第36話「突飛な提案から始まった三日間」
きっかけは本当に何もなかった。
水曜日の昼休み、咲が屋上に来るなりランドセルを下ろすような勢いで鞄を投げて「夏休みに旅行行こ」と言った。それだけだった。理由も、目的地も、その時点では何も決まっていなかった。ただ咲が「行こ」と言った。柊が「いいね」と言った。白瀬が「急だな」と言いながら否定しなかった。朝霧が無表情で頷いた。桐島が「宿の手配は俺がする」と言った。水無瀬が「費用どうするんですか」と言った。咲が「なんとかなる!」と言った。水無瀬が「なんとかなるって何ですか」と言った。
それでもなんとかなった。
一週間後、全員が学園前に集合していた。
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朝の七時だった。
咲が一番乗りで来て、大きすぎる鞄を持って飛び跳ねていた。次に柊が来た。咲が「柊さん可愛い!!」と叫んだ。柊が「普通の服だよ」と言った。白瀬と朝霧がほぼ同時に来た。桐島と水無瀬が最後に来た。桐島が大きな紙袋を持っていた。中身を誰も聞かなかった。
17が来たのは全員が揃ってから三分後だった。
「遅い!!」と咲が言った。
「時間通りだ」と17は言った。
「師匠だけ遅かった!」
「他の全員が早かっただけだ」
咲が何か言おうとしたが、柊が「行こっか」と言って遮った。咲が「そうだ旅行だ!!」と叫んで走り始めた。白瀬が「新幹線の時間まで余裕あるから走らなくていい」と言った。咲が走りながら「わかった!!」と返事をして走り続けた。
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新幹線の中で、咲は窓側の席に張り付いていた。景色が変わるたびに「見て見て!!」と隣の柊に言い続けた。柊は最初は「うんうん」と答えていたが、一時間後には穏やかな顔で眠っていた。咲は「柊さん寝た!!」と17に言った。17は通路を挟んだ席で「そうか」と言った。「師匠も眠い?」と咲が聞いた。「眠くない」と17は言った。「じゃあ話して!!」と咲が言った。「何を」と17は言った。咲が少し考えて「師匠の好きな食べ物」と言った。「ない」と17は言った。「嫌いな食べ物は?」と咲が聞いた。「ない」と17は言った。咲が「なんでもいいの?」と聞いた。「腹が減ったら食べる。それだけだ」と17は言った。咲がしばらく考えて「師匠ってそういうとこあるよね」と言った。「どういうところだ」と17は言った。咲が「全部に淡白なところ」と言った。17は答えなかった。
白瀬が通路の向こうから「お前ら会話がうるさい」と言った。
「寝てたんじゃないんですか」と水無瀬が言った。
「眠れないんだよ」と白瀬は言った。
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昼過ぎに宿に着いた。
海沿いの宿だった。桐島が手配していた。窓から海が見えた。咲が窓を開けて「海の匂いがする!!」と叫んだ。朝霧が「窓を閉めろ」と言った。咲が「でも海の匂いがするんだよ!!」と言った。朝霧が無表情で窓を閉めた。咲が「あっ」と言った。
荷物を置いて、全員が水着に着替えた。
咲が一番に準備できて廊下で待っていた。
柊が出てきた瞬間、咲が「柊さん!!!」と叫んだ。
「なに」と柊は言った。
「可愛い!!!」
「水着だよ、普通の」
「普通じゃない!!可愛い!!」
白瀬が出てきた。咲が「白瀬さんもかっこいい!!」と言った。白瀬が「ありがとう」と普通に答えた。朝霧が出てきた。咲が「朝霧さんもかっこいい!!」と言った。朝霧が無表情で「そうか」と言った。桐島と水無瀬が出てきた。咲が「ふたりとも!!」と言った。桐島が「わかったわかった」と言った。
17が最後に出てきた。
咲が一瞬止まった。
「師匠……」と咲は言った。
「何だ」と17は言った。
「なんか、普通だ」と咲は言った。
「そうだろう」
「もっとなんか、傷とかいっぱいあるかと思った」
白瀬が少し笑った。「それは失礼だろ。」
「でも先週ナイフで切られてたし!!」と咲は言った。
「もう治っている」と17は言った。
「早すぎない!?」と咲は言った。
「行くぞ」と桐島が言って、全員が廊下を歩き始めた。
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海は広かった。
平日だったから人が少なかった。砂浜に出ると、波の音が大きく聞こえた。咲が砂浜に足をつけた瞬間に走り出した。「待て」と白瀬が言ったが、咲はすでに波打ち際まで走っていた。
「はやっ」と水無瀬は言った。
「あの子はいつでもああだ」と桐島は言った。
柊が砂浜に足をつけて、少し目を細めた。光が眩しかった。波が来て、足元を濡らした。
「気持ちいいね」と柊は言った。独り言のような声だった。
17が柊の隣に立っていた。海を見ていた。
「そうか」と17は言った。
「17って海、来たことある?」と柊は聞いた。
17は少し間を置いた。「ない」と言った。
「初めて?」
「ああ」
柊は17の横顔を見た。17は海を見ていた。波が来るたびに、その目が少しだけ動いた。何かを読んでいるような目だった。でもいつもの解析をしている目とは少し違った。ただ、見ていた。
「どう?」と柊は聞いた。
「広い」と17は言った。
「それだけ?」
「広くて、うるさい」と17は言った。
柊が少し笑った。「うるさい、か。」
「波の音が想像より大きかった」と17は言った。「悪くはない。」
「それが17の感想なんだね」と柊は言った。
