第35話「均衡の果て」
鷹津が最初に動いた。
床を蹴る音もなく、ただ気配が前に来た。学園の裏で咲を捕えた瞬間と同じ速度で、それ以上だった。17は一歩右に動いてそれを外した。鷹津の腕が空を切って勢いのまま17の横を通り過ぎ、その瞬間に17が肘を入れようとしたが、鷹津はすでに跳んで距離を取っていた。着地が静かだった。音がしなかった。
壁際の三人が同時に動いた。一人が炎を出した。一人が電撃を走らせた。もう一人が地面を隆起させた。三つが同時に、退路を塞ぐような配置で来た。
17は後退しなかった。前に出た。
炎の中心を踏み抜くように走り、炎が17の腕を掠めて袖が焦げた。電撃が床を走ったが17はすでに跳んでいて、隆起した地面の上に着地した。高くなった足場から倉庫全体を一瞬で見渡した。五人の位置、距離、能力の射程、それを一秒以内に全部読んだ。
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右から電撃系の能力者が両手に電流を纏わせて掌を17に向けて放った。17は体を傾けてそれを躱し、そのまま体の回転を使って電撃系の能力者の側頭部に蹴りを入れた。能力者が吹き飛んで壁に当たり、壁に亀裂が入った。
炎系の能力者が距離を取りながら小さな炎を素早く連射してきた。17は走りながら外し続けたが、全部避けるのではなく致命的でない部分には当たりながら前に進んだ。左肩に一発、右腕に一発当たった。それでも足を止めなかった。距離が縮まったところで17が腕を振った。
「式系・絔」
糸が炎系の能力者に絡みついて体が止まった。腕が動かなくなり炎が消えた。絔の糸はそのまま保ち続けた。詠唱は一度だけでよかった。炎系の能力者は17が意識を向けている間、ずっとそのままだった。
地面隆起系の能力者が床を叩いた。17の足元の地面が波打つように隆起してバランスを崩した17の体が浮いた。その瞬間を狙って鉄パイプを持って突進してきたが、17は空中で体を捻って鉄パイプを脇腹で掠めながら、着地の瞬間に相手の腕を掴んでそのまま体重をかけて床に叩きつけた。床が割れた。地面隆起系の能力者が動かなくなった。
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三人が止まった。残るは鷹津と、膝をついたままゆっくりと立ち上がろうとしている男だった。
鷹津が構えを変えた。低く重心を落として、さっきまでの直線的な突進とは別の動き方になった。
「速度強化だけじゃないな」と17は言った。
鷹津は答えなかった。ただ動いた。今度は左に出て右に切り返し、それを二度繰り返してから正面に来た。17は二度目の切り返しまで追いながら三度目で前に来ることを読んで待った。鷹津の拳が来た瞬間、17は体を沈めてそれを頭上に通し、鷹津の脇腹に肩を入れた。鷹津が呻いて体勢を崩した。
崩れた体勢のまま鷹津が17の腕を掴んで回転させ、床に叩きつけようとした。17は掴まれた腕の方向に逆らわず、むしろ回転に乗って、鷹津が意図した方向と逆に体を動かした。鷹津が体勢を崩した隙に17が立ち上がり背後に回った。
糸が鷹津に向かった。絔はまだ生きていた。炎系の能力者を繋いだまま、同時に鷹津にも糸を伸ばした。
鷹津が跳んだ。天井近くまで跳んで壁を蹴り、17の背後に着地して蹴りを放ってきた。17の背中に入って前によろけた。糸が届く直前で外れた。鷹津は速すぎた。発動の瞬間だけ間合いから外れることができる判断の速さがあった。
17は少し考えた。
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鷹津が再び動いた。今度は電撃系の能力者が動けるうちに側面から電撃を放ちながら、鷹津が正面から突進してくる二方向同時攻撃だった。
17は正面の鷹津を見たまま、右手だけを側面に向けた。絔の糸が電撃系の能力者に伸びた。炎系の能力者を繋いだままの糸が、今度は電撃系にも分岐した。電撃が止まった。
同時に17は左に体を傾けて鷹津の突進を外した。鷹津が通り過ぎた瞬間、今度は17が追った。逃がさなかった。背後に張り付いて右腕を首に回した。鷹津が両手で引き剥がそうとしたが、その前に糸を通した。絔の糸が鷹津の両腕に絡みついた。炎系、電撃系、そして鷹津、三人が同時に絔で繋がれた状態になった。
鷹津が止まった。
