第21話「介入」
木曜日の朝、学園の雰囲気が変わった。
正門に黒い車が二台止まっていた。目立たないようで目立っていた。登校してきた生徒たちが足を止めて見た。
17は正門の前を通りながら車を一瞥した。
それだけだった。一瞥。でもその一瞥で全部わかったような顔をして、足を止めずに歩き続けた。
柊はその横顔を見た。
17の目はいつもそうだ。一度見たら終わりという目をしている。何を見ているのか、何が見えているのか、柊にはわからない。でも確かに、普通の人間とは違う見え方をしていると、ずっと感じていた。
一時間目が始まる前、桐島が職員室で桐野と話していた。
白瀬は廊下からその様子を見た。桐野が何かを説明していた。桐島の顔が少し固かった。でも頷いていた。
白瀬は朝霧に目配せした。朝霧が小さく頷いた。
朝のホームルームで神崎が話した。
「今週から管理局の方々が学園内での研修を行う。授業の見学や施設の確認が入ることがある。普段通りにしていてください」
クラスがざわめいた。
「管理局って何しに来るんですか」と誰かが聞いた。
「学園の安全管理の確認です」と神崎は言った。
柊は手元を見ていた。17は窓の外を見ていた。桐島が教室の後ろで腕を組んでいた。一度だけ17を見た。
二時間目、局員の一人が教室の後ろに立った。
三十代の男だった。無表情だった。ノートを持っていた。授業の様子を記録している、という建前だった。
でも視線が一カ所に集中していた。
17だった。
柊は横目で17を見た。17は黒板を見ていた。授業中ずっと。前を向いたまま何も変わらなかった。
でも柊には見えた。
17の目が、一度だけ後ろに動いた。ほんの一瞬。黒板を見たまま、視線だけが後ろの局員を捉えた。それだけで全部把握したのか、それきり後ろを見なかった。
柊は前を向いた。
あの目は、何を見ているんだろう、とまた思った。
局員は三十分後に教室を出た。
休憩時間、柊が17の席に近づいた。
「さっきの人、ずっとあなたを見てた」と柊は言った。声を落としていた。
「知っている」
「怖くないの」
「怖い理由がない」
「でも」
「見られているだけだ」と17は言った。「こちらが何もしなければ、向こうも動けない」
柊は少し間を置いた。
「白瀬くんと朝霧さん、さっき廊下で話してた。二人とも顔が硬かった」
「そうか」
「17は何か知ってる?」
「桐野が本格的に動かし始めた。正規の局員を三人入れた。今日だけじゃない。しばらく続く」
柊は息を吐いた。
「どうするの」
「何もしない」
「何もしないって」
「今は」と17は言った。「動く必要があるときが来たら動く。今はまだその時ではない」
柊は17を見た。
「その時って、いつ来るの」
「さあ」
柊は苦笑した。
「またさあって言う」
「今回は本当にわからない」
昼休み、柊は食堂でご飯を食べて、屋上に向かった。
今日は一人で来るつもりだった。
扉を開けた。
17がいた。
「来た」と17は言った。
「来た」と柊は言った。
柊は隣に並んだ。空を見た。少し間を置いてから言った。
「今日も場所わかってたんだね、私の」
「ああ」
「どうやってわかるの。毎回」
「さあ」
「さあって」柊は17を横目で見た。「食堂にいたのも知ってた?」
「知っていた」
「なんで」
17は少し間を置いた。
「見えているから」と17は言った。
「見えてるって、どこから見てたの。屋上からは食堂見えないじゃない」
「そういう意味の見えているではない」
柊は17の横顔を見た。
「じゃあどういう意味」
「今は無理だ」
柊は空を見た。少し笑った。
「わかった。いつか話してくれるのを待つ」
風が吹いた。柊の髪が揺れた。
「一つだけ」と柊は言った。
「何だ」
「その見え方って、ずっと続いてるの。ずっと全部見えてるの」
17は少し間を置いた。
「ああ」
「疲れない?」
今度は長い沈黙だった。
「さあ」と17は言った。
今回の「さあ」は、いつもと少し違った。考えたことがない、という響きではなかった。
考えたくない、に近い何かだった。
柊はそれ以上聞かなかった。
昼休みの後半、白瀬が屋上に上がってきた。
17と柊がいた。白瀬は17の隣に立った。
「桐野が三人入れた」と白瀬は言った。
「知っている」
「俺と朝霧への監視も強化された。報告のペースを上げろという指示が来た」
「従うのか」
「従う形を取る」白瀬は空を見た。「でも何を報告するかは、俺たちが決める」
