17は廊下の窓から外を見ていた。咲がその隣に来た。外には宿の庭があって、その向こうに海が見えた。朝の光が水面に反射していた。
「師匠って何時に起きたの」と咲は言った。今度は少し小さい声で。
「寝ていなかった」と17は言った。
「え、ずっと起きてたの!?」
「習慣だ」と17は言った。「知らない場所では眠れない。」
「それって大丈夫なの?」と咲は言った。心配するような顔だった。
「慣れている」と17は言った。
咲はしばらく17の横顔を見た。慣れている、という言葉が、咲にはなんとなく寂しく聞こえた。慣れていい話ではない気がした。でも何と言えばいいかわからなかったから、「そっか」とだけ言った。
「温泉、今日も入れるよね」と咲は話題を変えた。
「ああ」と17は言った。
「師匠も入る?」
「さあ」と17は言った。
「入ろうよ!!」と咲は言った。また音量が戻った。
「うるさい」と17は言った。
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朝食は昨日と同じ食堂で食べた。
和食だった。咲が「旅館の朝ごはんって最高だよね!!」と言った。白瀬が「昨日から何が最高じゃなかったんだ」と言った。咲が「全部最高!!」と言った。白瀬が「そうか」と言って味噌汁を飲んだ。
桐島が焼き魚を丁寧に食べていた。水無瀬が「桐島さんって食べるの上手いですよね」と言った。桐島が「魚の食べ方か」と言った。水無瀬が「そうです。綺麗に食べますよね」と言った。桐島が「実家が漁師だった」と言った。全員が少し止まった。「初めて聞きました」と水無瀬は言った。「聞かれなかったから言わなかった」と桐島は言った。
朝霧が黙って白米を食べていた。咲が「朝霧さん、白米だけ食べてる」と言った。「おかずを先に食べた」と朝霧は言った。「順番が逆じゃないですか」と水無瀬は言った。「好きな順番で食べる」と朝霧は言った。水無瀬が「確かに」と言った。
柊が17の隣に座っていた。「昨日よく眠れた?」と柊は聞いた。17が少し間を置いた。「咲に聞いてくれ」と17は言った。柊が咲を見た。咲が「師匠ずっと起きてたんだって!」と言った。柊が17を見た。「知らない場所では眠れないんだ」と柊は言った。断定する声だった。「そうだ」と17は言った。「昼間どこかで少し眠るといい」と柊は言った。「さあ」と17は言った。
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午前中は宿の周辺を散策した。
古い街並みだった。お土産屋が並んでいて、咲が全部の店を覗こうとした。白瀬が「全部入ってたら日が暮れる」と言った。咲が「でも全部気になる!!」と言った。結局半分くらい入った。
咲が木刀を手に取った。「師匠へのお土産にしよっかな」と咲は言った。17が「いらない」と言った。「でも彁武に使えるんじゃないかと思って!」と咲は言った。「木刀では使わない」と17は言った。「なんで」と咲は言った。「折れる」と17は言った。咲が「あ、そっか」と言って木刀を戻した。
17と咲を探しにきた柊はその会話に聞き耳を立てて、微笑ましく思っていた。だが今の会話の中で一つ違和感を覚える箇所があった。
「彁武、、、?」
そんな単語は今までの17の戦闘を見ていてみたこともきいたこともなかった。
そんな考え事をしていた時、咲に話しかけられたためその思考を中断した。
朝霧が小さな店の前で止まっていた。白瀬が気づいて近づいた。店の前に植物の押し花で作ったしおりが並んでいた。「気になるか」と白瀬は言った。朝霧が「少し」と言った。珍しい答えだった。白瀬が「買えばいい」と言った。朝霧がしばらく見て、一枚だけ買った。どの花かは誰も聞かなかった。
柊が小さな雑貨屋で17を呼び止めた。「これ見て」と柊は言った。棚に小さな置き物が並んでいた。どれも動物の形をしていた。「可愛くない?」と柊は言った。17がそれを見た。「そうか」と17は言った。柊が「そうかって」と言って笑った。「お前は可愛いと思わないのか」と17は言った。「思う」と柊は言った。「なら十分じゃないか」と17は言った。柊が少し考えてから「そうだね」と言った。