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床に膝をついていた男が立ち上がった。鼻から血が出ていたが立った。右手を前に出した。今度は先ほどよりも大きかった。倉庫全体が震えた。圧縮された空気の塊が17に向かって飛んできた。
17は避けなかった。右手を前に出した。
「式系・瘈」
圧縮空気の塊が男と17の間で霧散した。瘈の繋がりを断つ力が、圧縮空気を構成している力の連結を切り離した。塊が空中で分解して消えた。
男が目を見開いた。「能力そのものを断ったのか。」
「ああ」と17は言った。
男が再び右手を出した。もう一度圧縮空気を生成しようとした。瘈がそれを断った。塊になる前に消えた。男が三度試みた。三度目も同じだった。男が右手を下ろした。
倉庫の中で動けるのは男だけだった。鷹津と炎系と電撃系は絔で繋がれたまま動けなかった。壁際の残り二人は倒れていた。
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男が17を見た。諦めた顔ではなかった。ただ続ける手段がなくなった顔だった。それでも男は動いた。今度は能力ではなく、懐からナイフを取り出した。最後の手段だった。
17に向かって来た。距離が縮まった。ナイフが17の肩口を狙って振られた。17はそれを腕で受けながら男の懐に入り込んだ。受けた腕から血が出た。それでも17は止まらなかった。
男が次を振ろうとした瞬間、17がその腕を掴んだ。
そのまま、男の目を見た。
今まで使っていなかった。使う必要がなかった。使いたくなかった、という方が正確だった。でも今夜の男は、拷問して、咲を人質に取って、それでもまだナイフを向けてきた。その事実が17の中で何かを決めた。
「**Formula:1**」
男の体から力が抜けた。
ナイフが床に落ちた。男がその場に崩れ落ちた。意識を失ったわけではなかった。目は開いていた。でも体が動かなかった。能力も使えなかった。式系・笪のような封印ではなかった。もっと根本的な何かが止まっていた。男が自分の手を見た。動かなかった。
「何を、した」と男は言った。掠れた声だった。
17は答えなかった。
男が床に両手をついたまま、17を見上げた。「お前、それは何だ。式系とも、さっきの瘈とも違う。」
「違う」と17は言った。それだけ言った。
男はしばらく自分の体を確認した。動かそうとしても動かなかった。能力を使おうとしても出なかった。パニックになるかと思ったが、男は静かだった。「これは、解けるのか。」
「時間が経てば解ける」と17は言った。「ただし、次に会ったとき同じことをしようとするなら、次は解けない方を使う。」
男が少し黙った。「次、というものがあると思っているのか。」
「さあ」と17は言った。
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倉庫が静かになった。
絔で繋がれた三人が床に座り込んでいた。倒れた二人は動かなかった。男は床に座ったまま動けなかった。
17は糸を解いた。絔が解けて、炎系と電撃系と鷹津の体が自由になった。鷹津は立ち上がったが、戦う様子はなかった。ただ17を見ていた。
「お前の名前を聞いていなかった」と鷹津は言った。今夜初めて話した声だった。思ったより低かった。
「17だ」と17は言った。
「番号か」と鷹津は言った。
「ああ」と17は言った。
鷹津はしばらく17を見た。「さっきの、Formula:1とか言ったやつ。あれは何だ。」
「それは答えない」と17は言った。
「そうか」と鷹津は言った。それ以上聞かなかった。
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男が床に座ったまま、懐から小さな端末を取り出した。動けない体で、指だけ動かして17に向けて投げた。17が受け取った。
「管理局が十三年前に行った実験の記録の断片だ」と男は言った。「完全ではないが、参考になるかもしれない。礼だと思ってくれ。今夜俺がしたことへの。」
17は端末を見た。データを開いた。断片的な記録で、研究者の名前がいくつか並んでいた。実験の対象についての記述があった。その部分を17はゆっくりと読んだ。
それから、画面を少し下にスクロールした。
