第23話「異端の目、そこには何が映っている」
土曜日の夜、17は一人で街に出た。
特に目的はなかった。歩いていた。人通りが少ない路地に入った。
古いビルの地下に、明かりが漏れていた。
看板がなかった。ドアに番号だけが書いてあった。
17は立ち止まった。
中に気配があった。複数。でも敵意はない。ただ、待っている気配だった。
17はドアを開けた。
階段を降りると、広い部屋があった。
薄暗かった。テーブルがいくつか並んでいた。カードが置いてあるテーブルもあった。チェスが置いてあるテーブルもあった。人が何人かいたが、互いに干渉していなかった。静かだった。
奥にカウンターがあった。
男が立っていた。
五十代くらいだった。白髪交じりの髪を綺麗に整えていた。黒いベストを着ていた。姿勢が良かった。グラスを磨いていた。
店長だった。
17を見た。笑わなかった。でも歓迎している目だった。
「いらっしゃい」と店長は言った。穏やかな声だった。「初めてですね」
「ああ」
「何かご希望は」
「特にない」
「そうですか」店長はグラスを置いた。「では、ご案内しましょう」
店長が17の耳元に顔を近づけた。
囁いた。
短かった。十秒もなかった。
17は動かなかった。
店長が離れた。
「奥の部屋です」と店長は言った。「お待ちの方がいます」
奥の部屋は小さかった。
テーブルが一つ。椅子が二つ。テーブルの上にカードのデッキが一組置いてあった。ランプが一つ、テーブルを照らしていた。
椅子に男が座っていた。
三十代くらいだった。細身だった。スーツを着ていた。髪が長く、後ろで束ねていた。足を組んで、腕を組んで、17を見ていた。
笑っていた。
「来たか」と男は言った。
「ああ」と17は言った。向かいの椅子に座った。
「噂は聞いていた」と男は言った。「計測不能の生徒。Formula、という呼び名も。なかなか面白い話だった」
「そうか」
「俺の名前は要らないか」
「要らない」
男は少し笑った。
「じゃあ俺もお前の名前は聞かない」男はテーブルのデッキを手に取った。「ルールは簡単だ。互いに五枚ずつカードを持つ。一枚ずつ出し合う。相手より強いカードを出した方が一点。五回で終わり。得点の多い方が勝ちだ。」
「賭けるものは」
「情報だ」男はカードを五枚、17の前に置いた。「お前が勝ったら、俺が持っている情報を全て渡す。俺が勝ったら、お前の情報を一つ渡してもらう」
「情報とは」
「俺が何者か。誰に雇われているか。何を目的としているか」男は自分のカードを五枚手に取った。「全部だ」
17はカードを手に取った。
「始めろ」と17は言った。
一枚目。
男が先に出した。数字の7だった。
17は手元のカードを見た。全部で五枚。数字は3、5、8、10、Kだった。
17は3を出した。
男が笑った。
「負けていいのか」
「ああ」
「なるほど」男は点数を記録した。「1対0、俺のリードだ」
17はカードを出す前に男を見た。一秒だけ。
男の指先、目の動き、呼吸のリズム、姿勢の重心。全部が見えた。次に何を出すか、まだ決めていない。迷っている。でもKを出したくない、という意思がある。Kを温存したい。
「一つ聞いていいか」と17は言った。
「何だ」
「お前は三週間前の火曜日、どこにいた」
男の手が止まった。
「なぜそれを聞く」
「答えろ」
男は少し間を置いた。
「…なぜ知っている」
「答えになっていない」
「東京にいた」と男は言った。声が少し変わった。「それがどうした」
「東京の、どのあたりだ」
「港区だ」男は17を見た。「なぜわかる。お前と会うのは今日が初めてのはずだ」
「続けよう」と17は言った。
二枚目。
17が先に出した。10だった。
男は少し考えた。持っているカードを見た。それから一枚出した。Jだった。
「また負けた」と17は言った。
「2対0だ」男は17を見た。「お前、わざと負けているか」
「さあ」
「さあって」男は少し眉をひそめた。「なぜ弱いカードばかり出す」
「お前が何を持っているか確認していた」と17は言った。
男の顔が変わった。
「確認?」
「お前の手元のカードは残り三枚だ」と17は言った。「Q、4、2だろう」
男は動かなかった。
「なぜわかる」
「出した二枚と、出さなかった三枚の傾向から読んだ」
「傾向? 俺はランダムに出していた」
「人間のランダムはランダムではない」と17は言った。「癖がある。お前の癖は、強いカードを温存するとき右手の薬指が微かに動く。一枚目のとき、Kを握っていた。でもKはまだ出ていない」
男はしばらく17を見た。
「…Kも持っているのか」
「持っている。残り三枚はQ、4、2、そしてKだ。四枚か」
「五枚だ」と男は言った。「最初から五枚持っている」
「違う」と17は言った。「お前は最初、右手で六枚持っていた。でも一枚を袖の中に隠した。隠したカードは切り札だろう」
部屋が静かになった。
ランプが揺れた。
「お前」と男は言った。「何を見ている」
「続けよう」と17は言った。
三枚目。
男が出した。Qだった。
17は8を出した。
「3対0だ」男は記録した。でも手が少し震えていた。「お前、負けが確定したのにもかかわらず余裕そうだな」
