第30話「均衡の終わり」
水曜日の朝、榎本が来た。
いつもの裏門の外だった。17が一人で歩いていたとき、気配が来た。
でも今日は違った。
いつもより急いでいた。フードを被ったままだった。いつもは少し余裕のある顔をしているのに、今日は違った。
「待っていた」と榎本は言った。
「何があった」と17は言った。
「Nullが動いた」榎本は声を落とした。「昨夜、管理局の外部委託三人が襲われた。全員重傷だ」
「場所は」
「学園から二キロ圏内だ」
17は少し間を置いた。
「Nullが学園に近づいている」
「そうだ」
17は公園の出口を確認した。人の気配がなかった。
「Nullについて、改めて教えてくれ」と17は言った。「お前たちの認識を聞きたい」
榎本は少し驚いた顔をした。17が改めて聞くのは珍しかった。
「わかった」榎本は息を吐いた。「Nullは管理局に消された能力者たちの残党組織だ。十年以上前から存在している。表向きの目的は管理局への対抗と、消された能力者たちの復権だ」
「表向きは、ということは裏がある」
「ある」榎本は少し間を置いた。「Nullの中でも派閥が分かれている。管理局への復讐だけを目的にしている連中と、それ以上の何かを目指している連中がいる」
「それ以上の何かとは」
「わからない」榎本は正直に言った。「俺たちも把握できていない。ただ、最近になって後者の動きが活発になってきた」
「その後者が、昨夜動いた」
「そうだ」
17は少し考えた。
「Nullの規模は」
「大きくはない」榎本は言った。「管理局の表組織と真正面からぶつかれるほどではない。でも少数精鋭だ。一人一人の能力が高い。それに」
「それに?」
「消された能力者の残党だから、管理局の手の内を知っている」榎本は静かな声で言った。「どこを突けば管理局が痛いか、よくわかっている」
「それだけじゃない」と榎本は続けた。「Nullの中に、見たことのない能力者が混じっている。俺たちの情報網でも素性が掴めない」
「新しい幹部か」
「かもしれない。ただ」榎本は少し間を置いた。「その能力者、お前のことを知っているらしい」
17は動かなかった。
「俺を」
「名前は出なかった。でも計測不能の能力者という情報で動いている。お前を探している」
「目的は」
「わからない」榎本は17を見た。「でも管理局への対抗とは別の動機がある気がする。それが嫌な感じがする理由だ」
17は公園の出口を再度確認した。
「以上か」
「以上だ」榎本はフードを直した。「17、気をつけろ。今回は今までと違う。管理局とNullが同時に動いている。どちらもお前に関係している」
「知っている」
「怖くないか」
「お前も白瀬も、同じことを聞く」と17は言った。
「みんな気になるんだよ」榎本は静かな声で言った。「お前が怖くないのかどうか」
「さあ」と17は言った。
「また、さあか」
「本当にわからない」
榎本はしばらく17を見た。
「そうか」と榎本は言った。「それでいい。わからないままでいろ。怖くなったら、負ける」
気配が消えた。
17は裏門の外に一人残った。
一時間目が始まる前、17は白瀬に伝えた。廊下の端で、短く。
「Nullが動いた。学園から二キロ圏内で外部委託三人が重傷。Nullの中に素性不明の新しい能力者がいる。その能力者は俺を探している」
白瀬は少し間を置いた。
「Nullが学園に近づいてきた、ということか」
「ああ」
「管理局への対抗が目的のはずのNullが、なぜお前を」
「わからない」と17は言った。「でも管理局とは別の動機がある。榎本がそう言っていた」
「管理局とNull、両方が同時に動いている」白瀬は少し考えた。「板挟みになるな、俺たち」
「そうかもしれない」
「朝霧に伝える」
「桐島にも頼む」
「わかった」白瀬は17を見た。「咲には?」
「今は伝えない」
「桐野に繋がっているから?」
「それもある」と17は言った。「ただ、今日の咲には関係のない話だ」
白瀬は頷いた。
昼休み、屋上に咲が来た。
17と柊がいた。
「師匠!」咲は17に駆け寄った。いつも通りだった。「今日、朝霧さんに新しい本借りた!」
「そうか」
「兵法の本! 孫子の次に読むやつって言われた!」咲は本を取り出した。「吴子! 聞いたことある?」
「ある」
「知ってたんだ! さすが師匠!」
柊が咲を見た。それから17を見た。
今日の17はいつもより少し遠い顔をしていた。
柊は何も言わなかった。
咲は本を開いていた。
「ねえ師匠、吴子ってどんな人?」
「戦国時代の武将だ。孫子と並ぶ兵法家」
「孫子より強い?」
「比べるものではない」
「でもどっちが好き?」
17は少し間を置いた。
「孫子だ」
「なんで?」
「短いから」
咲が笑った。柊も笑った。
17は空を見ていた。
放課後、桐島が17を呼び止めた。
「榎本からの話、白瀬から聞いた」と桐島は言った。
「ああ」
「水無瀬と手分けして学園周辺を確認する」桐島は腕を組んだ。「Nullが近づいているなら、早めに把握しておきたい」
「頼む」と17は言った。
「お前は今夜どうする」
「学園にいる」
「動かないのか」
「今夜は待つ」と17は言った。「Nullが何を目的としているか、もう少し情報が欲しい」
「榎本が動いてくれるか」
「動いてくれると思う」
桐島は少し考えた。
「咲はどうする。あの子の能力、今回の件で使えると思うが」
「今は使わない」
「なぜ」
「咲はまだ、ここで何が起きているか全部知らない」と17は言った。「知らないまま戦わせるのは違う」
桐島は17を見た。
「お前、咲のことをちゃんと考えているな」
「さあ」
「そのさあは考えてるやつだ」桐島は少し笑った。「わかった。今夜の確認はこちらでやる」
桐島が歩き始めた。少し行ってから振り返った。
「17」と桐島は言った。
「何だ」
「管理局とNullが同時に動いている。お前一人で抱えるな」
17は少し間を置いた。
「わかっている」と17は言った。
桐島は頷いた。歩き続けた。
夜、17は屋上にいた。
学園周辺の気配を確認していた。いつもより広く。いつもより細かく。
異常はなかった。今夜は静かだった。
でも、静けさが変わった気がした。
昨日までの静けさとは違う。何かが動き始めている。その前の静けさだった。
Null。管理局に消された能力者たちの残党。
榎本もその一人だった。消された側にいた。でも榎本はNullには入らなかった。入れなかったのか、入らなかったのか。17にはわからなかった。
そしてNullの中に、17を探している誰かがいる。
17は空を見た。
柊の部屋の明かりが点いていた。咲もまた泊まっているらしく、二つの気配が同じ場所にあった。白瀬が寮にいる。朝霧も同じく。桐島と水無瀬が学園の外で動いている気配がした。
全員がいた。
17はそれを一つ一つ確認した。
全員がいる。今夜は全員が無事だ。
それだけで、十分だった。
夜風が吹いた。
静けさは、もうすぐ終わる。