そこにあった。
Formula:1という表記と、その下にFormula:2という項目があった。Formula:1の記述は短かった。17にはすでに知っていた内容だった。Formula:2の欄は全て黒塗りだった。内容が何も読めなかった。
「Formula:2の欄が黒塗りになっている」と17は言った。独り言のような声だった。
「そうだ」と男は床に座ったまま言った。「俺たちにも読めなかった。管理局の上層部が直接塗りつぶした形跡があった。よほど隠したい内容なんだろう。」
17は画面を見たまま、しばらく動かなかった。
Formula:2。因果逆転。
その言葉の意味を、17は知っていた。知っていたからこそ、黒塗りの下に何が書いてあるかの輪郭も見えていた。それが正しければ、管理局の上層部がそれを隠したい理由も、おおよそわかった。
端末を閉じた。
「礼を言う」と17は言った。男に向けて。
「礼を言われるほどのことはしていない」と男は言った。「今夜のことを考えれば、これくらいは当然だ。」
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倉庫を出た。
空が白み始めていた。川の水音が聞こえた。17は川沿いの道を学園に向かって歩き始めた。左肩が焦げていた。右腕が赤くなっていた。口の中がまだ血の味がした。ナイフで切られた腕から、じわじわと血が出ていた。
Formula:1を使った。
今夜初めて使った。使いたくなかった理由は、その効果が式系とは根本的に違うからだった。式系は存在に刻む。でもFormula:1は、もっと深いところに触れる。法則そのものに直接干渉する能力だった。一度使えば、使った痕跡が残る。それが17にとって、使いたくない理由だった。
ただ今夜は、使うしかなかった。
男はいずれ動けるようになる。それでいいと思っていた。殺す必要はなかった。ただ、今夜のことを覚えていてくれればよかった。
Formula:2の黒塗りの欄を、もう一度頭の中で思い返した。
その下に何が書いてあるか、17にはわかっていた。でもそれを今考えることに意味はなかった。まだその段階ではなかった。ただ、いつか向き合う日が来るという感覚が、今夜初めてはっきりと形を持った。
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学園に戻ると白瀬が外で待っていた。17の全身を一度見て、ナイフで切られた腕を見て、少し目を細めた。「中に入れ」とだけ言った。
朝霧の部屋で手当てを受けた。朝霧は何も聞かなかった。ナイフの傷を処置して、焦げた部分に薬を塗って、腫れた頬に冷たいものを当てた。その間ずっと黙っていた。
手当てが終わったところで、咲が入ってきた。17の顔を見た瞬間に咲の表情が歪んだが、泣かなかった。
「痛かった?」と咲は言った。
「痛かった」と17は言った。
「なんで正直に言うの」と咲は言った。声が少し震えた。「いつもさあって言うのに。」
「聞かれたから答えた」と17は言った。
咲はしばらく17のナイフの傷を見て、腫れた頬を見て、それから目を見た。
「怒ってる」と咲は言った。断定する声だった。
「さあ」と17は言った。
「怒ってる」ともう一度言った。「あたしのために怒ってくれてる。」
「次からはもっと早く終わらせる」と17は言った。独り言のような声だった。「解析に時間をかけすぎた。」
咲が泣きそうな顔のまま笑った。「それ、怒ってるってことだよ。」
17は答えなかった。でも否定もしなかった。
朝の光が部屋に差し込んできた。
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その朝、屋上で一人になってから、17は端末をもう一度開いた。
Formula:2の黒塗りの欄を見た。
指でなぞった。画面が変わるわけではなかった。黒塗りは黒塗りのままだった。
でも17には、その下に何が書いてあるかがわかっていた。そしてそれが正しければ、管理局の上層部がそれほど徹底的に隠した理由も、今の17には想像できた。
端末を閉じた。空が完全に明るくなっていた。遠くで鳥の声がした。
今はまだ、その段階ではない。
ただ、いつか来る。
17はそれだけを確認して、屋上の縁に背をもたせかけた。風が吹いた。焦げた袖が揺れた。