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昼過ぎに宿に戻って、午後は自由時間になった。
咲が「温泉入る!!」と言って走った。「昼間から入るのか」と白瀬は言った。「いいじゃん!!」と咲は言った。「まあそうだな」と白瀬は言った。
女湯には柊と咲と朝霧が入った。男湯には白瀬と桐島と水無瀬が入った。17は「後で入る」と言って部屋に残った。
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女湯は広かった。
露天風呂もあって、外に出ると空が見えた。夏の空だった。白い雲が遠くにあった。
咲が湯船に入った瞬間に「はあ〜〜〜」と声を出した。朝霧が「静かにしろ」と言った。咲が「気持ちいいから!!」と言った。
柊が露天風呂の縁に頭をもたせかけた。空を見た。波の音がまだ遠くに聞こえた。
「柊さん、昨日17くんと二人で話してたよね」と咲は言った。唐突だった。
「少しね」と柊は言った。
「何話してたの?」と咲は言った。
「波のこと」と柊は言った。
「波?」
「17が初めて海に来たって言ってたから」と柊は言った。「それで少し話してた。」
咲はしばらく考えた。「師匠って、今まで何をしてたんだろうね」と咲は言った。小さい声で。いつもの咲の声ではなかった。「知らない場所で眠れないとか、海に来たことないとか。なんか普通じゃない感じがする。」
「そうだね」と柊は言った。
「柊さんは気にならない?」と咲は言った。
「気になる」と柊は言った。「でも今は聞かない。17が話してくれるまで待つ。」
咲はしばらく湯の中で膝を抱えた。「あたしも待てる」と咲は言った。「ちゃんと待てるから。でもたまに、師匠のことが心配になる。」
「わかる」と柊は言った。
朝霧が空を見たまま、静かに言った。「心配するだけ無駄だ。」
咲が「え」と言った。
「あいつは心配されても困るだろう」と朝霧は言った。「心配するより、隣にいればいい。」
咲と柊がしばらく朝霧を見た。
「朝霧さんって」と咲は言った。「たまにすごくいいこと言うよね。」
「たまにって何だ」と朝霧は言った。
「いつも! いつも言う!!」と咲は言った。
朝霧が少し間を置いた。「そうか」と言った。それだけだったが、その声が普段より少しだけ柔らかかった。
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男湯では、桐島が湯船で壁にもたれて目を閉じていた。水無瀬が「桐島さん、仕事のこと考えてます?」と聞いた。「考えていない」と桐島は言った。「本当に?」と水無瀬は言った。「今日くらいは考えない」と桐島は言った。水無瀬が「そうですか」と言って同じように壁にもたれた。
白瀬が露天風呂に出た。空を見た。「17、後で入るって言ってたな」と白瀬は言った。桐島が「入るだろう」と言った。「入らないかもしれないぞ」と白瀬は言った。「なんでだ」と桐島は言った。「あいつ、人と同じ空間が苦手そうだからな」と白瀬は言った。「温泉くらいは入るだろう」と桐島は言った。「そうかな」と白瀬は言った。
「白瀬さんって、17のこと気にしますよね」と水無瀬は言った。
「監視対象だからな」と白瀬は言った。
「それだけじゃない気がしますけど」と水無瀬は言った。
白瀬はしばらく空を見た。「それだけだよ」と白瀬は言った。でもその声が少し笑っていた。
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夕方近くに、17が温泉に向かった。
時間をずらしていた。誰もいない時間を選んでいた。脱衣所で服を脱いで、浴室に入った。誰もいなかった。静かだった。
湯船に入った。
熱かった。でも悪くなかった。昨日の海の感覚とは全く違った。海は広くて音があって、外側から何かが来る感じだった。温泉は逆だった。内側から何かが緩む感じがした。
17は天井を見た。
身体中の傷が、温泉に入ると少しだけ声を上げるような感覚があった。先週のナイフの跡も、腕の赤みも、拷問で受けたものも、全部がまだどこかにあった。日常の中では気にならなかったが、こうして静かな場所に一人でいると、それらが少しだけ存在を主張した。