「情報を聞いていいか」と17は言った。
「まだ俺が勝っている」
「関係ない」と17は言った。「お前が雇われている相手の名前を言う。合っていたら認めろ」
男は少し間を置いた。
「言ってみろ」
「桐野だ」と17は言った。
男の顔が固まった。
「なぜ」と男は言った。声が変わっていた。「なぜ知っている。お前と桐野に接点があるのか」
「ある」
「どのくらいの接点だ」
「それはこちらの情報だ。渡す理由がない」と17は言った。「次の情報を聞く。お前の能力は情報収集系だ。でも収集した情報を他者に転送できる。今もこの部屋の会話を誰かに送っているか」
男は答えなかった。
「答えなくていい」と17は言った。「送っている。送っている相手は桐野ではない。桐野の上だ」
「上?」
「桐野の上に、まだ誰かいる。お前はそちらに直接繋がっている」
男の顔から表情が消えた。
「お前、どこまで知っている」
「まだ全部ではない」と17は言った。「でも十分だ」
「ここで勝負を終わらせるのは少し勿体無い、最後の5回まで楽しもうか」そう17が小さく囁いた。
四枚目。
17が出した。5だった。
男は4を出した。
「3対1だ」男は言った。でも声に力がなかった。「お前が一点取った」
「もう一つだけ聞く」と17は言った。
「なんだ」
「三週間前の火曜日、港区で何があったか」
男は長い沈黙の後、口を開いた。
「管理局の上層部の会合があった」と男は言った。「非公式の。桐野の上の人間たちが集まった。議題は一つだった」
「何だ」
「お前のことだ」男は17を見た。「計測不能の生徒をどう扱うか。管理局の管理下に置くか、それとも」
「それとも?」
「消すか、だ」
部屋が静かになった。
17は動かなかった。
「消す、というのは」
「記録を消す、という意味ではない」男は静かな声で言った。「文字通りの意味だ。お前の存在が管理局にとって脅威になると判断されたとき、実行される」
「判断はされたか」
「まだだ」男は17を見た。「だから桐野が動いている。判断材料を集めている。お前が何者かわかれば、消すか管理下に置くか決められる」
17は少し間を置いた。
「教えてくれてありがとう」
「礼を言うな」男は苦い顔をした。「俺はお前に負けた。情報を渡すのは当然だ」
「まだ勝負は終わっていない」
「終わったも同然だろう」男は手元のカードを見た。「お前はKを持っている。俺の残りはQとKと、袖の中の一枚だ」
「五枚目を出せ」と17は言った。
五枚目。
男が最後のカードを出した。
袖から取り出した。Aだった。
「最強のカードだ」と男は言った。「これでお前が何を出しても俺が勝つ。4対1で終わりだ。お前の情報を一つ渡してもらう」
「何を聞く」と17は言った。
「お前の目だ」男は17を見た。「さっきから気になっていた。お前は何を見ている。俺の手元、俺の動き、俺の情報。全部わかっていた。なぜだ」
17はKを出した。
Kは負けた。Aには勝てない。
4対1。男の勝ちだった。
「答えろ」と男は言った。
17は少し間を置いた。
「見えているものを、見ているだけだ」と17は言った。
「それだけか」
「お前には見えないものが、俺には見える」と17は言った。「それだけだ。特別なことは何もない」
「特別なことが何もない目が、なぜ俺の全部を見通せる」
「さあ」と17は言った。「俺にも、なぜ見えるのかはわからない。ただ、最初からそう見えていた」
男は17を見た。長い沈黙だった。
「お前の目は」と男は言った。静かな声で。「普通じゃない」
「そうかもしれない」と17は言った。「でもこれが俺の普通だ」
17が立ち上がった。
男も立ち上がろうとした。
立てなかった。
体が動かなかった。
指先から始まった。次に腕。次に足。全部が、自分の意志とは別の動きをしようとしていた。
いつの間にか、糸が絡まっていた。
見えない糸が、男の全身に巻きついていた。いつ絡められたのか、男にはわからなかった。カードを出していたとき。情報を話していたとき。どこかで、気づかないうちに。
「式系・絔」
17が小さく言った。
男の体が、ゆっくりと椅子に沈んだ。抵抗できなかった。自分の体が自分の意志で動かない。糸に従って、ただ座らされた。
「情報の対価だ」と17は言った。「しばらく動けない。桐野に連絡する前に、少しだけ時間をくれ」
男は動けないまま、17を見た。
「お前は」と男は言った。声だけは出た。「最初から、全部わかっていたのか」
「ああ」
「Aを持っていることも」
「ああ」
「なぜわざと負けた」
「話してもらう必要があった」と17は言った。「勝ちすぎると人は口を閉じる。少し勝たせた方が、よく話す」
男は少し間を置いた。
「俺は最初から、手の中にいたのか」
17は答えなかった。
ドアを開けた。出口に向かった。
振り返らなかった。
「桐野に伝えろ」と17は言った。廊下に出ながら。「俺の目は、お前たちが思っているより、ずっと多くのものを見ている。それだけだ」
ドアが閉まった。
カウンターで、店長がグラスを磨いていた。
17が通り過ぎた。
「またどうぞ」と店長は言った。
17は答えなかった。
階段を上がった。夜の街に出た。
風が冷たかった。
空を一度見た。
歩き始めた。