17は少し間を置いた。
「お前たちは、いつまで綱渡りを続けられる」
「わからない」白瀬は正直に言った。「でも今日は続けられる。それだけだ」
柊が白瀬を見た。
「白瀬くん、大丈夫?」
「大丈夫ですよ」白瀬は笑った。いつもの愛想のいい笑い方だった。でも今日は少し疲れが混じっていた。「慣れてますから、こういうの」
「慣れてるって、辛いね」
「そうですかね」白瀬は少し考えた。「慣れてる方が楽なこともあります」
三人しばらく黙っていた。風が吹いた。遠くに雲が見えた。
「一つだけ聞いていいか」と17は白瀬に言った。
「何ですか」
「お前は今、何のためにここにいる」
白瀬は少し驚いた顔をした。17が動機を聞くのは珍しかった。
「最初は任務でした」と白瀬は言った。「でも今は」
「今は?」
「わからなくなってきた」白瀬は正直に言った。「任務のためではない気がする。でも何のためかと聞かれると、答えられない」
17は白瀬を見た。
「それでいい」と17は言った。
「いいんですか」
「わからないまま動いている人間の方が、信用できる」
白瀬は少し笑った。今度は疲れが混じっていなかった。
「ありがとうございます」
「礼はいらない」
午後、局員の一人が図書室に入った。
朝霧がいた。本を読んでいた。
局員は本棚を見て回った。知覚系の能力を使っていた。残留痕跡を読もうとしていた。
何も読めなかった。
局員は朝霧に近づいた。
「ここをよく使うか」と局員は言った。
「はい」と朝霧は言った。本から目を上げた。
「17番の生徒も来るか」
「たまに」
「どんな様子だ」
「本を読んでいます」と朝霧は言った。「それだけです」
局員は朝霧を見た。少し間を置いた。
「そうか」
局員が図書室を出た。
朝霧は本に視線を戻した。ページが全く進んでいなかった。
放課後、17は一人で校舎を歩いていた。
前に人が立っていた。
局員ではなかった。四十代くらいの男だった。スーツを着ていた。背が低く、穏やかな顔をしていた。
桐野だった。
「少し話せるかな」と桐野は言った。
「どうぞ」と17は言った。
廊下に二人が立った。放課後の廊下は静かだった。
「君のことが気になってね」と桐野は言った。「計測不能というのは、長年この仕事をしていて初めて見た」
「そうですか」
「怖くないかい。自分が何者かわからないのは」
「以前も同じことを聞きましたね」と17は言った。
「そうだったね」桐野は少し笑った。「答えは変わったかい」
「変わりません」
「特に怖くない、か」桐野は17を見た。「強いな。本当に」
17は答えなかった。
「一つだけ聞かせてほしい」と桐野は言った。
「何ですか」
「君は灰島迅という名前を知っているか」
廊下が静かになった。
17は桐野を見た。桐野も17を見た。三秒。
「知りません」と17は言った。
桐野は少し間を置いた。
「そうか」と桐野は言った。穏やかな声だった。「それは残念だ」
「何か用がありましたか」
「いや、今日はこれだけだ」桐野は17から視線を外した。「ありがとう、話してくれて」
桐野が廊下を歩き始めた。曲がり角の手前で止まった。振り返らなかった。
「君が好きだよ」と桐野は言った。
「は?」
「正直な人間が好きだ、という意味だ」桐野は歩き続けた。「嘘をつくのが上手い人間も、同じくらい好きだが」
桐野が曲がり角を曲がった。
廊下に17が一人残った。
桐野の最後の言葉が頭に残った。
嘘をつくのが上手い人間も、同じくらい好きだが。
嘘ではなかった。そしてこちらの嘘も、全部わかっていた。
二人とも、全部わかった上で話していた。
夜、17は屋上にいた。
桐野の顔を思い出した。灰島迅という名前を出した。探っている。自分と灰島の繋がりを知っている。その上で直接確認に来た。
次は何を動かしてくる。
17は空を見た。星が出ていた。
学園内の気配を一つ一つ確認した。白瀬が寮にいる。朝霧も同じく。桐島と水無瀬はまだ職員室にいる。
柊は。
寮の自室にいた。窓の明かりが点いていた。
17はその光をしばらく見た。
今日、柊が言っていた言葉を思い出した。
疲れない?
考えたことがなかった。ずっと見えている。止めることができない。それが当たり前だったから、疲れるかどうかを考えたことがなかった。
疲れているのかもしれない。
でもそれを誰かに言ったことは、一度もなかった。
夜風が吹いた。明かりが揺れた