悪くはなかった。
痛みではなかった。ただそこにある、という感覚だった。
しばらくして、扉が開いた。
17は扉を見た。
柊が入ってきた。
タオルを頭にのせて、目を少し細めて浴室を見て、湯船に17がいることに気づいた瞬間、止まった。
「あ」と柊は言った。
「女湯はこちらではない」と17は言った。
「え?」と柊は言った。それから扉を見た。扉を確認した。「……男湯だ」と柊は言った。声が少し上ずった。
「そうだ」と17は言った。
柊が勢いよく出ていった。扉が閉まった。
湯船の中で、17は天井を見た。
静かだった。
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脱衣所の外の廊下で、柊は壁に背をつけて立っていた。顔が赤かった。温泉のせいだけではなかった。
しばらくして扉が開いて、17が出てきた。服を着て、髪が少し濡れていた。
柊を見た。
「まだいたのか」と17は言った。
「……居場所がなくて」と柊は言った。小さい声だった。
「女湯に戻ればいい」と17は言った。
「みんなもう出てるから」と柊は言った。「戻っても誰もいない。」
17は少し間を置いた。「それで廊下に立っていたのか」と17は言った。
「そう」と柊は言った。顔がまだ赤かった。「ごめん、間違えて。」
「謝らなくていい」と17は言った。
柊はしばらく17を見た。17の濡れた髪を見た。いつもと少し違う顔だった。温泉に入った後の顔だった。力が少し抜けていた。
「17って、温泉どうだった?」と柊は言った。話題を変えようとした。
「悪くなかった」と17は言った。
「よかった」と柊は言った。「また入れるといいね。」
「さあ」と17は言った。
「また来よう」と柊は言った。
「来るかどうかはわからない」と17は言った。
「また咲ちゃんがノリで計画するから来ることになると思う」と柊は言った。
17は少し間を置いた。「そうかもしれない」と17は言った。それが少し笑いそうな声だった。柊には気づいた。
「今、笑いそうだったよね」と柊は言った。
「そんなことはない」と17は言った。
「なったよ」と柊は言った。
17は答えなかった。廊下を歩き始めた。柊がその隣を歩いた。
廊下の窓から夕日が見えた。海が赤くなっていた。
「綺麗だね」と柊は言った。
「ああ」と17は言った。少し間を置いてから「綺麗だ」と繰り返した。自分の言葉を確認するような言い方だった。
柊は17の横顔を見た。夕日の色が17の顔に当たっていた。普段と少しだけ違う顔だった。力が抜けていた。知らない場所では眠れないと言っていた17が、今日だけは少しだけ、どこかに置いてきているものがある気がした。
それが何なのかは、柊にはわからなかった。でもその顔が見られてよかったと思った。
「旅行に来てよかったね」と柊は言った。
「そうかもしれない」と17は言った。昨日と同じ答えだった。でも昨日よりも、少しだけ確かな声だった。
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夜、全員が食堂に集まった。
咲が「明日はお祭りだよ!!」と言った。宿の近くで夏祭りがあることを、散策中に咲が見つけていた。「行こう!!」と咲は言った。全員が頷いた。朝霧が「浴衣を持ってきていない」と言った。咲が「買えばいい!!」と言った。朝霧が「買うのか」と言った。咲が「明日の朝に買いに行こう!!」と言った。
「師匠は浴衣持ってきた?」と咲は17に聞いた。
「持っていない」と17は言った。
「じゃあ明日買おう!!」と咲は言った。
「いらない」と17は言った。
「いる!!お祭りだから!!」と咲は言った。
白瀬が「諦めた方が早いぞ」と17に言った。
17は少し間を置いた。「さあ」と言った。
咲が「やった!!」と言った。
「やったじゃない」と17は言った。
「やったじゃん!!」と咲は言った。
柊がそれを見て笑った。朝霧が夕食を食べながら、ほんのわずかだが口元が動いた。桐島が「にぎやかだな」と言った。水無瀬が「毎日こうですよ」と言った。桐島が「そうだな」と言って笑った。
夜の食堂は、波の音と全員の声で満たされていた。




