第29話「便利な道具」
火曜日の朝、咲は図書室にいた。
植物図鑑を読み終えて、別の本を探していた。本棚の間をうろうろしていた。
朝霧が来た。
「また来たのか」と朝霧は言った。
「だって面白いんだもん」と咲は言った。「昨日の図鑑、全部読んだ」
「一日で」
「うん。あたし読むの速いから」
朝霧は少し驚いた顔をした。咲はそれに気づかず本棚を見ていた。
「次は何を読む」と朝霧は言った。
「強くなれそうな本」咲は首を傾けた。「でも何がいいかわからない」
「戦術の本はどうだ」
「戦術?」
「能力の使い方だけでなく、状況の読み方も強さのうちだ」朝霧は一冊取り出した。「これを読め」
咲は表紙を見た。
「孫子?」
「古い本だが、今でも使える」
「朝霧さんって、こういうの読むんだ」咲は少し意外そうな顔をした。「なんか意外」
「意外でも何でもない」
「でもなんか、朝霧さんって植物図鑑とか孫子とか、静かな本が好きそう」咲は朝霧を見た。「朝霧さんって、実は師匠に似てるよね」
朝霧は少し間を置いた。
「似ていない」
「似てるよ。静かで、無駄なこと言わなくて、でもちゃんと見てる感じがする」咲は本を受け取った。「あたし、そういう人が好きだな」
朝霧は答えなかった。
咲はすでに本を開いていた。
昼休み前、桐野から白瀬に連絡が来た。
「今日の放課後、報告を聞きたい。咲のことも含めて」
白瀬は朝霧に転送した。
朝霧からすぐに返信が来た。
「予想通りだ」
白瀬は17に伝えた。廊下の端で、声を落として。
「桐野が咲の動向を確認しに来る」と白瀬は言った。
「ああ」と17は言った。
「咲には伝えるか」
17は少し間を置いた。
「今日は伝えない」
「理由は」
「咲がどう動くか、まだ見ていない」と17は言った。「桐野との面談で、咲がどういう顔をするか確認してから決める」
「咲を試すのか」
「試すのではない」と17は言った。「見ている」
白瀬はしばらく17を見た。
「お前、咲のことを気にしているな」
「さあ」
「そのさあは気にしてるやつだ」白瀬は少し笑った。「柊さんに続いて、咲まで」
「続いてとは何だ」
「なんでもないです」白瀬は歩き始めた。
昼休み、屋上に咲が来た。
17と柊がいた。
「師匠!」咲は17に駆け寄った。「孫子読んだ!」
「昨日渡したばかりだろう」と17は言った。
「朝から読んでた! 面白かった! 彼を知り己を知れば百戦危うからずってやつ、あたしの戦い方と全然逆だった」
「どう逆だ」
「あたし、相手のことあんまり考えないで突っ込んでた」咲は正直に言った。「でも孫子読んで、相手をちゃんと見てから動いた方が強くなれるって思った」
「気づいたなら変えろ」
「変える!」咲は元気よく言った。「だから師匠に教えてもらいたい! 相手の見方!」
「教えていない」と17は言った。
「でも今ちゃんと返事してくれたじゃん!」
「指摘しただけだ」
「指摘でもいい! 続けて!」
柊が二人を見ていた。
少し複雑な顔をしていた。でも今日はギスギスした感じではなかった。
「咲ちゃん」と柊は言った。
「なに?」
「孫子、面白かった?」
「めちゃくちゃ面白かった!」咲は柊を見た。「柊さんも読む?」
「私はもう読んだことある」
「え、すごい。柊さんも頭いいじゃん」咲は少し間を置いた。「柊さんってさ、頭よくて、能力も強くて、なんで師匠の隣にいるのかわかる気がする」
柊は少し驚いた顔をした。
「え、なにそれ急に」
「褒めてるんだけど」咲は真剣な顔で言った。「あたし、強い人はちゃんと認めるから」
「あ、ありがとう……」柊は少し戸惑った顔をした。「咲ちゃんって、たまにそういうこと言うよね。急に」
「思ったこと言っただけだよ」
柊は咲を見た。それから17を見た。
17は空を見ていた。
柊は少し笑った。
放課後、桐野が学園に来た。
職員室の応接コーナーに白瀬と朝霧が呼ばれた。
咲も呼ばれた。
三人が並んで座った。桐野が向かいに座った。穏やかな顔だった。
「久しぶりだね、咲」と桐野は言った。
「はい」と咲は言った。
白瀬は咲を横目で見た。
いつもと少し違った。声がいつもより小さかった。元気がなかった、というわけではなかった。でもどこか、慎重な感じがあった。
桐野の前では、違う顔をするのかもしれない、と白瀬は思った。
「無断でここに来たね」と桐野は言った。穏やかな声だった。
「すみませんでした」と咲は言った。
「怒っていないよ」桐野は笑った。「17番に会いに来たんだろう」
「はい」
「どうだった」
「強かったです」と咲は言った。迷いなく。「あたし、一秒で負けました」
「そうか」桐野は少し考えた。「17番はどんな生徒だと思った」
咲は少し間を置いた。
「静かな人です」と咲は言った。「でも全部見えてる感じがする」
「全部見えている」