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しばらく全員で波打ち際で遊んだ。
咲が波に向かって走っていって、大きな波に足をすくわれて転んだ。白瀬が笑った。朝霧が無表情で濡れた咲を見た。咲が「見てた!?」と叫んだ。朝霧が「見ていた」と言った。咲が「助けてよ!!」と言った。朝霧が「転ぶ前に止まればよかった」と言った。咲が「そんなこと言う!?」と言った。
桐島と水無瀬がそれを遠くから見ていた。
「平和ですね」と水無瀬は言った。
「そうだな」と桐島は言った。
「こういう日は大事にしたいですね」と水無瀬は言った。
「そうだな」と桐島は言った。少し間を置いてから「お前、たまにいいこと言うな」と言った。
「たまにって何ですか」と水無瀬は言った。
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一時間ほどして、17がいつの間にかいなくなっていた。
咲が気づいた。「師匠どこ行った!?」
白瀬が周りを見た。砂浜の端の方、全員から少し離れた場所に17が一人で立っていた。海を見ていた。波打ち際ではなく、砂浜の乾いた場所に立って、ただ沖を見ていた。
「あそこにいる」と白瀬は言った。
「呼んでくる!」と咲が言った。
「待て」と白瀬は言った。
「え、なんで?」
「一人でいたいときもあるだろう」と白瀬は言った。
咲は少し考えた。それから「そっか」と言って、波の方に戻った。
柊はその間、17がいる場所をしばらく見ていた。それから何も言わずに歩き始めた。
「柊さん?」と咲が言った。
「少しだけ」と柊は言った。
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17は波を見ていた。
沖の方まで見ていた。解析の能力が無意識に動いていて、波の周期を読んでいた。止めようと思っても止まらなかった。習慣のようなものだった。見ているものを、見ている。それだけだった。
砂を踏む音がした。
振り返らなかった。気配でわかった。
「邪魔か?」と柊は言った。17の隣に来て、同じ方向を見た。
「邪魔ではない」と17は言った。
柊は17の隣に立った。二人で沖を見た。波が来て、砂浜に広がって、引いた。また来た。
「何を見てたの」と柊は言った。
「波」と17は言った。
「何か考えてた?」
「さあ」と17は言った。「何も考えていなかったかもしれない。」
柊は少し驚いた顔をした。「17が何も考えてないことって、あるんだ。」
「珍しいかもしれない」と17は言った。「波を見ていたら、しばらく何も出てこなかった。」
柊はその言葉をしばらく反芻した。17が何も考えていなかった。それがなぜか、柊には嬉しかった。うまく説明できなかったが、嬉しかった。
「それならよかった」と柊は言った。
「何がだ」と17は言った。
「旅行に来てよかったってこと」と柊は言った。「17が何も考えない時間が、少しでもあったなら。」
17はしばらく黙っていた。
「そういうものか」と17は言った。
「そういうものだよ」と柊は言った。
波が来た。今度は少し大きかった。二人の足元まで波が来て、砂を持って行った。柊が少しよろけた。17が自然に、特に意識した様子もなく、柊の腕を掴んだ。柊が転ばずに済んだ。
「ありがとう」と柊は言った。
「ああ」と17は言った。それだけだった。掴んだ手を離した。
柊はその手を少しだけ見た。それから海を見た。
二人は並んでしばらく波を見た。何も言わなかった。波の音だけが続いた。
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夕方、宿に戻った。
砂だらけになった咲がシャワーを浴びて出てきた。「海最高だった!!」と言った。白瀬が「転んだくせに」と言った。咲が「転んだのも最高だった!!」と言った。白瀬が「ポジティブだな」と言った。
夕食は宿の食堂で全員一緒に食べた。海鮮だった。咲が「おいしい!!」と叫んだ。桐島が「声が大きい」と言った。咲が「おいしいから!!」と言った。
朝霧が黙って刺身を食べていた。白瀬が「朝霧さん、美味しいですか」と聞いた。朝霧が「美味しい」と言った。白瀬が「よかった」と言った。それだけだったが、なぜかその会話が温かかった。
17は料理をゆっくりと食べていた。柊が「美味しい?」と聞いた。「ああ」と17は言った。「どれが一番好き?」と柊が聞いた。17が少し考えて「これ」と言って皿を指した。柊が「鯛だね」と言った。「そうか」と17は言った。柊が少し笑った。
「師匠の好きな食べ物、新幹線で聞いたときはないって言ってたのに」と咲が言った。
「ないと思っていた」と17は言った。
「食べてみたらあったんだ」と咲は言った。
「そうかもしれない」と17は言った。
咲がにこにこした。「じゃあ海に来てよかったじゃん。」
17は答えなかった。でも否定もしなかった。
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夜、部屋の窓から海が見えた。
17は窓際に立って海を見ていた。昼とは違う色だった。暗くて、波の形が見えなくて、音だけが聞こえた。
今日、何も考えない時間があった。
そのことを、17はまだ少し不思議に思っていた。波を見ていたら、何も出てこなかった。式系のことも、Formulaのことも、Nullのことも、管理局のことも、灰島のことも、何も出てこなかった。波の音だけがあった。
それが悪くなかった。
柊が言っていた。旅行に来てよかった、と。
17にはその言葉の意味が、昼よりも少しだけわかる気がした。
窓の外で、波が続いていた。