「なんか、あたしのことも全部わかってる気がして」咲は少し笑った。「なんでかわかんないけど」
桐野は咲を見た。少し間を置いた。
「咲、一つだけ聞く」と桐野は言った。
「はい」
「17番の情報を、俺に教えてくれるか」
咲は止まった。
白瀬は表情を変えなかった。朝霧も同じく。
咲はしばらく黙っていた。
「どんな情報ですか」と咲は言った。
「一緒にいて気づいたことを教えてくれればいい。特別なことじゃなくていい」
「それって」咲は桐野を見た。「あたしを、師匠の監視に使うってことですか」
桐野は少し笑った。
「監視、という言い方は少し違うが」
「でもそういうことですよね」
「そうだね」桐野は正直に言った。「そういうことだ」
咲はしばらく黙っていた。
白瀬は咲の横顔を見た。
いつもの元気な顔ではなかった。考えていた。真剣に考えていた。
「桐野さん」と咲は言った。
「何だい」
「あたしがここに来たのは、師匠に弟子入りしたかったからです」咲は桐野を見た。「師匠を監視するためじゃない」
「わかっているよ」
「だから」咲は少し間を置いた。「情報は渡せません」
部屋が静かになった。
桐野は咲を見た。穏やかな目だった。でも何かを測っている目だった。
「それでいいのかい」と桐野は言った。「俺に逆らう形になるが」
「逆らってるつもりはないです」と咲は言った。「ただ、師匠の弟子としてここにいたい。それだけです」
「師匠、というのは17番のことか」
「はい」
「17番は認めているのかい」
「認めてないって言ってます」咲は少し笑った。「でも放置してるから、認めたのと同じだと思ってます」
桐野はしばらく咲を見た。
それから少し笑った。
「わかった」と桐野は言った。「好きにしなさい」
「え、怒らないんですか」
「怒らない」桐野は立ち上がった。「ただし、危ないことに巻き込まれたらすぐに報告しなさい。それだけだ」
「……はい」
桐野が部屋を出た。
廊下に出て、三人が並んで歩いた。
「咲」と白瀬は言った。
「なに」
「よくやった」
「別に」咲はそっぽを向いた。「当たり前のことを言っただけだから」
「当たり前じゃない」と朝霧は言った。「桐野に逆らうのは、簡単じゃない」
「逆らったつもりはないって言ったじゃん」
「それでも」と朝霧は言った。「よくやった」
咲はしばらく黙っていた。
「朝霧さんにも褒められた」と咲は言った。小さな声で。「二日連続で」
「一回だ」と朝霧は言った。
「昨日も褒めてくれたじゃん」
「あれは評価だ」
「同じだよ!」咲は少し笑った。「ありがとう、二人とも」
夕方、17が廊下を歩いていた。
咲が来た。
「師匠」と咲は言った。
「ああ」
「さっき桐野さんに呼ばれた」
「知っている」
「やっぱり知ってた」咲は少し笑った。「情報を渡せって言われた」
「どうした」
「断った」咲は17を見た。真っすぐな目だった。「師匠の弟子としてここにいたいから、って言った」
17は少し間を置いた。
「そうか」と17は言った。
「怒ってる?」
「なぜ怒る」
「あたしが管理局の人間だから、複雑かなって」
「複雑ではない」と17は言った。「お前は自分で判断した。それでいい」
咲はしばらく17を見た。
「師匠」と咲は言った。
「何だ」
「あたしのこと、道具として使われてたって、知ってた?」
17は少し間を置いた。
「知っていた」と17は言った。
「いつから」
「咲が来た日から」
「それでも放置したの?」
「ああ」
「なんで」
「お前に悪意がなかったからだ」と17は言った。「悪意のない人間を遠ざける理由はない」
咲はしばらく黙っていた。
「ありがとう」と咲は言った。小さな声だった。いつもの大声ではなかった。
「礼はいらない」
「いる」と咲は言った。「師匠が放置してくれたから、あたしここにいられた。だからいる」
17は答えなかった。
咲は少し間を置いた。それから顔を上げた。
「師匠、あたし絶対強くなるから」と咲は言った。今度はいつもの声だった。「弟子として恥ずかしくないくらい強くなるから」
「弟子と認めていない」と17は言った。
「認めてなくてもなるもん!」
17は歩き始めた。
咲がついてきた。
いつもと同じだった。
夜、屋上に17がいた。
空を見た。星が出ていた。
咲が桐野に逆らった。
十四歳が、上司の指示を断った。理由は単純だった。師匠の弟子としてここにいたいから。
その単純さが、17には少し眩しかった。
単純に動ける人間は、強い。
17は右手を見た。まだ何もない。
追跡の能力が、学園内の気配を確認した。白瀬が寮にいる。朝霧も同じく。桐島と水無瀬は職員室にいた。
柊は自室にいた。窓の明かりが点いていた。
咲は。
柊の部屋にいた。また泊まるらしかった。二つの気配が同じ場所にあった。
まだ喋っている気配がした。
17はそれをしばらく感じていた。
夜風が吹いた。
明かりが揺れた。




